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ジア戦記  作者: トウリン
第二部 大いなる冬の訪れ

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26/71

オルディンの決意

 時間を見計らってバイダルとの手合わせを終え、オルディンは会議室へと続く廊下を足早に歩いていた。


 そろそろ今日の議題にもけりが着いている頃合いの筈だ。迎えに行くとは言っておいたが、フリージアがおとなしく待っているとは限らない。

 都に足を踏み入れて以来、王宮やロウグの屋敷の中であればさしたる危険はあるまいと、オルディンは考えていた。誰かしらの目があるから、何かあったとしてもさほど緊急の事態になることはないだろう、と。


 だが、先日ゲルダの死にまつわる話をサーガより聞かされてから、どうにも不安が拭い去れずにいた。


 ゲルダの命を奪った毒。

 その威力を、彼はよく知っている。標的が気にも留めないような小さな傷から侵入し、じわじわと内臓を壊した末に死をもたらすのだ。

 オルディンも同じその毒を用いていくつもの命を奪った――そう、ゲルダを襲った刺客は、かつて彼が属していた組織の者だ。


 彼が幼い頃のフリージアの命を狙ったということは、すでにオルディン自身の口で彼女に伝えてある。それが二人を出会わせ、彼女を母の元から旅立たせるきっかけになったのだということを。


 ビグヴィルがフリージアを迎えに来たあの日からしばらくして、オルディンは彼女に全てを明かしたのだ。その当時、裏の仕事を請け負う組織にいたのだということも――両手の指でも足りない程の人間を、彼がその手であやめたのだということも。

 それを聞いた後フリージアはしばらく黙って考えていたが、やがて彼の目を真っ直ぐに見つめて言ったのだ。


「でも、今は殺してない。そうでしょ? あたしと一緒に過ごすようになって、意味もなく人を傷付けたことはないよね」

 頷いたオルディンに、フリージアは続けた。

「あたしがその頃のオルの傍にいたら、殴り付けてでも止めたのになぁ」


 そして、大きく一つ息をして。


「ねえ、オル。オルはその頃の自分のことをどう思ってるの? 殺しちゃった人のことは?」


 ヒタと見据えてくる緑瞳は、わずかなごまかしも赦しはしなかった。オルディンはその目を見返しながら、答えた。


「愚かだったと、思っている。時を戻せるものなら戻したいさ」


 彼が奪った命の中には、そうされて当然の者もいた――だが、そうではない者もまた、いたのだ。幼い頃のフリージアのように。


 オルディンは無造作にそれらの命を刈っていた。何も考えず、ただ命じられるがままに。

 彼に頭は付いていたけれど、それは無いも同然のものだったのだ。

 人を殺したということと、それが自ら考え選んだ行為ではなかったということ。

 そのどちらの方が、より責められるべきなのだろう。


 ――オルディンには、どちらも同じ重さに思える。


「俺は、救いようのない愚か者だったんだ」


 呟くと、フリージアは小さく首をかしげて彼を見上げてきた。

 全てを貫く眼差しで。


 オルディンは、黙ってそれを受け止めた。

 受け止めながら。


 彼女がいなければ、きっと、未だにオルディンは愚かなままでいただろう。

 彼女がいなければ、きっとオルディンは未だに誰かに言われるがままに動くだけの木偶人形から変われずにいたに違いない。


 そう思うと、ゾッとした。


 オルディンがフリージアを連れ出した時、彼女はまだ三歳だった。背など彼の腰にも届かず、片手で襟首を掴んで持ち上げられるようなちっぽけな存在だった。だが、そんな頃から、彼女は己の頭で考え、そして動いていたのだ――十代半ばを越えても自分の考えというものを持たなかった彼とは違って。


 オルディンの考えも及ばないような突拍子もないことをフリージアがしでかす度に、彼は呆れ、驚き、そして笑った。全てがそれまでの生活とは一変し、見える世界の色さえ違うような気持ちになったのだ。

 フリージアと共に過ごし彼女を見守るうちに、オルディンは、自ら考え、決定し、動くということを学んでいった。


 ゲルダは旅立つ時、娘を一年間だけ連れ回せと、オルディンに言った。そして、そうすることで彼女の幼い娘が彼の生きる理由になるだろう、とも。


 その予言の成就には、実際のところ、一年も必要とはしなかった。


 今は、フリージアがオルディンの生きる理由であり、彼女を護ることが今の彼の全てだった。

 だから、フリージアに彼の過去を打ち明けることが恐ろしかった。


 他者を大事に想う彼女にとって、オルディンがしてきたことは到底受け入れられないようなものだということが判っていたから。


 フリージアに背を向けられたら、きっとオルディンは生きていかれないだろう。

 しかし、彼の過去を聞いてフリージアが彼を糾弾し、拒むのならば、それを甘んじて受けるつもりだった。彼女の前から姿を消し、陰から守り続けようと、思っていた。


 だが、長い間黙り込んでいた彼女が口にしたのは、別の台詞だったのだ。


「その頃のオルは、自分で考えていなかったんだよね? 命令されたことを、そのままやってたんだよね?」

「ああ、そうだな」

「じゃあ、ちゃんと自分の頭で考えるようになった今なら、もう、絶対に同じことはしないよね?」

「ああ」


 また、無言。そして。


「バッカだよねぇ。その頃って、今のあたしよりも年上だったんでしょ? そんないい歳して、自分の頭を使ってなかったんだから」


 耳と心に突き刺さる台詞を呆れたように言い放ち、不意に、フリージアは腕を伸ばして彼に抱き付いてきた。


「あたしの知らないオルがやったことは、確かに赦されない事なんだけど、でも、あたしは、今のオルしか知らないんだもん。どうやったって、オルを嫌いになんかなれないし」


 その時の彼には、フリージアを抱き締め返すことができなかった。ただ、彼女の温もりが胸に染み入ってくるのを感じるだけで。


 どれだけの時間、そうしていたか。

 フリージアはひょこんと顔を上げ、彼にいつもと変わらぬ笑みを向けたのだ。


「過ぎたことは取り戻せない。どうやっても赦されるもんじゃないよ。過去を消し去ることなんて、絶対にできないんだし。だから、ずっと昔の事で、これから先のオルのことを決めるなんて、できない。あたしは、償うっていうのは、今と未来をちゃんと生きてくってことじゃないかと思うんだ。だからさ、これからを頑張ろう? 多分、これからオルがどれだけたくさんの人を幸せにできるのかってことに、かかってると思うんだ。それだったら、あたしも手伝えるからさ」


 胸が、痛かった。締め付けられるように痛かった。


 他の誰が赦さなくても、きっと、フリージアだけはオルディンを赦すのだろう。全ての者が彼に向けてそしりの声を上げたとしても、彼女だけは彼の隣に立っていてくれる。


 その時、オルディンはぼんやりとそんなことを思ったものだった。


 フリージアは、この国を護る将軍となる。オルディンは彼女を守る者となる。そしてそれは即ち、彼自身もこの国の人々を護るということにはなるのではないだろうか。彼女がそうすればいい、と言ったように。

 フリージアを守る――その為に剣を振るうということに、もう一つ新たな『目的』が備わったのは、その時だった。


 茫漠と過去に舞い戻っていたオルディンだったが、廊下の先から歩いてくる老人に気付いて足を止める。


 かくしゃくとした老人――宰相ミミルだ。

 当然のことながら、オルディンはミミルと言葉を交わしたことは殆どない。ミミルからすればオルディンなど庶民の一人だし、オルディンからすればミミルは雲の上の存在だ。


 いつもであれば、会釈すらしない。

 だが、今日は違った。ミミルはすれ違いざまにチラリとオルディンに目を走らせ、短く言った。


「くれぐれも、身辺に気を付けるように」


 そうして、振り返ったオルディンが彼を呼び止める隙を見せずに、老人とは思えぬ姿勢と足取りで廊下を去って行く。


 彼がああ残したということは、つまりマナヘルム行きが決まったということだ。

 仮にも『将軍』という地位に就くものがこうも頻繁に出歩くというのはいかがなものかと思うが、今まで好き勝手に生きてきたフリージアを常識で縛ろうというのは土台無理な話なのだろう。


 やれやれと思いつつ会議室に向かうべく振り返ったオルディンの目が、今度はビグヴィルの姿を捉えた。


「おや、オルディン殿。フリージア殿はまだ会議室の中だ。王妃様と話してらっしゃる」

「ああ、ちょうどいい。あんたにも用があったんだ。これを用意しておいてくれないか?」


 その台詞と共にオルディンがビグヴィルに渡したのは、小さな紙切れだ。そこにはいくつか文字が書き連ねてある。


「……これは?」

「薬草だ。どれも西の方で採れるから、あっちに行けば集まる筈だ」

「どこか、具合でも悪いのか?」

「いや……まあ、いざという時の為にな。できるだけ早く、頼む」

「構わぬが……では、今日にでも人をやろう」

「助かる」


 オルディンはそう言って小さく頭を下げた。


「何、早馬を繋げば貴殿らがマナヘルムから戻るかどうかのうちに届くだろうて。では、またな。国内だから危険はなかろうが、油断は禁物だぞ?」

「ああ、判ってる」


 そう、敵の姿を知っている分、恐らくこの王宮内の誰よりもオルディンが一番身に染みている筈だ。ビグヴィルは一つ深く頷くと、オルディンの横を通り抜けていった。

 その後ろ姿を束の間見送り、オルディンはまた歩き出す。廊下の角を曲がれば、じきに会議室だ。


 会議室は長い廊下の途中にある。真っ直ぐに伸びた廊下の更にその向こうには、謁見室やら王たちの起居する部屋やらがあった。扉の両脇に兵士が立っているということは、王か王妃、あるいはその両方がまだ部屋の中にいるということだ。


 会議室の扉の前でオルディンは壁に寄りかかり、待つことしばし。

 痺れを切らすほどの時間はかからなかった。扉が開くと、中から出てきたフリージアがオルディンの姿を認めて笑う。


「あ、待っててくれたんだ」

「ああ」

「行ってもいいってさ、マナヘルム」

「ああ、聞いた」


 歩き出しながら、フリージアは計画を語り出す。とはいえ、そうたいしたものではないのだが。


「スレイプに乗ってくから移動はずいぶん楽だよね。多分、三日あればヨルムの背骨までは着けると思うんだけど。で、そっから先は、ラタに案内してもらおうかなって。地上から、道標代わりに何か所かで狼煙を上げてもらうんだ。あっちにいるのは二日間だけ。うぅん……その二日間で、どれだけ話せるかなぁ……」

「あいつに先触れになってもらったら? その方が無駄がないだろう?」

「それも考えたんだけど……前もって行くよって言っちゃって、来るなって返されたら行けなくなっちゃうでしょ? だから、不意打ちで」


 えへへと笑った彼女に、オルディンは半ば呆れを含んだ視線を流した。

 と、彼は瞬時に真顔に戻り、フリージアの腰に腕を回して掻っ攫うと一歩横にずれる。


「ふえ?」


 フリージアが間の抜けた声を上げたのとオルディンが立っていた場所を銀色の光が縦に切り裂いたのとは、ほぼ同時のことだった。


「まったく……」


 腕の中のフリージアを壁際に追いやって、オルディンはぼやきつつ向き直る――彼に向けて剣を振り下ろしたその男に。


「チッ、避けられたか」


 舌打ちをしながらもその赤い目の輝きが楽しげなのは、多分、オルディンの気の所為ではない。赤い目の男――ロキスは、そこで止める気はないらしい。


「剣抜かねぇの?」

「こんな所で抜くか、バカ」

「相変わらず余裕だねぇ」

 ニヤリと笑ったロキスは、次の瞬間刃を走らせた。


 最初の一閃をフリージアから離れるように動いてかわし、オルディンはやれやれとため息をつく。その間も、縦に横に繰り出される剣を避けながら。

 この男の速さも力も技も、それなりに優れている。だが、若干大振りなのだ。


 ――そこんところが改善すりゃ、そこそこ手こずる相手になるんだけどな。


 ロキスのその剣を警戒する相手であれば、彼に軍配が上がるのだろう。だが、彼の動きを見切る目を持ち、その目を信じることのできる者であれば、勝てる。

 ロキスの速さに怯まずにいられる者は多くはないかもしれないが――オルディンはその少数の方の一人だった。


 オルディンの前で一際大きく上段に腕を振り上げたロキスの懐へ、床の一蹴りで跳び込む。一転、振り下ろされた彼の右腕を自身の腕を絡めるようにして取った。そのまま腰を捻り、ロキスの足を払いざまに背中から叩き落とす。


「グ……ッ!」


 呻いたロキスに起き上がる暇を与えず、オルディンは蛇のような素早さで剣を握ったままの彼の左腕を踏み付け、右手で首を掴んだ。


「潰しちまってもいいか?」

 肩越しにフリージアを振り返ってそう訊くと、当然のことながら、彼女は首を振って返す。

「ちょっと、それはまずいよ」

「だってさ」


 床に仰向けになっているロキスにそう一声かけて彼から手を放し、オルディンは立ち上がった。


「俺達はしばらくまた留守にするからな。おとなしくしてろよ? バイダルに迷惑かけるなよな」


 オルディンがいなくなれば次にこの男が目を付けそうなのは、バイダルだ。尋問が無くなり時間が余るようになったこの男に、きっと、毎日絡まれることだろう。気の毒な事だ。


「え? 何だって? どこ行くんだよ?」


 身を起こしながらそんな声を上げるロキスは無視して、オルディンは顎をしゃくってフリージアを呼ぶ。


「行くぞ、ジア」

「あ、うん。じゃあね、ロキス」


 タタッと彼の元へと駆け寄ってきたフリージアの肩に手を回し、何となく、床の上のロキスから遠ざけた。特に、深い意味はないのだが。


「おい、ちょっと待てって」


 呼び止めるロキスの声は完全に耳から耳へと素通りさせ、二人はその場を後にした。


   *


 ――暗い、暗い、部屋の中。


 その部屋の中で、彼の前には、今、一人の男が佇んでいた。

 黒衣に身を包んだその男の気配は薄く、目を逸らしたら一瞬にして見失ってしまいそうな気さえする。


「では、そのように」


 彼の言葉を聞き入れた男は短くそう答え、スッと闇に紛れるように消えていった。


 その場に残る者は、彼一人。

 再び、矢は放たれた――ロウグ家の娘を目指して。


 彼があの家の者の命を狙うのは、これで四度目だった。四度刺客を放ち、そして、成功したのは一度きり。


 今度の矢は、命中するだろうか――彼自身、それを望んでいるのだろうか。

 ニダベリルから戻った彼女がかの国の力に恐れをなしてくれれば、良かった。あの国には敵わない、戦いは止めておこう、と思ってくれさえすれば。


 だが、彼女は、更に決意を固くしただけだった。


 今日の議題では、開戦するか否かは論じられていない。だが、あの娘の目を見て、彼には彼女がどんな選択をしたのかが判ってしまったのだ。


 彼女が選ぶ道を、彼は望まない。

 だから別の道を作ろうと思った――彼女を消し去ることで。


 まだ、止められる。まだ中止の合図を出すことができる。

 ――では、止めるか?


 彼は暗闇の中で色の薄い頭を振る。


 もう、遅いのだ。彼女の母親の命を奪った時から、彼はすでに引き返せない道へと足を踏み入れてしまったのだ。


 これが、この国にとって一番良いことだ。

 勝てる見込みなどない戦いを避け、あの国におとなしく従うことが。


 彼は、この国を愛している。この美しい国が戦火に踏みにじられる様など、見たくないのだ。


 彼は深く、長く、息をつく。

 そうして踵を返し、明るい光の中へと戻っていった。


進行遅くて、すみません……

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