囚われし者
その医者が診察室の奥から連れてきたものを目にした時、オルディンはここにフリージアを連れてこなくて良かったと、つくづく思った。いや、正確にはソレそのものではなく、ソレに為されている仕打ちを目にした時、だ。
彼女がいたら、絶対に一悶着起こしていただろう。
「こいつにかかれば、死にかけの奴だって息を吹き返すからな。この程度の怪我はすぐにきれいさっぱりだ。まあ、その分、礼は弾んでもらうがな」
手にした鎖を引きながら、医者は得意げにそう言った。
恐らく、長い間、そうされてきたのだろう。その鎖につながれたモノは、仮面のような顔つきで全く抵抗する気配を見せることなく、彼に従っている。
ドカリと椅子に腰を下ろした医者の代わりにウルの隣に膝をついたのは、白銀の髪と、それよりももう少し色の濃い銀の目をした、その子どもだった。年の頃はフリージアよりも二つ三つ下のようだ。少女、だろうか――いや、少年にも見える。
ラタとよく似ている。
オルディンはそう思った。顔形が、ではない。二人が身にまとう空気が良く似通っているのだ。
子どもがウルの身体の上に手をかざすと、それは仄かな輝きに包まれ始める。オルディンは彼らから五歩ほど離れていたが、それほどの距離を置いていても、微かな温もりが感じられた。
子どもの小さなその手の下で、いったい何が起きているのか。一見したところでは、ウルには何の変化も起きてはいない。
だが、やがて。
「う……ん……」
ウルが小さく声を上げた。次いで開いた目の中に、苦痛の色はない。ごく自然に、いつもの眠りから覚めたという風情だ。
「大丈夫か? ウル」
「え……? あれ? オルディンさん?」
声をかけられたウルはオルディンを見上げ、そしてキョロキョロと周囲を見回した。
「ここ、どこですか? 僕、確か崖から落ちて――!」
記憶を辿るように呟いた彼だったが、そこへきてガバリと起き上がる。
「フリージア様は!? フリージア様は大丈夫なんですか!? 確か、僕を助けてくれようとして、僕の手を掴んで――一緒に落ちたんじゃないですか!?」
両手を寝台について身を乗り出したその動きに、痛みの気配は感じられない。
「落ち着けよ、あいつは大丈夫だ。かすり傷ひとつない」
「ホントに?」
「ああ。ピンシャンしている」
「そう、ですかぁ……良かったぁ……」
そう言うと、膨らんだ袋から空気が抜けるように、ウルの全身から力が抜けていくのが見て取れた。
「あいつは俺が色々仕込んでるからな。たいていのことは切り抜けられる。お前程度を抱えて泳ぐなんざ、屁でもねぇよ」
「僕……フリージア様に助けられちゃったんですね……」
項垂れるのは、男の沽券か、騎士の沽券か。
「先生、こいつの身体、診てやってくれ」
落ち込むウルは無視して、オルディンは医者を振り返って声をかける。
「問題ないさ。そいつの力は確かなもんだ」
そう言いながらも医者はよっこらせと腰を上げ、ウルの方へと歩み寄る。白銀の子どもは、人形のように整った――表情のない面を少し俯きがちにして、その場に立ち尽くしているだけだ。
医者が、ウルに手を伸ばそうとした、その時だった。
「オル! ウルはどう? 大丈夫?」
扉が勢いよく開け放たれ、目が覚めるような赤毛が飛び込んでくる。そのウルが怪我人だということが、頭から抜け落ちているようだ。
フリージアは身体を起こしているウルに目を留めると、パッと笑顔になる。
「あ! 良かった、目が覚めてる!」
そう嬉しそうに声を上げると、彼のいる寝台に駆け寄ろうとする。
が。
三歩ほど進んだところで、その足が止まった。そして傍らに佇む銀色の子どもを見つめ、訝しげに首をかしげる――その子どもの何かが、気になるかのように。
フリージアがその違和感の源に気付いて目を丸くしたのと、オルディンが手を伸ばして彼女の口を塞いだのとは、ほぼ同時だった。彼の手の下で、モゴモゴと彼女が何か言おうと動いているのを感じるが、完全に無視する。
片手はフリージアの口を覆ったまま、もう一方の腕で彼女を小脇に抱えると、オルディンは呆気に取られているウルと医者に目をやった。
「じゃあ、そいつの診察頼みます。ウル、また後でな」
そう残して、さっさと医者の家を出る。
そのまま暴れるフリージアをものともせずに足を運ぶと、オルディンは人気のない場所を見つけたところで、ようやく彼女を下ろしてやった。
「いいか、手を外しても大声出すなよ? 目立つことはするな。解かったな?」
口を塞がれたままジトリと睨み上げてくるフリージアにそう言い含め、オルディンは彼女を完全に解放する。
「アレ、いったい何なんだよ!?」
自由になると同時に、憤懣やるかたないという色を溢れさせた口調で、フリージアはオルディンに食って掛かってきた。声量を、囁きをもう少し大きくした程度に抑えられたことは、誉めてやろう。
「アレ、とは?」
彼女が言わんとしていることは判っていたが、オルディンは敢えて訊き返した。
「決まってるだろ、あの子の首輪だよ! 何であんなの着けられてるんだよ! しかも、鎖まで! 何で、何にも言わずにいるんだよ、オルは!」
グイグイとオルディンの胸元を掴んで問い詰めてくるフリージアに、オルディンは肩を竦めて返した。
「まあ、普通、鎖を着けるのは逃げられないようにする為だろうな」
オルディンは敢えて淡々と、そう答える。
フリージアが憤っているのは、医者の元で目にした光景故だ。それは、フリージアであれば当然見せるであろう反応だった。
ウルの身体を治した銀色の子ども――あれは、エルフィアだ。
一般的には、エルフィアが操るのは地、水、火、風などの、自然に溢れる力だ。だが、時に――たとえばラタのように、特異な能力を見せる者もいる。医者の所にいるエルフィアが持っているのは、治癒能力に違いない。
グランゲルドでは、エルフィアはある意味不可侵の存在だ。特に禁じられているわけではないが、ヒトとエルフィアは良くも悪くも交流を持たない。グランゲルド国内に存在していても、彼らは彼らで生活の輪を閉じているのだ。
だが、ここ、ニダベリルでは、エルフィアは家畜も同然だ。人間に捕らえられればヒトとして扱われることはなく、酷使される。檻に閉じ込められたり、鎖でつながれたりなど、ごく当たり前のことだった。フリージアと過ごすようになる前、オルディンはよくこの国にも出入りしていたが、その頃には、もっとひどい扱いを受けているエルフィアも見たことがある。
「ううう」
両手を握り締めたフリージアが、何やら唸り声を上げている。
この流れは、マズイ。
オルディンの胸の中には嫌な予感が立ち込めてくる。
そして、彼女は言った。
「あたし、あの子連れてくから」
――やっぱり。
オルディンは深々とため息をついた。どこまでも、予想通りの展開だ。
「お前な、ニダベリルのエルフィアはあらかたグランゲルドに逃げ出してはいるが、あの子以外にもあんなふうに捕まってる奴はいるんだぜ? 目先の一人を助けたところで、そんなのお前の気休めに過ぎんだろう。第一、村の財産とも言えるエルフィアを攫ったら、大騒ぎだぞ? 今、自分が置かれている状況、解かってんだろ?」
「そうだけど! そうだけど、イヤなんだ。ちゃんと解かってるよ。でも、解かっていても納得できないってこと、あるでしょ? そうだよ、今は大勢を見なきゃいけないよ? でも、大きな事の為に目の前のあの子の事を見て見ぬ振りしたら、絶対、あたしは後悔する」
フリージアはオルディンの腕を鷲掴みにする。彼女の緑の目が煌めき、彼を射抜いた。
「ねえ、オル。あたしにあの子を助けさせて」
「フリージア」
「これはあたしのわがままだし偽善だし気休めだよ。でも、聞いてくれたら、これからひと月はオルの言うこと聞くから」
「ひと月かよ」
「あたし、守れない約束はできないもん」
思わず呆れた声で返したオルディンに、フリージアは唇を尖らせる。
「それは威張って言えることじゃねぇだろ」
「でも、ホントのことだし」
今度は、開き直る。そして、彼を真っ直ぐに見上げながら続けた――短く、一言。
「お願い」
オルディンはしばしその視線を受け止める。
だが、考えてみたところで、結果は同じだ。フリージアの背がまだ彼の腰にも届かなかった頃から、彼女の本気の『お願い』を拒めたことがなかったのだから。
「……自分の身の安全を第一に考えろよ?」
渋々ながらの彼のその台詞に、フリージアがパッと顔を輝かせる。
「うん!」
即座に深々と頷いた彼女を、オルディンはそう簡単には信じることができなかった。
「本当に解かってんのか? 危なくなったらウルもエルフィアも置いてとっとと逃げろと言ってんだぜ?」
「うん、危なくなったらね!」
何となく、オルディンはうまく言質を取られたような気がしてならないのだが。危険な状況に陥ったとして、どの程度でフリージアがそれを『危ない』と判断するかだが、その閾値はオルディンが考えているものよりも遥かに高いのだろう。
川に落ちたフリージアを何事もなく見つけられて幸運だったと思ったそばから、これだ。彼女の無事な姿を見るまでは、生きてくれてさえいたら、もう何も言わないと思っていた。傷一つ負うことなく立っている姿を目にした時は、この世の全てに感謝した気もする。
――ああ、クソ、まったく。
心の中で罵りの言葉を呟いたオルディンを、フリージアがきょとんと見上げてくる。
「あれ、オル、どうかした?」
「何でもねぇよ。行くぞ。取り敢えずウルにも話をしないとだろ」
「あ、うん、そうだね」
オルディンの心中も知らず晴れやかに笑って頷くと、フリージアはさっさと駆け出して行った。
*
一晩の宿を求めたオルディンたちにあてがわれたのは、村民たちが共同で使っている納屋だった。
路銀に貨幣では足が付くだろうと考え、彼らは砂金で相当量を用意してきたのだが、雨露をしのげる程度の納屋を一晩提供する代金として村長が要求してきたのは、その砂金一つまみである。医者には治療費として軽く一掴み分を要求されたから、持ってきた路銀の半分がここで消えたことになる。
――それは、グランゲルドであれば五人が七日は暮らせるような額だった。
フリージアをその粗末な納屋に残しておいて、オルディンはウルを迎えに行く。彼の身体は完治していて、すぐにでも出発できそうなほどだった。
納屋に入り、フリージアの姿を認めると同時にウルは彼女に駆け寄り、その前にひざまずく。
「フリージア様! 申し訳ありません、あなたを助けなければならない僕が、助けられてしまって……!」
「いいよ、別に。怪我治ったんだね、良かった」
「はい、もう、この通りすっかりです」
「気を失ったきり、全然動かないから心配したよ。でさ、見下ろしてるの好きじゃないから、立ってくれない?」
「あ、はい……」
フリージアに促されて立ち上がったウルは、それならば、とばかりに恭しげに彼女の手を取った。そうして、仔犬のようにキラキラと輝く眼差しを彼女に注ぎ、熱く語る。
「僕は、あなたの為ならこの命を捨てても構いません。いかようにもお使いください」
だが、感極まったような彼のその言葉に、フリージアは鼻の頭にしわを寄せた。
「そんな重いもの、いらないよ」
「え?」
拍子抜けした声を出し、ウルがフリージアをポカンと見つめる。
「ウルの命はウルの好きに使ったらいい。あたしの為に死ぬとか、そんな重いの背負ってたら、あたしの方が生きてけないよ。だいたい、ウルは財布を拾って届けたら、中身を全部もらうわけ? ちょっとお礼、くらいなら嬉しいけど、全部もらったら困るでしょ」
「え……ええ、まあ……」
「ね? だからさ、そうだな、あたしが城を抜け出す時にちょっと手伝ってくれるとか、そんなでいいや」
「はあ……」
気負いを根こそぎ引っこ抜かれたウルは、声からも気が抜けている。
自由気ままなフリージアらしい言い様だったが、ふと、オルディンは不安になった。
この娘は、自分が置かれている状況を、これから先起ころうとしていることを、真に理解しているのだろうか、と。
ロウグ家を継いで、将軍になった。
そして、春には恐らく戦になる。
――その先にあるものが、フリージアには見えているのだろうか。
恐らく、見えてはおるまい。
つい今しがたフリージアがウルに放った言葉に、それが表れていた。
将になるということは、即ち、部下の命を背負うということだ。フリージアのあの細い肩には、ウルのものも含めて、すでに三百からの命が乗っているのだ。彼女は、それに気付いていない。
――フリージアがそのことに気付いた時、彼女はどうなるのだろう。その重みに、耐えられるのだろうか。
オルディンはこれまで、目に見えるものからは、フリージアの身体を護り通してきた。彼自身の手で、あるいは、彼女に自らを守る手立てを教えることで。だが、他人の命を背負うという事態は、オルディン自身にも経験がないことだった。その重責がフリージアにのしかかってきた時、果たして彼にできることがあるのかどうか、今は想像すらできない。
オルディンにできる唯一確かなことは、どんな時でも彼女の傍にいることだけだった。
「ねえ、オル!」
不意に名前を呼ばれ、オルディンは我に返る。顔を上げると、フリージアとウルの視線が彼に向けられていた。
「何だ?」
「もう、聞いてなかったの? だから、あの子を連れ出しに行くの、いつ頃にしようかって」
「ああ……ウルはもう話を聞いたのか?」
オルディンはフリージアの隣に立つウルに確認した。彼はキリリと顔を引き締めて頷く。
「はい。僕もあの子を見た時はギョッとしました。人に首輪を着けて、その上鎖でつなぐだなんて、有り得ません」
「まあな」
義憤に燃える青少年には、何を言っても無駄だろう。オルディンは下手なことを口にせず、先を続ける。
「村の住人が寝静まってからだな。月が中空を過ぎたくらいがいいだろう。あいつを連れ出したら、その足でこの村を出るぞ。エルフィアがいないことに気付かれれば、当然、俺らが真っ先に疑われる。ヘルドにも連絡が行く筈だ。だが、少なくとも、このナイからヘルドに使者が行き、それから追跡隊が出されるとすれば、逃げられるだけの時間は稼げる。その間にバイダルに合流して、さっさとこの国からずらかるからな」
「わかった」
フリージアが深く頷く。
一つ気になるのは、一度ヘルドに近付かなければならないことだ。バイダルのいる対岸へ渡るには、下流にある橋を渡る必要がある。
こうなると、ラタにバイダルの元で待機するようにと言ってしまったのが、少々悔やまれた。ラタがいれば、いざという時、フリージアだけは逃がすことができたのだが。
――まあ、大丈夫だろう。
不安要素は抱えながらも、オルディンはそう呟く。
ふとフリージアに目をやると、彼女から返されたのは能天気なことこの上ない、笑みだった。




