再生時間00:04:12イヤホンの奥から
始まりは、一週間前のことだった。
夜中の一時を過ぎる頃、決まって部屋のどこかから、奇妙な音が聞こえ始めるのだ。
――ピチャ。
最初は、台所の蛇口から水滴が滴っているのだと思った。だが、きっちり栓を閉めても音は止まない。それどころか、その音が毎晩、少しずつ寝室のベッドへと近づいてきていることに気づいた。
一昨日は廊下から。
昨日は寝室のドアの隙間から。
そして今夜は、ベッドの足元から、その音が聞こえる。
――ピチャ。ピチャ。
それは水滴の音ではなかった。
まるで、濡れた生肉をフローリングに叩きつけるような、あるいは、粘つく何かを這いずり回らせるような、生理的な嫌悪感を煽る湿った音だ。
暗闇の中、布団を頭まで被り、全身の毛穴から冷や汗を流しながら耐える。恐怖で喉が完全にへばりつき、悲鳴すら上がらない。心臓がうるさすぎるほどに脈打ち、その鼓動の隙間を縫うように、湿った音がじわじわと枕元へ近づいてくる。
正体を知るのが怖かった。しかし、このままでは気が狂ってしまう。
私は意を決して、枕元に置いてあったスマートフォンを手に取った。画面の明かりが、誰もいないはずの室内の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる。
私はボイスメモアプリを起動した。画面中央の、赤い録音ボタンをタップする。
もし気のせいなら、何も録音されていないはずだ。そう自分に言い聞かせ、スマホを布団の外へ突き出し、そのまま目を閉じて朝を待った。
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む朝日に救われながら、私はスマホを拾い上げた。
録音データは残っていた。再生時間は、四時間十二分。
私はイヤホンを耳に押し込み、再生ボタンを押した。最初は自分の微かな寝息と、エアコンのノイズだけが聞こえる。早送りをして、夜中の一時過ぎのパートに差し掛かった、その時だ。
『……ピチャ……』
入っている。やはり、あの音は現実だった。
イヤホン越しに聞くその音は、昨晩よりも生々しく耳の奥に響く。
音は次第に大きくなり、私の寝息のすぐそば、つまりスマホの限界まで近づいたところでピタリと止まった。
静寂。
終わったのだろうか。そう思った瞬間。
『……ねえ……』
ノイズの向こうから、女のような、子供のような、ひどく掠れた声が聞こえた。
『……きこえてるんでしょ……』
心臓が跳ね上がる。イヤホンを耳から引き剥がそうとした。だが、指が恐怖で硬直して動かない。
録音の中の声は、嬉しそうに、ねっとりと笑いながら言葉を続けた。
『……いま、お後ろ、にいるよ……』
お後ろ。
text
背筋に氷を押し当てられたような悪寒が走る。
違う。これは昨夜の録音だ。いま目の前にあるスマホの画面は、再生時間が『〇〇:〇四:一二』で止まっている。
それなのに。
《《「……みぃつけた……」》》
スマホのスピーカーからではない。
再生が止まったはずのイヤホンの奥から。
いや、私の耳の、すぐ真後ろから。
肉の擦れる湿った音と共に、その声が、今、響いた。
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