ヒトと、エルフィアと、そして……
フリージアたちがエルフィアの里を出たのは、翌日の事だった。
去る前にもう一度フォルスとの対話を望んだ彼女だったが、再三の要求に、彼は応じようとはしなかった。そして、まるで彼女を避けているかのように、代わりにエイギルという水色がかった銀色の髪と深い青色の目をしたエルフィアを寄越したのだ。
取り成すような笑みを浮かべたエイギルに文句を言っても仕方のないことで、フリージアは彼にソルを連れていくことを告げた。
エルフィアが外界と関わりを持つことを疎み、フリージアはてっきり彼に渋い顔をされるのかと思っていた。だが、事前にソルから聞いていたように、エイギルは実にあっさりと頷いたのだ。
「構いません。ソルはもう子どもではありませんし、ここから誰かが旅立つことを禁じてはいませんから」
「そう、なんだ……」
ここでもソルは子どもではないと言われ、フリージアはどんな顔をしたらよいのか迷った。結局そこにはそれ以上触れず、もう一つの用件を口にする。
「あと、この子の事なんだけど」
言いながら、フリージアはエイルを彼の前に押し出した。
「その子……?」
白銀の髪を目にしたエイギルは、その繊細な眉を微かに歪める。まるで、何か嫌なものを目にしたかのように。
フォルスの時と同じだ。
エイルや――そしてラタを見る時、何故か、彼らは渋い顔になる。
それまで感じの良かったエイギルのそんな表情に、フリージアはキュッと唇を噛んだ。そして、気を取り直して続ける。
「エイルを、ここに置いてもらっていいかな?」
フリージアのその台詞と共に、エイルが彼女の服の裾を強く握り締める。きっと、受け入れてもらえるかどうかが不安なのだ。元気づけるように笑いかけながらその小さな手を取り握り返してやって、再びエイギルに目を向けた。
「この子、ニダベリルで人間に捕まってたんだ。多分、小っちゃい頃からずっと閉じ込められてたんだと思う。ここでゆっくり過ごさせてあげたいんだ」
「ここで、ですか?」
そう繰り返したエイギルは、明らかに気が進まなそうだ。
「そう、だって、仲間と一緒の方がいいと思うんだ」
頷いたフリージアに、しかし、彼はかぶりを振った。
「その子は私たちの仲間――エルフィアではありません」
「え? だって……」
「その子は、エルヴン――エルフィアと人との間にできた子です。エルフィアとは違うのです。ここにいて幸せになれるとは、あまり思えません」
けれど、純粋なエルフィアではないとしても、力はあるし、どちらかというとヒトよりもエルフィアに近い筈だ。ヒトの間にいるよりも、エルフィアに交じった方がいいようにフリージアには思える。
そんな思いが顔に出ていたと見え、エイギルは少し困ったような色をその目に浮かべて続けた。
「貴女方も、その子をヒトの仲間、とは思われないでしょう? 私達も同じです」
「それは――そうだけど……」
彼に言われて、フリージアは口を噤む。
確かに、ヒトとの間にできた子だと言われても、それはヒトではない。けれど、だからといって、エイギルの言い分には頷けなかった。純粋なエルフィアではないからといって、エイル達を見る時の彼らの様子は、何だか気に入らない。
隠すつもりもないフリージアの不満は明らかにエイギルに伝わったようで、彼は更に続けた。言いにくそうに。
「ヒトとエルフィアの間に、確かに子を成すことはできます。けれどもそれは、必ずしも望まれて、というわけではないのです」
「え……」
「考えてもみてください。確かに我々の外見は良く似ています。けれど、生きる長さがあまりにも違い過ぎるのです。力の有無などはたいしたものではありません。けれど、流れる時の速さの違いは、大きい。そのソルも五十年を生きていますが、外見は貴女方からしたらまだまだ子どもでしょう? 我々にとって、ヒトの一生は短すぎます。それでも、よほど強い想いがあればその違いを乗り越えられるのかもしれませんが、ごくごく稀な事です」
エイギルは一度口を閉ざし、チラリとエイルに目をやって、また重い口を開いた。
「殆どのエルヴンは、エルフィアが望まず作られた子なのです。そして、ここには、その子を目にする度につらい記憶を呼び戻されてしまう者がいます。彼らにも、その子が悪いのではないことは判っています。けれど……」
愛情無くして作られた命。
ヒトの側が、何を求めてそうしたのか。
ろくに考えずとも、エイルが囚われていた時の様子から、その理由は推察できた。
唇を噛んだフリージアに、エイギルがそっと告げる。
「それでもその子が望むなら、ここにいさせるのは構いません。けれど、その子自身は、何と? 見たところ、とても貴女に懐いているようですが」
「エイルが――?」
彼に言われて、フリージアはエイルを見下ろした。と、その銀色の目も彼女をジッと見返してくる。
「えぇっと……エイルは、どうしたい? ここに残る? あたしと戻る?」
エイルはエルフィアの里に行けば幸せになれるのだと、フリージアは思っていた――思い込んでいた。だが、今のエイギルの話を聞いた後では、その確信が揺らいでしまう。
自分の見込み違いに戸惑いながら発した彼女の問いに、ほんの一瞬も迷う様子を見せずに、エイルは即答する。
「フリージアといる」
「え?」
「フリージアといる」
その短い言葉は、キッパリと、同じ口調で繰り返された。
「何だぁ……じゃ、最初っからそう言えばよかったのに」
王都グランディアにいた時にも、何度か訊いたことがあったのだ。エイルはどうしたいのか、と。だが、その時は首をかしげるだけで、エイルは答えを寄越さなかった。
エイルの気持ちが判っていれば、わざわざ連れてくる必要はなかったのに。
と、その時、それまでは黙って静観していたオルディンがふと気付いたように口を挟む。
「ああ……もしかして、『どうしたいか?』だったから答えられなかったんじゃねぇの?」
「どういう意味? 今だって、おんなじこと訊いたよ?」
訝しげに問い返したフリージアに、オルディンが肩を竦める。
「今は、ここに残るか、ジアと行くかって訊いただろ? どっちか選ぶのはできても、曖昧に『どうしたいか』ってのは、こいつには判らねぇんじゃねぇの?」
フリージアは目を丸くしてエイルと見下ろした。
「そうなの? でも、あたしがどうするつもりなのかってことは、言っておいたでしょ? エイルにここに来るつもりがなかったんなら、家で待ってたらよかったのに」
気を遣ったとは言え、それなりに強行軍の旅路だった。一日の大半をスレイプの背で過ごす行程は、決して楽ではなかっただろう。
唇を尖らせたフリージアだったが、続くエイルの答えに眉根を寄せた。
「フリージアが行くから」
それだけ言ってフリージアを見上げてくるエイルのひたむきな目には、彼女しか映っていない。いや、エイルの世界には、そもそもフリージアしかいないかのようだ。
フリージアはエイルに向き直り、その肩に両手を置く。そして、銀色の目と真っ直ぐに視線を合わせて言い含める。
「あのさ、エイル。君の世界にいるのはあたしだけじゃないんだよ? それじゃ、ダメだ。もっと、色んなものも見てよ」
エイルがフリージアに懐いているのは、雛鳥が最初に見たものを慕うのと同じようなものに違いない。いつまでもそのままではいけないだろう。
だが、フリージアのその台詞をエイルは理解できているのか、いないのか。首をかしげたままキョトンと彼女を見上げるだけだ。
「もう……まあ、いいか。その辺はおいおい何とかしていこう。結局、エイルは連れ帰るし、フォルスとも話しできなかったし、実りはなかったかな……」
ぼやいたフリージアに、脇から不満そうな声が上がった。
「あら。わたしのことは?」
「あ、ゴメン、ソル。ソルと逢えたのはおっきな収穫だった」
あははと笑い、ジトリと睨み上げてくる幼女の銀朱色の頭を撫でる。
彼女のご機嫌を取ってから、再びエイギルに向き直った。
「あたしたちは、もう行きます」
「ええ……何もできずに申し訳ありません。しかし、お伝えしたように、私たちはフレイ王の決断に従います。それがいかなるものであろうとも、恨みはしません」
穏やかな口調の彼の言葉に、フリージアは頷く。そして、その深青色の目を見返しながら彼女は言った。
「今回はこのまま帰るけど、フォルスに伝えておいて欲しいんだ。もしもニダベリルと戦争になって、その戦いに勝ったら――ううん、絶対勝つけど――そうしたら、また話があるって」
「話?」
「うん。本当は、今回聞いておきたかったんだけど、あんまりじっくり話してる暇ないし。これは、エルフィアの間で話し合って、エルフィア自身に決めて欲しいことなんだ。王様から命令されて従うんじゃなくて」
「どのような事でしょう?」
「ちゃんと説明したいから、フォルスときっちり顔を合わせて話をするよ」
「……わかりました。お伝えしておきます」
怪訝な顔をしながらも、エイギルは頷いた。
「お願いね」
パッと笑って彼にそう念押しをすると、フリージアはオルディン達に振り返った。
「じゃ、行こうか」
「ああ。けどな、足はどうする? さすがに四人スレイプに乗せるのは、手狭だぜ?」
オルディンの台詞に、フリージアも眉間に皺を寄せた。確かに重さ的にはたいしたものではないが、エイルとソルを両方抱えておくのは少々難しいかもしれない。
「それは、そうだね……歩いてく?」
日にちさえかければ、不可能ではないだろう。ラタに跳んでもらって、フレイやミミルに遅れる旨を伝えたらいい。マナヘルムに滞在した期間は約束を守っているから、ミミルに叱られることはない筈だ。
腕を組んだフリージアに、エイギルが声をかけてきた。
「それならば、この里の馬をお譲りしましょう」
「馬? いいの?」
「ええ。森や山を歩くのに慣れた馬ですから、扱い易いと思います」
「ありがとう! 馬なら、ヨルムの背骨を出るまでに何日くらいかかるかな七日くらい?」
「そうですね、五日も見れば足りると思います。一人、こちらから道案内を付けましょう」
「それは助かるよ。そっから王都まで、また五日ってところかな」
オルディンを見上げて確認すると、彼は頷いて寄越した。
「まあ、そんなところだろう」
「よし、じゃあ――ラタ!」
フリージアは少し離れて佇むラタに声をかける。ラタはその場に止まったまま、彼女に視線を向けた。
「王様たちに、十日後くらいに帰るからって、伝えてもらえる? 連れができてスレイプに乗れなくなっちゃったから、馬で帰るよって」
「わかった」
ラタは小さく頷き、そして瞬時に掻き消える。それを見届けて、フリージアは最後にもう一度エイギルに向き直った。
「じゃあ、あたしたちは帰ります。さっきの事、フォルスに伝えてね――その時は逃がさないからって」
冗談めかして、けれどその新緑の目には真剣な色を宿して、念押しをする。
そうして、クルリと踵を返してオルディン、エイル、ソルを見渡した。
「よし、じゃぁ、帰ろう!」
*
王宮の一画で、廊下を歩いていたミミルは不意にラタに呼び止められた。振り返ると、柱の陰から白銀の姿が現れる。
「ロウグ将軍は?」
彼女たちが戻ってきたという報せは、彼の耳には届いていない。王都まで来ていなくても、近隣の村や町で姿を見かけたらすぐさま彼の元に連絡が来るように手配してあるのだが。
嫌な予感に微かに眉をしかめたミミルに、ラタは彼の予想通りの言葉を返してくる。
「帰りが遅くなる。エルフィアを一人連れ帰るから、馬で帰ることになった。十日ほどかかる、と」
「エルフィアを? 何故、また、そのようなことに……」
呆れ半分、諦め半分で呻いたミミルを、ラタは無言で見つめている。恐らく、何か伝言はないかと待っているのだろう。
マナヘルムから馬で帰るとしたら、立ち寄る町は限られてくる。
そして、翼竜ならばまだしも、馬でとなるとその分、人目に触れる機会も、無防備になる時間も増えるだろう。その間、護衛はオルディン一人だ。
ミミルはしばらく考えて、指示を出す。
「一つ、頼まれてくれ」
そう告げた彼の言葉に、ラタは小さく頷いた。