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ジア戦記  作者: トウリン
第二部 大いなる冬の訪れ

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幕間

 グランゲルドには三人の将軍がいる。フリージアを当主とするロウグ家、スキルナのザイン家、そしてビグヴィルのラル家だ。それぞれ、ロウグ家は紅竜こうりゅう軍、ザイン家は青雲せいうん軍、ラル家は黒鉄くろがね軍を率いている。


 紅竜軍は騎馬部隊で機動性に富み、特にゲルダが指揮するようになってからは格段に戦闘力を上げていて、現在のグランゲルド軍の要となっている。

 弓兵部隊である青雲軍は、飛ぶ鳥すら射落とすことができると噂されるほどの弓の名手揃いだ。

 残る黒鉄軍は重歩兵部隊で、多少のことでは突き破れない強固な護りを築くことができる。


 いずれも、兵の数は多くないが、皆少数精鋭の優れた軍だと自負していた。


 紅竜軍の訓練場へ向かうフリージアの耳には、近付くにつれ、鉄と鉄が打ち合わされる音が届き始める。


 重い木の扉を開けると、その音は格段に大きくなった。

 グルリと円を描いた壁沿いには、兵士たちが立ったり座ったりと思い思いの姿勢で鈴なりになっている。固唾を呑んで彼らが見守る中で、二人の男が剣を合わせていた。


「あ、将軍!」


 顔を覗かせたゲルダに真っ先に気付いたのは、入口近くにいたウルだ。

 彼はフリージアよりも二つほど年上の、新米将校だ。紅竜軍の中では、一番若い。キラキラと輝く緑がかった灰色の目の所為か、あるいはフワフワとした栗色のくせ毛の所為か、フリージアよりも年上にも拘らずどこか仔犬めいた雰囲気がある。


「オルディンと……バイダルだね。いつから始めてるの?」

「もう、結構やってますよ。すごいですよね、よく続くよなぁ……」


 バイダルはゲルダの副官であり乳兄弟でもあった男で、今はフリージアの副官を務めている。

 隻眼で、左目には眼帯がかけられているが、オルディンと剣を交えている様には全く死角があるようには見えない。


 オルディンもバイダルも、技巧ではなく力での勝負だった。どちらの得物も大剣だから、鉄と鉄がぶつかり合う音も重い。そのくせ、彼らの動きはまるで舞っているようだった。無駄も隙もなく、最初からそう動くように定まっているかのように、互いの剣を受け、流す。

 どちらも相手の剣捌きを髪一筋ほどで見切り、切っ先を交わしたかと思えば、直後、己の刃を走らせる。


 フリージアの足ほどもあるような剣だというのにまったく重さを感じさせずに軽々とそれを操るオルディンたちに、彼女はいつも少し悔しくなるのだ。


 フリージアは二人から目を引きはがして訓練場を見回す。そこにいるのは、紅竜軍の兵士の中でも士官以上の、ごく一部の者だけだ。もっと下位の一般兵たちは屋外で訓練を受けている。


 紅竜軍の総数は三百余名。

 彼女は、その頂点に立っているのだ。解かっているけれど、今一つ、実感が持てない。


 フリージアが紅竜軍と引き合わされたのは、三日前――ここに着いてすぐのことだった。

 初めて顔を合わせたその時から、兵たちはフリージアを慕ってくれた。


 フリージアが彼らの前に立った時、ため息がどよめきになってその場に溢れた。そして、彼らの、その表情。フリージアよりも緊張と不安に強張っていた顔が、彼女が笑みを向けた、ただそれだけで一様に和らいだのだ。


 それが単に母によく似ているからという理由だけでも構わない。今向けられている好意に背を向けるなど、彼女にはできなかった。そして、好意を向けられたらそれに応えたくなるのは、止められない。


 たった、三日。

 けれども、その三日間のうちに、紅竜軍の兵士たちに対する愛着というか、絆というか、そんなようなものが彼女の中に芽生え始めている。

 それは、オルディンとの間にあるような、全面的に背中を任せられるようなものとは違う。けれども、明らかに彼らとの間につながりは生まれていて、それ故に、フリージアは彼らが自分に求めていることに応えたいと思うのだ。


 ビグヴィルはフリージアに「ただいるだけでよい」と言ったけれども、彼女はそれでは嫌だった。彼らが死地に向かうのであれば、自分も同じ場所に身を置いていたい。


 フリージアの中には、彼女が紅竜軍の前に立った時、自分に向けられた彼らの眼差しが焼き付けられていた。


 希望と、安堵と、崇拝と。

 多分、それは母に向けられていたものだったのだろう。

 それがそのまま、フリージアに注がれただけだ。中身なんて、全然ない。

 それでも、彼女には、自分が姿を見せた途端に兵たちの間に広がった空気をもう一度消し去ることなどできやしない。

『ゲルダの娘』がいることで彼らの不安を払拭できるなら、その役割を果たそうと思う。


 オルディンに自分のその気持ちを伝えた時に、彼には呆れたような眼差しを向けられたけれども、そうなのだから仕方がないではないか。性分は変えようがない。


 自分で決めたのだから、後はじつが伴うように力を注ぐだけだ。

 そして、その為には。


 ――強くなりたい。


 フリージアは、拳を握りしめる。


 物心ついた頃から、オルディンを相手に剣の訓練はしてきた。けれど、それは半分楽しみの為のもので、明確な意志を持ってのことではなかった。

 身体を動かすことは好きだったし、自分の思うように剣を操れるようになるのは、楽しかった。多分それは、口笛がうまく吹けるとか、そんなようなことと大差がない感覚で。


 それとはまったく違う気持ちで、今、彼女は、力としての剣の腕を求めている。


 強く、強く、強く。


 自分の望むものを手に入れる為には、力が必要だった。


「あ、終わったみたいですよ」


 隣で上がったウルの声で我に返ったフリージアは、視線を訓練場に戻す。

 見ればオルディンとバイダルはすでに剣を収めていて、フリージアの方に歩いてくるところだった。交代に、二人の試合に息を呑んでいた兵士たちが立ち上がり、それぞれの得物を手に訓練を始める。


「僕も行きます!」


 フリージアの隣のウルも生きのいい声と共に駆け出した。こちらに向かってくるオルディンたちに、すれ違いざまにペコリと頭を下げて。


「話し合いは終わったのか」


 フリージアの前まで来ると、あれほど激しく動いていたのに涼しい顔で、オルディンが訊いてくる。フリージアは肩を竦めて彼に返した。


「終わったけど、決着はついてないよ」

「何だよ、またあの爺さんか?」


 これまで自らの取る行動について『迷う』ということのないオルディンは、三日もかけてまだ結論が出ないということに呆れ顔だ。フリージアは会議でのやり取りを思い出して、ムッと頬を膨らませる。


「そう、ミミル宰相。エルフィアたちのことは諦めろって言うんだ」

 不満そうな彼女のその言い様に、オルディンの後ろから、生真面目な声がかけられる。

「仕方がなかろう。そう簡単に決められることではないのだから。宰相とて、国を想う気持ちは同じだ」

「それは解かるよ。解かるけど、でもさ」

 唇を尖らせて、バイダルに返す。言われなくても、フリージアもミミルの言い分は充分に理解できる。彼がグランゲルドのことを大事に想っていて、一番安全な道を選ぼうとしていることを。

 けれど、それでも同意はできないのがフリージアだ。


「ニダベリルの力は強大だ。戦いを始めれば、かなり厳しいものになる。国の損害を最小に抑える道を示すことが、彼の役割だ」

「解かってるよ。でも、イヤなんだ。あたしには、選べないんだもん」


 地面を睨み付けてそう呟いたフリージアの耳に、微かな笑い声が届く。


 ――笑った?


 三日間一緒に過ごしていても、フリージアはバイダルの表情が変わるところは未だ見たことがない。

 パッと顔を上げた彼女の目に映ったのは、やはりいつもと変わらぬ隻眼の鉄面皮だった。そこには微笑の欠片すら浮かんではいない。


「何だ?」

「ええと、今、笑ったかな……って」

「私が?」


 まじまじと彼を見つめるフリージアに、バイダルは逆に問い返してくる。そんな反応をされると自分が聞いたものが確かなものだという自信が無くなって、彼女は首を振った。


「いいや、何でもない。あのさぁ、バイダルは母さんのことよく知ってるよね?」

「それなりに」


 副官かつ乳兄弟の彼がゲルダのことを知らずして、他の誰が知っているというのか。

 現に、彼はフリージアのことを知っていた数少ない者のうちの一人だった。


 生前にゲルダがフリージアのことを伝えていたのは、四人。このバイダルに、オルディンとの伝書鳩代わりだったエルフィアのラタ、それに家令のグンナと侍女頭のフリンだ。

 いずれもゲルダに忠実な者たちで、ほんの一滴たりとも秘密を漏らすことはなかった。


 一瞬、フリージアの頭に、母親は自分のことを彼らにはどんなふうに話していたのだろうかという考えがよぎる。けれど、それは、ほんのわずかな間のことで、すぐに陽炎のように消え失せた。


「あのさ、今回のこと、母さんはどうするつもりだったの?」


 彼女のその問いに、バイダルはわずかに眉をひそめる。あまりに微かなので、うっかりすると見落としてしまいそうだったが。


「聞いていないのか?」

「うん」

 フリージアはコクリと頭を上下する。彼はジッと彼女を見下ろして一度口を噤み、そしてまた開いた。

「フリージアはフリージアの思うようにすればいい。ゲルダはその考えを尊重する。たとえ、どんなものでも」

「それで、いいの?」

 フリージアの確認の言葉に、バイダルは無言で頷いた。

「そっか……」

 小さく呟き、フリージアはパッと顔を上げる。


「うん、あたしはあたしがしようと思ったことをするよ」

 ニッと笑った彼女の横で、オルディンがぼそりと言った。

「常識の範囲内にしておけ」

「当たり前じゃない」


 自分が非常識なことをしたことがあるかと胸を張るフリージアに、オルディンはため息を返しただけだった。

 彼女のことをよく知る兄代わりの男のことは放っておいて、フリージアはバイダルを振り返る。


「もう昼休憩だろ? オルを連れてってもいい?」

「構わない、私の稽古に付き合ってもらっただけだ。元々、兵ではないのだから、自由にしたらいい」

「ありがと! 行こ、オル。ビグヴィルがお昼に招待してくれたんだ。シフが仔牛のシチューを作ってくれてるんだってさ」

 そう言って、オルディンの服を掴む。


 フリージアの頭の中はとろけるほどに煮込まれた仔羊のシチューのことでいっぱいになっていた。


 「早く!」

 一声かけて、フリージアはオルディンの服を掴んだまま、走り出した。


   *


 ビグヴィルの妻、シフお手製のシチューは絶品だった。

 オルディンの隣のフリージアは満腹になった仔猫さながらに、今にも喉を鳴らし始めそうだ。


「美味しかったぁ! 食べすぎちゃったよ」


 これ以上ない程満足そうな声で、フリージアが言う。確かに旨かったが、彼女がこれほど実感のこもった感想を言ってくれていれば、オルディンが付け加える必要もないだろう。


「うふふ、ありがとう。お鍋が空になったわ」

 柔らかく笑いながら、シフが食後の茶を皆に配って回る。

「ホントに美味しかったんだ。お腹がいっぱいになっちゃったのが、もったいないくらい」

「喜んでもらえて嬉しいわ。やっぱり、若い人は勢いが違うわね。作り甲斐があること」

 クスクスと笑いながら、彼女はビグヴィルの隣に腰を下ろした。


 花のような茶の香りが室内に漂う。

 しばらくは皆無言だったが、やがてフリージアが口を開いた。考え込むような口調で、誰にともなく問う。


「ねえ、ニダベリルってどんな国なのかな」

「どう、とは? 己の国を栄えさせる為に周囲の国を呑み込んでいく、貪欲な軍事国家、ですよ」

 穏やかな口調で彼女に答えたのは、スキルナだ。

「そうなんだけどさ、じゃあ、何でそんなに攻撃的なんだろう……」

「貧しい国だからですよ。土地が悪いのです。あそこには作物がろくに実らない」


「じゃあ、支配じゃなくて、もっと対等に、交易とかっていう手段を取ろうっていう気にはならないのかな」

 ポソリと言ったフリージアに、一同の視線が集まる。


「だってさ、そっちの方がずっといいじゃないか。力任せに人に言うことを聞かせるなんて、そんなやり方してたら、みんなから嫌われるだけだろ?」


 おそらく、フリージアには本当に納得がいかないことなのだろう。だが、オルディンをはじめ『大人』陣は、彼女のその言い分に互いに顔を見合わせた。


 答えたのは、先ほどと同様スキルナである。

「確かに、その通りですが……かの国には無理な話でしょう」

「何で? 戦うより、失うものは少ない筈だよ?」

「あちらが、圧倒的な強さを自負しているからです。強者が弱者の言うことを聞く必要は、ありませんから」


「強さ……」

 フリージアがその言葉を繰り返す。


 彼女はこのグランゲルドしか知らないから、『強い』ということが人同士の関係でどれほどの効力を発揮するかが判らないのだろう。


 だが、オルディンはニダベリルに行ったことがある。

 あの国では強さが全てで、弱者は強者に従って当然なのだ。彼らが自分たちの強さに自信を持っている限り、こちらの言うことなど聞きはしない。話し合いなど、到底無理だ。


「いまいち、ピンとこないんだよなぁ……」

 彼女のその呟きは、恐らくオルディンの耳にしか届いていなかっただろう。いかにも納得がいかなそうなその声音に、何となく彼は不吉な予感を覚える。十二年の付き合いで、今、彼女が何を考えているのか、そしてこの後何を言い出すかが、予想できた。


 オルディンは黙り込んで何やら考え込んでいるフリージアを横目で見遣る。

 経験に基づいた彼のその予感は、外れることはないのだ。


 穏やかな昼下がりの食後の一服。


 水面に投げた小石でできた小さな波紋のようなこの短い遣り取りが、大きな波となるのである。


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