先触れ
ザッと茂みを割って、一つの影が飛び出した。
小柄な身体、編んだ長い赤毛が尻尾のように数瞬置いて後を追う。
少女だ。
身に着けているものは色気も素っ気もない男物だが、華奢な肩は明らかに少年の骨格ではない。右手に剥き出しの細身の剣を携え、少女は森の緑よりも鮮やかな色のその目を煌めかせて、ちらりと背後を窺った。
葉擦れの音だけでなく、バキン、ボキンと枝の折られる音がものすごい勢いで近付いてくる。
彼女の後を追って茂みから現れたのは、仔牛ほどの体躯に黒灰色の毛皮をまとう牙狼だ。下顎を越すほどの長い牙の先から涎を滴らせ、鋼鉄の熊手のような鉤爪で地面を蹴立てて彼女に迫る。
捕まれば、一瞬にして噛み砕かれ、引き裂かれるだろう。
剣を持っていても、こんな細腕の少女に太刀打ちできる筈がない。だが、かと言って、いつまでも走り続けるわけにもいかないのだ。人間と牙狼では持久力が違いすぎる。少女が力尽きるのは、時間の問題だった。
と、不意に。
何を思ったのか少女が足を止め、クルリと牙狼に向き直る。
牙狼の方はといえば、勢いの付いた巨体をそう簡単に止めることはできず、脚を絡ませながら彼女に突進し続ける。それを最小限の身のこなしでかわし、少女は隙なく牙狼の動きを目で追った。
少女の脇を通り過ぎた牙狼は落ち葉を蹴立てて何とか方向を変えると、頭を低くして唸り声を上げる。
少女は牙狼をヒタと見据えたまま、首に下げていた笛をくわえた。そして、吹く――が、音は鳴り響かない。無音であることに頓着せず、彼女は口から笛を落とすとゆっくりと剣を構えた。
牙狼の唸り声、そして跳躍。飢えた獣の身のこなしは素早い。
人であれば十歩はかかるその距離を、一跳びで縮めてくる。
とうてい勝てる筈がないモノを前に、至って冷静に、少女は鋭く剣を振るった。
直後。
「キャウン!」
まるで仔犬のような悲鳴が、杭のような牙が並ぶ口から漏れる。少女の刃は、狙い違わず、牙狼のむき出しで敏感な鼻先を切り裂いていたのだ。
ジリジリと少女は慎重に後ずさりし、悶絶する牙狼と距離を取る。
ひとしきり情けない声を上げていた牙狼だったが、やがて血液混じりの赤い涎を垂らしながら、その濁った眼にそれまでの餌に対する欲求だけではなく、明らかな怒りの色を滾らせて少女を睨み付けてきた。
このままでは、彼女に勝算はない。
しかし、少女は息一つ乱すことなく巨大な獣に対峙している。そこに恐怖や不安は微塵も感じられない。
牙狼も懲りたと見えて、猛々しい唸り声を轟かせながらも安易に跳びかかろうとはしない。互いに相手の動きを窺い、ピクリとも身じろぎしなかった。
どれほどの時間が過ぎた頃だろうか。ふと、少女の口元が緩んだ。そして、小さく呟く。
「――来た」
その言葉と共に、一歩を踏み出す。それが引き金になったかのように、少女目がけて巨体が跳んだ。
少女は逃げようとしない。
鋭い鉤爪が、濡れて光る長大な牙が、少女に届かんとした、その時。
ザザッと頭上の木々の梢を揺らし、一人と一匹の上に何かが舞い降りる。そして、次の瞬間、牙狼の頭を、少女が手にする剣の数倍の太さを持つ刃が貫き、地面に縫い止めていた。
ドウ、と音を立てて巨体が地面に倒れ伏す。その背に立つ大剣の主は、黒衣に身を包んだ青年だ。彼は完全に沈黙した黒灰色の身体からゆっくりと下りると、慎重に剣を引き抜いた。
しゃがみこみ、牙狼が完全に息絶えたことを確認する彼の背後で、少女が鈴を振るったような声を上げる。
「オル!」
名を呼ばれ、青年は振り返った――その目に怒りを湛えながら。
*
青年は、自分に向って小走りで近寄ってくる少女を睨み付けていた。
彼の名はオルディン。少女が口にした『オル』は、彼女だけが呼ぶ愛称だ。そして、少女の名はフリージア。オルディンは彼女を『ジア』と呼ぶ――通常は。
「フリージア」
低い声でのその呼び方に、フリージアの足が止まる。
「オル?」
立ち止まったフリージアにつかつかと歩み寄ったオルディンは、無言で拳を上げると唇を引き結んだままそれを彼女の頭に落とした。
「痛ッ! 何するんだよ!」
「黙れ。俺は、こいつを見つけたら静かに隠れて竜笛を吹けと言わなかったか? 静かに、隠れて、と」
息絶えた牙狼を指さしながらの彼の台詞に、フリージアが唇を尖らせる。
「言った。でも、うまくいったじゃないか」
「たまたまうまくいっただけだろう。俺が間に合わなかったらどうなっていたと思うんだ」
「間に合うに決まってる」
「ふんぞり返って言うことか。その根拠はなんなんだよ、根拠は」
「オルだから」
きっぱりと言い切った彼女に、オルディンは二の句を継げなくなった。言うべきことは言い終えたとばかりにフリージアは、両手を腰に当て、ふんぞり返って彼を見上げてくる。
ケロリと平然とした顔をしているフリージアと渋面のオルディン。
互いに譲らず睨み合う。
と、不意に、梢の間から二人の上に降り注いでいた陽光が陰った。
「あ、スレイプだ。あいつも待ちくたびれてるよ」
バサリと響いた羽音は、オルディンの騎竜のものだ。卵から孵った時から彼が育てた飛竜は、その図体にそぐわぬ甘えん坊だった。突然背中から消えたオルディンを探しているのだろう。
まったく悪びれた様子なく上空を行き来しているスレイプに手を振るフリージアに、オルディンはため息をつく。やはり、育て方を間違えたのか。何度注意しても無鉄砲な行動が治らない。
やっぱり、どこか一所に腰を据えて落ち着いた生活を送らせるべきなのだろうかと、最近頓に思うようになったオルディンであった。
このグランゲルドは豊かな森と水を誇る農耕国家だ。
北の国境線は強大な軍事国家であるニダベリルと接しているが、険しい山や狭い谷、深い森などが自然の要塞となって、虎視眈々と国土の拡大を図るかの国の侵攻を防いでいた。グランゲルドは小さな国だが、野心の欠片もない穏やかな国王の下で、長閑な平和を長きに渡って保ってきているのだ。
そんなグランゲルドで、オルディンとフリージアは行く先々の村で仕事を請け負いつつ、旅から旅への気ままな暮らしをしている。この生活を始めたのは十二年前、フリージアが三歳、オルディンが十七歳の時だ。
初めて出会ってから、十二年。
その十二年間、オルディンにはフリージアだけ。
そして、フリージアにはオルディンだけ、だ。
つまり彼女の『今』は、全てオルディンの負うところなのだが。
今回のこの牙狼狩りも、請け負った仕事だった。
三日ほど前に訪れた村で、オルディンとフリージアの二人は村民を襲う人食い牙狼を退治して欲しいと依頼されたのだ。二つ返事で引き受けた彼らだったが、当初の計画は、空からはスレイプに乗ったオルディンが、地上ではフリージアが捜索し、フリージアが先に見つけた場合は牙狼に気付かれないように、竜笛――竜属にしか聞こえない音を発する笛――を鳴らし、オルディンを呼ぶというものだった。
十人以上を食い殺している凶暴な牙狼とフリージアが追い駆けっこをするというのは、全く、予定に入っていない。
断じて入っていなかった、にもかかわらず。
「ごまかすな。何だってまた、あんな羽目になったんだ?」
「あたしはこっそり探してたんだけど、たまたま鉢合わせしちゃったんだよ」
「だったら木に登ってやり過ごせばよかっただろう」
牙狼は木には登れない。フリージアだったら、牙狼の爪牙から逃れつつ木に登るのは容易なことだった筈だ。
「でも、そんなことしてたらまた見失ってただろ?」
すでに、依頼してきた村の被害は洒落にならないものだった。フリージアにしてみれば、一日でも早く狩らなければならないものだった。だから、自分の行動は正しかったと、胸を張る。
全く反省の色を見せないフリージアに、オルディンはもう一度拳骨を落としてやろうかと拳を握りしめる。
「だがな、俺が間に合わなかったらどうするつもりだったんだ。独りで倒せるとでも思ったか?」
オルディンのその問いに頷きでもしようものなら、今までになく強烈な一撃を見舞ってやるつもりだった。彼はギリリと拳を固める。
だが。
「まさか!」
目を丸くしてフリージアが首を振る。
「こんなの相手に、まともにやり合って勝てるわけないじゃん。ほら、こいつってば、予想外にでかかったからさ、木とかがずいぶん揺れてただろ? オルとスレイプだったら、絶対気付くと思ってさ。呼んだらすぐに来てくれると思ってた」
いとも簡単に絶対の信頼を口にして、能天気に笑う少女に、オルディンの全身から力が抜ける。
フリージアの笑顔は、出会った時から彼に対する最強の武器だった。
彼とて、この調子で毎回ごまかされてしまうのは良くないことだというのは、良く判っている――判っているのだが。
全身を使ってため息をついたオルディンを、フリージアがきょとんと見つめる。
「解かった……もう、いい。さっさとあいつの毛皮を剥いで帰るぞ。あの図体に額の傷跡。間違いなく問題の牙狼だろう」
「じゃあ、あたしはスレイプが下りられそうなところを探してくる」
『気を付けろ』という言葉は、口にするだけ無駄だ。オルディンはヒラヒラと手を振ってフリージアを送り出した。彼女はヒラリと身を翻すと、不安定な足場にもかかわらず軽やかに走り去っていく。
完全にフリージアの姿が見えなくなるまで、オルディンは動かなかった。
彼女の足音すら消え去った頃、牙狼に向かうのかと思われたオルディンだったが、彼の視線が向いたのは、まったく別の方向だった。うっそうと茂る木々の間を睨み据え、声をかける。
「出てきたらどうだ?」
オルディンのその招きに落ち葉を踏んで姿を現したのは、年の頃は十四、五歳の、少年とも少女ともつかない、一人の子どもだった。その髪も目も、冷たく凝る真冬の夜に浮かぶ月のような銀色をしている。
「何か用か、ラタ」
こんな森の中で唐突に年端もいかない子どもが姿を現したというのに、オルディンは落ち着き払ったままだ。何の疑問も抱いていない。
対するラタと呼ばれた子どもの方も、淡々とした口調で答える。
「数日のうちに、迎えが来る」
「え?」
唐突な宣言に、オルディンは問い返す。ラタは表情を変えることなく、続けた。
「事情が変わった。彼女は、戻らなければならない」
「どういうことだ?」
『彼女』とは、フリージアのことに他ならないだろう。いぶかしげに眉をひそめたオルディンに、ラタは肩をすくめる。
「今はゆっくりと話していられない。迎えの者が、説明する」
「問答無用、有無を言わさず、かよ。あいつの意志はどうなるんだ?」
「私は知らない。『彼女』が伝えて欲しいと言ったことを伝えるだけだ」
それだけ言って、ラタの姿が煙のように消え失せる。だが、そんな異常事態にも、オルディンは頓着しなかった。彼の頭の中は、一つのことが占めている。
――何故、今さら。
だが、考えるまでもない。有り得る答えは一つだけだ。
「死んだ、のか」
呟いて、彼の脳裏に残る姿を思い浮かべる。燃える赤毛、青空の色の力強い眼差し。十年以上が経っているにもかかわらず、彼の記憶に残るそれは鮮明だ。
梢の間から覗く晴れ渡った空は、オルディンの目には、何故か、暗い雲が立ち込めているように映っていた。