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ジア戦記  作者: トウリン
第二部 大いなる冬の訪れ

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対立

「だから、その条件は呑めないって言ってるだろ!」


 グランゲルドの一室に少女の声が響く。

 卓に両手を突いて立ち上がり、紅い髪をまさに燃え上がらんばかりに輝かせて、つい先日グランゲルドの第一位将軍となったばかりのフリージア・ロウグは、彼女の五倍近くは生きているだろう老人に噛み付いていた。老人の名はミミル・ラーシュ、この国の宰相である。豊かな白髪の下の青みがかった灰色の目は、血気盛んなフリージアとは正反対に氷のような冷静さだ。


「何も、全員を渡すと言っているわけではありません。十六年前に亡命してきた者だけです」

「でも、一度は受け入れたんだからもうこの国の人じゃないか」

「彼らは『ヒト』ではありません。エルフィアです」

「どっちでもおんなじだよ! じゃあ、この国の『者』!」


 少女と老人の攻防に、その場にいる他の者――王であるフレイ・ラ・グランとその妃、サーガ、フリージアと同じく将軍職に就くビグヴィル・ラルとスキルナ・ザインは口を挟む隙を見つけることができずにいる。


 フリージアとオルディンが王都グランディアに入ってから、七日が過ぎた。そして、フリージアがロウグ家を継ぎ、お披露目を済ませ、名実ともに将軍となってからは三日だ。その三日間、毎日、彼らは議論を重ねていた。


 議題は、当然ニダベリルの宣戦布告についてである。


 かの国が戦いを回避する条件として提示してきた項目は、二つ。

 一つはグランゲルドの収穫から毎年一定量をニダベリルに送ること。

 そしてもう一つは、グランゲルドにいるエルフィアをニダベリルに引き渡すことであった。


 エルフィアはヒトと同じ姿をしながら、ヒトにはない力を持つ種族だ。


 自然には様々な気――マンナが存在している。たとえば、大地には大地のマンナ、炎には炎のマンナ、大気には大気のマンナというように。それは、生き物で言えば生命力のようなもので、エルフィアはそのマンナを操ることができる。地を動かし、風を吹かせ、炎を起こし、大地を潤す。そうやって、土地を豊かにすることができるのだ。


 フリージアは行ったことがないが――というよりも、そもそもヒトが簡単に立ち入ることができないような所なのだが――このグランゲルドには、特にマンナが豊富な場所がある。マナヘルムと呼ばれるその地はグランゲルドには珍しい険しい山岳部で、森も深く、ヒトが気軽に足を踏み入れることはできない。


 最初のエルフィアがグランゲルドに訪れたのは、千年以上も前のことだと言われている。もう神話の域だ。

 そのエルフィアたちはヒトに干渉されずにすむことができる地を求めており、そして、当時のグランゲルド王は彼らを受け入れた。

 エルフィアたちはマナヘルムに居を構え、やがてそこには各地から同じように居場所を求めるエルフィアが訪れるようになったのだ。マナヘルムで振るわれた彼らの力は次第にグランゲルド中に染み渡っていく。それにより、元々豊かであったグランゲルドの大地は更に富み、今のような溢れんばかりの森と水の国となったのだと言い伝えられていた。


 意図せずしてもたらされた恵みを享受していたグランゲルドに一石が投じられたのは、今から十六年前のこと。


 それは、ニダベリルから逃亡してきたエルフィアたちだった。


 痩せた土地をエルフィアの力で改善するべく、歴代のニダベリルの王はエルフィアを捕らえ、力を行使することを強制した。彼らは『国民』とは認識されず、ニダベリルの技術者たちが作り出したのと同じ『道具』として扱われたのだ。


 酷使に耐え兼ねたニダベリルのエルフィアたちはグランゲルドへの亡命を望み、すでに王位に就いていたフレイは、歴代の王と同じように彼らを受け入れた。

 だがしかし、強国ニダベリルがそれを赦すわけもなく、エルフィアたちを返すように要求してきたのは予測して然るべきことだった。


 戦争をも辞さないという態度をありありと見せながらエルフィアたちを引き取りに来たのは、当時王太子だった、現在のニダベリル王アウストル・ゴウン・ニダルである。そして彼を迎えたのは、フリージアの母、ゲルダ・ロウグだ。


 アウストルは当時十九歳、ゲルダも十八歳、どちらも若く、そしてどちらも優れた将軍だった。


 今のニダベリルの各国への明らかな侵略行為に比べれば、それは小さないざこざ程度の争いだった。しかし、同時に、一歩踏み越えれば国同士の戦争となるのに充分な火種を抱えた戦いでもあったのだ。


 ニダベリルは当時から周囲を脅かす軍事国家になりつつあり、対するグランゲルドは何の為に軍隊を擁しているのかと首をかしげるほどの穏やかな外交を繰り広げている国だった。

 その両者の争いの結果は、火を見るよりも明らかであっただろう。しかし、多くの者の予想を裏切り、武力で鳴らした国の軍隊と、平和に浸りきっていた国の部隊との衝突で、軍配はグランゲルド側に上がった。そして、以降、ニダベリルの大地はゆるゆると衰退の一途を辿り始めたのだ。


 ゲルダにやり込められたニダベリルは、それきり国境を越えてくることはなかった。国境はほんのわずかも騒がされることもなく、グランゲルドは平穏そのものの日々を送っていた。


 だが、それも、ひと月前までのこと。

 十六年間の沈黙を破って、ニダベリルはあの二つの要求を突き付けてきたのだ。


 その要求を受け取った時、当然、今のフリージアたちのようにグランゲルドは協議した。宰相のミミルと激しい対立を繰り広げたのは、フリージアではなく当時まだ存命であったゲルダだったが。


 ゲルダは、ニダベリルの戯言など断固撥ね付けるべきだと強硬に主張した。

 理不尽な要求に従うべきではない、一度受け入れたからにはこの国の者だと、皆に説いたのだ――そう、まさに今のフリージアのように。


 ゲルダがそう言っていたと事前に聞かされたわけではない。

 だが、フリージアは図らずも母親と完全に同じ台詞を主張しているのだ。


 対するミミルは、今と同じように、亡命してきたエルフィアたちを引き渡し、ニダベリルの要求する量の半分の作物を毎年提供する、という案を挙げた。


 明確には別れていないが、ビグヴィルはゲルダ寄り、スキルナはミミル寄りだった。


 国を想う強さはどちらも同じで、そこに優劣は無い。どちらも、国の事を、民の事を考えて、それぞれの主張を譲らないのだ。

 かつてはミミルとゲルダの間で行われていた応酬が、今はミミルとフリージアとの間で行われている。


 今、ミミルとフリージアの応酬に他の者が口を挟まないのは、何も両者の勢いに怯んでいるからだけではない。

 物心付いて以来一度も母親に会ったことがなく、彼女がこの件に関してどんな意見を持っていたかも知らない筈だというのに母親と寸分違わぬ意見を口にするフリージアに、皆、驚きと感動を覚えていたからでもある。


 炯々とした新緑の目で自分を睨み付けてくるフリージアを平然と見つめ返し、ミミルもまた自説を述べる。


「良いかな? 子どもの喧嘩ではあるまいし、外交というものは、気に入らないから嫌だ、というわけにはいかんのだ。ニダベリルは強大ですぞ。特にこの数年は益々力を増しており、武力の乏しい我が国など、敵うべくもありませぬ」

「はなから敵わないと決め付けて、何もしないで諦めるのか? それが『オトナ』のやり方だって?」


 このミミルと顔を合わせた当初は『です』『ます』程度は心がけていたフリージアも、今はすっかりこんな口調だ。老爺の石頭ぶりに『丁寧な言葉遣い』などしようと思っていたら話なんてできやしない。


「駆け引きは必要です。国を背負うものは、一か八かを試すわけにはいきません。ニダベリルとて、本気で食料とエルフィアの両方をせしめる気はない筈。取り敢えず二つ出し、こちらがどちらを選ぶのかを見ているのでしょう。グランゲルドは元々豊かな土壌を持っておりますからな、多少エルフィアがいなくなったところで、問題はありませぬ。ただ、十六年前の状態に戻るだけで。それよりも、恒久的に法外な量の作物を要求される方が、後々厄介なことになりましょうぞ」

「露店の交渉じゃあるまいし……そんなの、納得できない。比べられるものじゃないんだから、どちらかなんて選べないよ」


 譲らないフリージアにミミルが微かなため息を漏らすのを、その場の誰もが耳にした。


 この三日、二人の言い分は平行線を伸ばすばかりでさっぱり交わる気配がないのだ。

 無言で睨み合う少女と老人の間に、遠慮がちな咳払いが入り込む。


「えぇと、その、ですな。そろそろ昼時でもあることだし、本日の協議はこれで……」

「そうですわね。空腹だと、余計にイライラしてしまいましてよ」


 ビグヴィルの仲裁にやんわりとした声で賛同したのは、王妃のサーガだ。彼女は優雅に扇子を口元に添えながら、一同に微笑みかける。


「しばらく、日にちを置いてからお話合いをする方がよろしいかもしれなくてよ?」


 ね? と、サーガがフリージアに笑みを向ける。その目が「頭を冷やしなさい」と言っているようで、フリージアはムッと唇を引き結んで椅子に腰を下ろした。交代でミミルが立ち上がる。


「では、七日ほど、置くことにしましょうか。ロウグ将軍には、一個人ではなく国の要人としての自覚をお持ちになっていただかないと」


 部屋を出て行き際のミミルの台詞にフリージアは眉を逆立てたが、彼女が椅子を蹴倒す前に今度はビグヴィルが機先を制して口を開く。始まったやり取りには微塵も興味を示すことなく、ミミルはさっさと会議室から姿を消す。


「おおっと、そうだ。今日はうちのが昼飯に仔牛のシチューを作って待っとりましてな。フリージア殿、どうですか。貴女がいらっしゃれば、あれも喜びます」


 ビグヴィルは自分の台詞に頷きながら、フリージアに笑みを向ける。

 彼の妻、シフはほっそりとしたたおやかな貴婦人だ。フリージアが王都に到着して真っ先に向かったのはビグヴィルの屋敷で、そこで初めて彼女に会った。普通、ビグヴィルほどの地位の者になれば、家の中のことは使用人任せで女主人が家事をするなどということはない。だが、シフは夫の世話を焼くことが趣味のようで、甲斐甲斐しく食事を作ったり身支度を整えたりしてくれるらしい。

 シフも当然ゲルダのことを知っていて、初顔合わせでフリージアがペコリと頭を下げた時には、涙ぐまれてしまった。


「仔牛のシチューって、あたしがここに来た日に出してくれたヤツ? 嬉しいな。あれ、すっごく美味しかった」

 その時のことを思い出すだけで、フリージアの腹は鳴き声をあげそうになる。

「行く行く! 絶対、行く!」


 目を輝かせるフリージアに、ビグヴィルも相好を崩した。そして、卓の向こう側に立っているスキルナに目を向けた。

「スキルナ殿も、いかがですかな?」

 声をかけられて、スキルナは穏やかに微笑む。

「私は――いえ、そうですね、ご相伴にあずかりましょうか」


 フリージアやビグヴィルと同様将軍職に就いているスキルナ・ザインは王妃であるサーガの実の父親なのだが、それに驕ることなくいつも控えめに皆の後ろにいる。

 金髪碧眼はサーガと同じ色合いだったが、華やかな美貌を誇る彼女とは裏腹に、目を逸らしたらすぐにどんな顔をしていたか忘れてしまいそうな印象の薄さだ。会議の間も、ミミルを擁護する姿勢はあるが、特に発言することはない。


「まあ、ずるいわ」


 と、父親の返事を聞いて、サーガが不満そうな声をあげる。席を立ったサーガはフリージアの元まで歩み寄ると彼女の頬を両手で包み込んだ。


 絹のようなその手のひらの感触に、フリージアは少しドギマギしてしまう。


 サーガはゲルダよりもいくつか若いくらいの年で、それはつまり、フリージアの母親くらいの年だということにもなる。もっとも、外見だけでは姉と言っても通りそうではあるが。

 可憐な王妃はそのままフリージアの額にかすめるような口付けを落とすと、陽光を照り返す湖水のように目を輝かせて言った。


「今度、わたくしとお茶会をしましょうね? 来てくれなくては、イヤよ? あなたにお母様のことをたくさん話して差し上げたいわ。とても素敵な方だったのよ?」


 フリージアに向けるサーガの眼差しは彼女を通り越してその奥にいる誰かを見つめているようで、少し居心地が悪くなる。そんなにも母親と似ているのだろうかと、一瞬、フリージアは鏡の中を覗き込みたくなる衝動に駆られた。


 時折――本当に時折、この人々が見ているのは自分なのか、それとも母親なのか、フリージアには判らなくなる時がある。


 フリージアはサーガに頬を挟まれたまま、束の間、オルディンを探して視線を彷徨わせた。

 彼にいつものように自分を見てもらえたら――そう望んでも、彼は今この場にはいない。


 フリージアは胸の中のモヤモヤしたものを振り払い、サーガに笑顔を向けた。

「母さんのこと、あたしも聞きたいです」


 ビグヴィルやオルディンから、とても強い人だったということは、聞いている。

 彼女は、ただ、強い人だったのだろうか。それとも、何かの為に、強くなろうとして強くなった人だったのだろうか。


 フリージアがオルディン相手に剣の腕を磨いたのは、単純に楽しかったからだ。別に目的などない。

 だから、フリージアは母が何の為に強くなろうとしていたのかを知りたかった。そして、何を思いながら将軍という職に就いていたのかを。

 フリージアは、ゲルダの強さを称賛する言葉ではなく、彼女の心を知る為の言葉が欲しかった。


「母さんのことを、知りたいです」


 噛み締めるように繰り返したフリージアに、ふと、サーガが笑みを変えた。どこか悲しげな、切なげな笑みに。


 それはまるで恋い慕う相手を想うような色を含んでいて、フリージアはドキリとする。


 サーガのその笑みは瞬きいくつか分のうちに消え失せて、再び艶やかな微笑みが戻る。彼女のその消し去ってしまった表情の理由を探ろうとしたフリージアを、サーガは腕を回してキュッと抱き締めてきた。


「そうね、わたくしが知る限りのあの方のことを、全部話して差し上げてよ」

 銀の鈴を鳴らしたようなその声が微かに震えているように思われたのは、フリージアの気の所為だろうか。


 こんなに綺麗な女性にこんなふうに抱擁されるのは、フリージアには初めてのことだ。

 彼女はどんな反応を返したらいいのか判らず、思わず視線を彷徨わせた。と、優美な曲線を描く肩越しに、少し離れていたところにいたフレイと目が合う。

 フリージアと視線が絡んだことに気付いた王は、まるで何か苦いものでも口にしたかのように、フッと目元を微かに歪ませた。そして、一瞬にしてそれを拭い去ると、サーガに向けて声をかける。


「サーガ、放しておやり。困った顔をしているよ」

「まあ、そう? ごめんなさいね。わたくし、つい嬉しくて」


 手はフリージアに触れたまま身体を離したサーガは、小さく首をかしげて彼女を見つめてくる。そんな彼女に、フリージアは頭を振りつつ笑顔を返した。


「ううん、あたしも嬉しい。母さんのこと、何も知らないから……王妃様がいてくれて、良かったです」

「あら、サーガって呼んでね? ゲルダ様の娘なら、わたくしにとっても娘のようなものですもの。お茶会、約束でしてよ? 必ずね?」


 そう言ってサーガはもう一度フリージアの額に唇で触れると、サッと身を翻した。薄絹のドレスをなびかせて王の元に戻った彼女は、フレイの腕にするりと自分の腕をからめると、優雅に膝を折って一礼する。


「では、皆様ごきげんよう、また明日」

 大輪の花が咲くような笑顔を一堂に残し、フレイと連れ立ってサーガは出て行った。


「我々も行くとしましょうかの」

 王たちを見送ってその姿が完全に視界から消えると、ビグヴィルが残った二人に目を向けて促した。

「じゃあ、あたしはオルディンを連れて行くから、先に行っててよ」

「承知した。お早くな」

「うん!」


 フリージアの腹の虫も、今にも鳴き出さんばかりなのだ。一刻も早く仔牛のシチューにありつきたい気持ちは、もしかしたら三人のうちの誰よりも強いかもしれない。


「じゃあ、またね」


 そう残すと、フリージアはオルディンがいる訓練場めがけて走り出した。


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