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ジア戦記  作者: トウリン
第二部 大いなる冬の訪れ

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19/71

解放

 深まりつつある秋の山奥は、日が落ちると急に冷え込みがきつくなった。


 グランゲルドではこの時期まだ虫の音が響いているが、気温が低い為か、全ての村民が眠りに就いた村の中はシンと静まり返っている。


 村の出口に旅の装備とウルを残し、今、フリージアとオルディンは医者の家を目指していた。空に浮かぶのは半月だが、夜目の効く二人なら動くのに支障はない。


 こんな辺鄙な場所にある村には、『見知らぬ者』というのは滅多に訪れることがないのだろう。医者の家は鍵もかかっておらず、簡単に中に入り込むことができた。外から見る限り、部屋数もそう多くはない筈だ。


 入ってすぐは昼に訪れた治療室で、その奥に扉がある。開けてみると廊下が伸びており、左右に二つ、奥に一つ、扉が付いていた。

 侵入する前に外をぐるりと一巡してみたのだが、裏手の窓は板で塞がれていた。外から打ち付けられている、ということは、外部からの侵入者を防ぐよりも中からの逃亡を阻止するのが目的だろう。つまり、逃がしたくないものは奥の部屋にいるということだ。


 足音を殺し、二人は廊下を進む。


 フリージアが奥の扉に手をかけると、そこには鍵がかかっていた。家の外へと続く扉は、無施錠だったというのに。


 片手を振って彼女を下がらせると、オルディンが膝をついて鍵穴を覗き込んだ。そうして取り出した細い棒を穴に差し込むと、慎重に指を動かす。


 じきに、ピン、と微かな金属音が静寂の中に響いた。

 立ち上がったオルディンがそっと扉を押し開け、フリージア、そしてオルディンの順にスルリとその中に滑り込み、閉める。


 物置のような部屋には、窓に打ち付けられた板の隙間から射し込む月明かり程度しか光源がない。

 その暗さにも慣れてくると、部屋の片隅にうずくまる白い影が人の形をしていることが見て取れる。


 フリージアは、ゆっくりとそちらへ近付いた。


 室内は、呼吸の音すら響き渡りそうなほど、静寂に満たされている。

 あまりに静かだったから泥のように眠り込んでいるのかと思ったけれど、エルフィアは、目覚めていた。


 暗闇の中で、銀色の大きな目が微かな光を弾いて煌めく。それは、ジッと近付くフリージアの動きを追っていた。エルフィアの前まで行くと、目の高さが合うように膝をつく。


「あたしはフリージア。昼間、ちょっとだけ会ったよね……って、覚えてないか。ホントに一瞬だったもんね」

 静かな声でそう訊いたが、答えはない。エルフィアは、ジッと彼女を見つめるだけだ。


「その首輪、外すからちょっと待ってね。ジッとして、動かないでよ?」


 言いながら、フリージアは取り出した短刀を皮の首輪にあてがった。エルフィアは刃を怖がる様子もなく、されるがままだ。着けてからしばらく経っているのか、首輪はピッチリと皮膚に密着して、余裕がない。


 エルフィアの白い肌を傷つけないように、フリージアは細心の注意を払って手を動かす。


 やがて、プツリという小さな音と共に首輪が切り離された。グルリと首に残る赤い痕が、痛々しい。だが、エルフィアは痛みなど二の次のように、目に不思議そうな色を浮かべて首回りに触れている。


 フリージアは立ち上がり、エルフィアに向けて手を差し出した。

「おいで、ここから出て、あたしと一緒に行こう? 仲間のところに、連れて行ってあげる」


 空気は、動かない。エルフィアはただ黙って、目の前のフリージアの手を見つめている。


 いつまでもグズグズしているわけにはいかないことは、解かっている。けれども、フリージアは急かすことなく待った。


 背後で、微かに物音がする――オルディンが扉を開いたのだろう。


 エルフィアの視線がそちらに動き、またフリージアの手に戻り、そしてフリージアの目に移った。視線が交差し、彼女はエルフィアに笑いかける。励ましを込めて。


 と、何に驚いたというのか、エルフィアの目が微かに見開かれた。その銀色の眼差しの中に、それまでとは異なる光が宿る。


 ――何か、したかな……?


 エルフィアの表情を動かした要因を探そうと、フリージアは自分の行動を振り返ろうとしたが、振り返れるほどのことはしていない。

 ただ、手を差出し――笑って見せただけだ。

 別に、特別でもなんでもないことだった。


 首を捻るフリージアの指先に、不意に、ひんやりとした、けれども確かな温もりを持ったものが触れる。見下ろせば、彼女の手の上にあるエルフィアの指は細く、そして微かに震えていた。


 何がエルフィアを動かしたのかは判らない。判らないが――フリージアはその手をしっかりと握ると、グイと引っ張り上げる。


 エルフィアは、フリージアとそう大差のない、十二、三歳程度に見えた。だが、予想外にその身体は軽く、引っ張った反動で彼女はよろめきそうになる。


 ふらついたエルフィアをしっかりと立たせ、歩けそうなことを確認して、フリージアはゆっくりと歩き出した。手を引いてもエルフィアは拒むことなく、彼女と共に一歩を踏み出す。


「行こう」


 扉の傍に立つオルディンにそう声をかけ、フリージアは檻のようなその部屋を後にした。


   *


 ロキスたち一行がヘルドを出発したのは、結局日が暮れてからのことだった。


 暗闇に包まれた山の中を、天からの月の光と手に持つ小さな灯かりを頼りに進む。


「まったく、何でこんなことやってんだかな、オレ達は」

 ぼやいたロキスに、活を入れたのはヒュンだ。

「しっかりしろ、自分らは軍人だろ。これも任務だ」


 ろくに腕を振るう機会もなくなって、軍人が聞いて呆れる。


 そう、内心でせせら笑いながら、ロキスは肩を竦めて返した。訓練でも、今の部隊の中に、彼に敵う者はいない。剣を交えてもさっぱり興奮できやしない。もっと、こう、血が沸くようなことが欲しい。それは、急速に彼の中に募りつつある欲求だった。


 退屈な『仲間』から目を逸らし、ロキスは森の中に向ける。


 ――いっそ、冬眠前の飢えた獣でも現れてくれねぇかな。


 そんな考えが彼の頭をよぎった時だった。

 森の中にチラリと何かが動くのを、夜目の効くロキスの深紅の目が確かに捉える。獣では、ない。


「おい、あれ」

 他の四人に抑えた声で呼びかけた。

「何だ?」

「あっちに人がいる」

「はぁ? こんな時間にか?」

 呆れた声を上げたのはオトだ。他の三人も半信半疑の色をその目に浮かべている。


「確かに、人だ。あっちはナイの方だよな?」

「ああ、そうだが……」

「そっちから来たみたいだが――村のヤツがこんな時間に森を歩くと思うか?」

「いや」


 ロキスの問いに、めいめいが首を振る。特にこの時期の獣は、危険だ。昼間ですら気を張って歩かねばならないというのに、夜中に出歩くなど、有り得ない。


「となると、当たり、か?」

 まさかと思ったが、どうやらこの夜間行軍も無駄にはならなかったようだ。


「前後で挟み撃ちにするぞ。オレとヴァリは前、オト、ヒュン、ベリングは奴らの後ろへ回れ」


 瞬間、皆の顔がサッと引き締まった。ダレているように見えても、軍人だ。いざとなれば、即座に臨戦態勢へと切り替わる。


「行くぞ」


 ロキスのその声と共に、彼らはサッと二手に分かれ、音もなく闇にまぎれていった。


   *


「ラタさんと似てますよね」

「だよね。あたしもそう思った」


 オルディンを先頭にして薄暗い森の中を歩きながら、子ども二人は能天気なものだった。エルフィアを間に挟んで、フリージアとウルは声を弾ませている。


 今、彼らは暗い森の中を月明かり一つで進んでいた。


 このエルフィアは殆ど歩いたことがなかったのだろう。村を出てからずいぶん経つが、エルフィアの脚が遅く、あまり距離を稼げていない。フリージアが手を繋いでいてやらなければ、今までに少なくとも十回は転んでいる筈だ。


 エルフィアの時の流れは人とは異なる。フリージアとそう変わらない年齢に見えるラタも、実際は七十年ほど生きている。このエルフィアも、見た目はフリージアよりもいくつか年下のようだが、恐らく、人の一生分ほどの時を過ごしている筈だ。

 果たして、そのうちいったいどれほどの時間を、鎖でつながれて過ごしていたのか。予想もつかないが、かなりの年月であろうことは、確かだ。そのおぼつかない足取りでは、いずれ、オルディンが担いで歩くことになるに違いない。


 エルフィアが閉じ込められていた部屋には鍵をかけ直してきたから、少なくとも朝になるまでは逃げたことに気付かれはしないだろう。だが、今向かっているのはヘルドに近づく方向だった。


 バイダルが待つ対岸へ行くには、どうしても下流にある橋を渡らなければならないのだ。川を渡ればいよいよヘルドの近くを通ることになるから、できれば日が昇るまでにできるだけ離れておきたいものなのだが。

 そんなオルディンの懸念をよそに、フリージアの声が聞こえてくる。


「ねえ、君は喋れないの? 名前は?」

 エルフィアへの問いかけなのだが、返事は、ない。応じたのはウルだった。


「喋れないのかなぁ。医師のところにいた時も、一言も喋ってなかったかもしれません。僕の怪我を治したら、すぐに奥に連れて行かれてしまいましたが……」

「うぅん。でも、耳は聞こえてる筈だよね。ほら、あたしたちの話、聞いてる感じでしょ?」

「そうですねぇ」

 二人して首をかしげていたが、やがてフリージアが明るい声を上げた。


「まあ、いいか。どう呼んでいいか判らないと不便だし、取り敢えず仮の名前を付けよっか」

 そう言うと、フリージアはしばし考え込んだ。


 しばらく、静寂。そして。


「エイルにしよう。怪我とか病気を治してくれる神さまの名前。ぴったりでしょ?」

「はい、いいと思います」

「ね? エイルってどう?」


 オルディンが肩越しに振り返ると、フリージアが無表情なエルフィアを笑顔で覗き込んでいた。

 返事はないだろう、と思われた。多分、フリージアもあるとは思っていなかっただろう。


「エイル」


 ポツリと呟いたのは、フリージアでもウルでもなかった。


「喋れるんだ!」

 声を上げそうになったフリージアが、慌てて両手で自分の口を塞ぐ。


「エイル……名前……」

「そう、名前。喋れるんなら、ホントの名前、教えてくれる? 何て呼ばれてたの?」

 改めて尋ねるフリージアに、しばらく考える様子を見せてから、エルフィアが答えた。


「『おい』」

「『おい』? ……変わった名前だね。まあ、いいか。じゃあ――」

「『お前』」

「ええ? それ、何か違――」

「『おら』」

「はあ?」


 ぽんぽんぽん、と挙げられた単語に、フリージアの声が次第に間の抜けたものになる。眉間に皺を刻んだフリージアに助け舟を出したのは、ウルだった。


「あの……フリージア様、それ、名前じゃなくて、単なる呼びかけの言葉じゃないでしょうか?」

「じゃ、名前はないってこと?」

「そうかもです。あの医師の態度も、人に対する、というよりも……」

「ああ、うん、そうだね……」


 そこから先は、二人揃って言葉を濁す。しばらくまた無言の時が続いたが、やがてフリージアが明るく言い放った。


「まあ、いいや。じゃあ、君の名前はエイルに決定。どう? 他のが良かったら、そっちにするよ?」

 フリージアの台詞に、エルフィアは殆ど間を置かず、答える。小さな、だが、確かな声で。


「エイルが、いい」


 エルフィア――エイルのその返事に、フリージアの顔がパッと華やいだ。

「そっか、じゃあ、エイルね。よろしく、エイル」


 どうやら名前談義はケリがついたようで、三人の会話に耳を澄ませていたオルディンはやれやれと息をつく。


 と。


 オルディンは周囲に意識を張り巡らせる。


 それは、肌を刺すような殺気ではなかった。だが、明らかにこの一行を目指している。物音を立てない身のこなしからすると、村人ではない。となると――


「追手だ」

「え?」

 ボソリと呟いたオルディンの声に、フリージアが反応する。


「しかも挟まれたな」

「あちゃぁ……どうする、オル?」


 そう訊いてくる彼女に、オルディンは束の間考えた。彼がエイルを担いで走れば、もしかしたら逃げおおせるかもしれない。


 だが。


「進む方向が決まってるだけに、逃げにくいな。やるか」

「しょうがないかぁ。ウル、エイルをお願いね。ちゃんと守ってよ」


 即座にフリージアは役割分担を決めてしまったらしい。言いながら、エイルの手をウルに委ねる。ウルとしては、騎士として立つ瀬がないかもしれないが、彼よりも明らかにフリージアの方が腕は上だ。判断は、妥当だろう。


「来るぞ」


 オルディンのその声とほぼ同時に、彼らは姿を現した。


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