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義母とあざとい浮気相手が離婚届を持って家に押しかけてきた日、私は冷たい水の中で一具の冷たい死体へと変わっていた。

作者: 熾星
掲載日:2026/06/23

 

 1.世界的な賞を取った夜

 藤崎凛が国際医学研究賞を受賞した日、城戸悠真は授賞式に行けなかった。

 それは、メディアから「ノーベル賞の登竜門」と呼ばれる世界的な賞であり、悠真がかつてもっとも近づき、もっとも欲しがっていたものでもあった。けれどその夜、彼は東京郊外にある古い1DKのアパートに閉じ込められていた。私を一人にしたら、何が起こるか分からなかったからだ。


 テレビ画面の中で、藤崎凛は白いドレスをまとい、いちばん強い光の下に立っていた。彼女が金色のトロフィーを受け取った瞬間、会場には大きな拍手が湧き起こった。その一方で、悠真はソファに座ったまま、まばたきもせず彼女を見つめていた。

 私はクッション材で覆われた部屋の入口に座っていた。胸の奥に湿った冷たい布を詰め込まれたようで、呼吸が少しずつ苦しくなっていく。慣れすぎた痛みが骨の隙間からにじみ出し、私は抑えきれず震えはじめた。視線は本能のように、私を楽にしてくれるものを探していた。

「苦しい……悠真、苦しいの」


 城戸悠真の視線が、ようやくテレビから私へ移った。その瞬間、疲れ果てるほど優しかった彼の目元に、崩壊寸前の焦燥がにじんだ。彼は立ち上がると、高い場所にある鍵付きの棚からあるものを取り出し、私の前に重く置いた。


「苦しい?」

 彼の声はひどく掠れていた。

「苦しいなら、もう俺を苦しめないでくれよ。若葉、お前は毎日そうやって騒ぐけど、本当に死ぬつもりだったことなんて一度でもあったのか?」

「凛は今日、大きな賞を取ったんだ。彼女の人生でいちばん大切な日なんだよ。なのにお前は、こんな時まで俺に、自分の一生がここに閉じ込められて終わるんだって思わせたいのか?」


 私は呆然と彼を見つめた。五年のあいだで、悠真がこういう危険なものを私の手の届くところに置いたのは初めてだった。これまで私は、キッチンの引き出しを少し見ただけでも、彼にすぐ気づかれた。彼はいつも、今にも爆発する災害を見張るように、私を守っていた。

 けれど今夜の彼は、本当に疲れきっていた。


「苦しいって言っただろ?」

 彼は赤くなった目で私を見た。声は震えるほど低かった。

「じゃあ教えてくれよ。俺はこれ以上、どうすればいいんだ。俺にはもう何も残ってないんだよ、若葉。お前をどう救えばいいのか、本当に分からないんだ」


 そのとき、携帯の着信音が鳴った。

 明るく軽やかなメロディだった。藤崎凛だけに設定された着信音だ。彼女という人間そのもののように、いつも眩しく、いつも重苦しい空気を軽くしてくれる音だった。悠真ははっと我に返ったように、顔から狂気を消した。そして慌ててそれを脇に放り、電話に出た。

「凛、おめでとう」


 彼の声は、また優しくなっていた。

 私は床に座ったまま、悠真が藤崎凛と低い声で話すのを聞いていた。胸の奥に、不思議なほど静かな感情が生まれていく。私は彼が置き忘れたそれをそっと拾い、彼がクッション材を貼りめぐらせた部屋へ戻った。

 五年だった。私が初めて強い希死念慮を抱いてから、城戸悠真は私を慎重すぎるほど守りつづけてきた。包丁は高い場所の鍵付き棚にしまわれ、ハサミも爪切りもガラスのコップも、金属製のハンガーでさえ彼に片づけられた。寝室の壁にはクッション材が貼られ、引き出しには鍵がかけられ、窓にはストッパーまで取りつけられていた。


 彼はかつて、東都科学大学の神経科学研究室で、もっとも眩しい若手研究者だった。指導教授は、彼なら将来必ず東都先端生命科学研究所の中核プロジェクトに入り、世界の舞台に立てると言っていた。


 けれど、そのあと私が病気になった。私を守るために、彼は研究所の採用枠を手放し、ポスドクの推薦枠を諦め、すべての交友関係も断った。長年の貯金は私の薬代、治療費、カウンセリング代に消え、最後には家賃さえ払えないほど追い込まれた。

 昼間、彼はアパートにこもって他人の論文を添削し、名前の出せない研究資料の整理を請け負った。夜になると、私が眠るのを待ってから、宅配倉庫の深夜仕分けの仕事に向かった。休日には運転代行まで始めた。少しでも多く稼いで、私の翌月のカウンセリング代を払うためだった。


 かつて天才と呼ばれた人が、今では色あせた上着を着て、東京の冷たい夜を走り回っている。

 リビングの隅には、大きな段ボール箱が置かれていた。中身はすべて、藤崎凛が研究所から送ってきたものだ。賞状、昔の写真、研究報告書、賞のノミネート通知。その半分は、本来なら悠真のものでもあった。

 私はこの瞬間ほど、はっきり理解したことがなかった。私は彼の明るい未来から消えない影だった。彼の完璧な人生に入った、ただ一つのひびだった。私の存在は、彼にとって苦痛であり、間違いだったのだ。

 彼の言う通りだった。私はなぜ、何度も何度も自分を制御できずに発作を起こすのだろう。彼がもう限界に近いと知っていながら、なぜまだ彼をそばに縛りつけているのだろう。私は本当に、消えるべきだった。


 部屋の外から、悠真が藤崎凛と電話で話す笑い声が聞こえた。あんなに晴れやかな笑い声を、私は彼から長いあいだ聞いていなかった。


 私は浴室へ入り、すべてをきれいに整えた。せめて最後くらい、彼の手を煩わせたくなかった。鏡に映る私は青白く、やつれて、目だけが空洞みたいだった。かつて東都科学大学の演壇に立ち、教授たちを驚かせた水瀬若葉とは、まるで別人だった。


 ドアの向こうから、藤崎凛の柔らかな声が電話越しに聞こえてきた。

「悠真、本当に自分の夢を諦めて、一生あの人のそばにいるつもりなの?」

 長い沈黙のあと、悠真の疲れ果てた声が聞こえた。

「凛、分かるか。俺は時々、彼女がこれ以上苦しまなくて済む方法があればいいのにって、考えてしまうんだ」

 彼の声が詰まった。

「でもできない。俺には、どうしてもできない」


 私はふと笑ってしまった。やっぱり私たちは夫婦なのだ。考えることまで、こんなにも似ている。

 悠真、私はやっと、あなたの重荷でいなくなれる。あなたは自由になれる。


 意識がゆっくり遠のいていく中で、窓の外を風が通り過ぎる音がした。東京の冬の夜は冷たいはずなのに、私はかつてないほど軽くなった気がした。両親はもう、私をあなたに嫁がせたことを悔やまなくていい。あなたの両親も、私と別れるべきかどうかで、もうあなたと揉めなくていい。

 あなたはようやく、何も気にせず藤崎凛を抱きしめられる。あなたと同じくらい優秀で、明るくて、あの授賞台に立つべき女の子を。


 

 2.大晦日の来客

 私は死んだ。

 魂だけになった私は、浴室の上に漂いながら、青白い顔をした自分を見下ろしていた。胸の中に浮かんだのは、ひどく場違いな考えだった。なんて醜いんだろう。悠真が見たら、きっと怖がるに違いない。


 インターホンが鳴ったとき、私は浴室を抜けて玄関のほうへ漂った。ドアの向こうから、賑やかな笑い声が聞こえる。藤崎凛が、悠真の両親を連れて来たのだ。

 そこでようやく思い出した。今夜は日本の大晦日だった。東京の街にはもう年末の気配が満ちていて、コンビニの前には年越しそばのポスターが貼られ、遠くでは新年用の手土産を提げた人が足早に通り過ぎていく。けれど私たちの小さなアパートでは、もう長いこと、まともに年越しをしたことがなかった。


 悠真の母は、玄関に入るなり嬉しそうに笑った。

「今日は本当にめでたいわね。凛ちゃんがあんな大きな賞を取って、私たち家族も一緒に年越しできるなんて」

「やっぱり凛ちゃんは気が利くわ。悠真が一人で若葉さんと大晦日を過ごすのは寂しいだろうって、みんなで来ることを提案してくれたんだから」


 私が病気になってから、悠真はもう四年も家族とまともに年越しをしていなかった。私を実家に連れて帰ろうとしたことがなかったわけではない。けれど親戚たちが一番楽しそうにしているときに限って、私は発作を起こした。理解できない人、眉をひそめる人、ため息をつく人がいた。最後には、本来なら団らんになるはずの年末の集まりが、いつも誰にとっても気まずいものになってしまった。


「今の時代、生活に困っているわけでもないのに、どうしてうつ病なんかになるの? あの子よりつらい人なんていくらでもいるでしょう」

「一番かわいそうなのは悠真よ。あんなに優秀だった子が、すっかり引きずり下ろされてしまって」

「女なのに子どもも産めなくて、病気まで抱えて、それでも夫を離さないなんて、あまりにも身勝手じゃない?」


 そんな言葉を、私は全部聞いたことがあった。悠真も聞いていた。

 あのとき、彼は親戚たちと激しく言い争った。それ以来、彼は二度と私を家族の集まりに連れて行かなくなった。

 藤崎凛は、悠真の気まずさを察したように、そっと彼の手を引いた。

「おばさま、その話はやめましょう。食材は私が買ってきましたから、悠真に手伝ってもらいますね。急がないと、年越しの食事に間に合いません」


 彼女はいつもそうだった。たった一言で、悠真と母親のあいだに張りつめた空気をやわらげてしまう。彼女は清潔な光のように、この重苦しい家に差し込み、そこにいる全員を柔らかく照らしていく。

 キッチンで、悠真は藤崎凛が持ってきた二つの大きな袋を見て、目を赤くした。中身はすべて、彼が昔好きだったものばかりだった。鰻の寿司、カキフライ、牛肉の鍋の具材、それに彼が高校時代から好きだった苺のショートケーキ。


「凛、知ってるか」

 悠真は低い声で言った。

「君のそばにいるときだけ、俺はほんの少し息ができるんだ」

 藤崎凛の目も赤くなった。彼女は一歩前に出て、そっと彼を抱きしめた。

「悠真、誰もあなたを労わらないなら、私が労わる」

「どんなにつらい道でも、私が一緒に歩く」


 私はその光景を見て、少し胸が酸っぱくなった。それでも、本心から彼のために良かったと思った。悠真はこの数年、あまりにも苦しすぎた。彼には本来、誰かに大切にされる資格があった。藤崎凛のような人こそ、彼の隣に立つべきなのだ。優しく、明るく、優秀で、人付き合いができ、年長者の世話もできて、彼の研究の夢も理解できる人。

 彼らは並んで立っているだけで、本当の家族のように見えた。私がいたときのように、誰もが息をひそめ、笑い声の大きさにまで気をつかわなければいけない空気とは違っていた。


「若葉さんは?」

 悠真の父が不意に尋ねた。悠真は手を拭きながら、私の部屋のほうを一度見た。

「昼間、少し言いすぎたんだ。部屋で怒ってるんだと思う。呼んでくる」


 リビングの笑い声が薄れた。悠真の母はすぐに彼を引き止め、不満を隠しきれない声で言った。

「呼ばなくていいでしょう? 凛ちゃんのめでたい日に、わざわざ出てきて空気を悪くさせるつもり?」

「毎日苦しい苦しいって言って、死ぬの生きるの騒いでいるけど、あの子は誰よりもしぶとく生きているじゃない。私たちのほうがよほど疲れきっているのに、悠真のことを少しも思いやっていない」

 私は彼女の前に漂い、そっと言った。

「私は、みんなを困らせたかったわけじゃありません。それに、私は本当にもう死んでいます」


 けれど誰にも聞こえなかった。私の声は風の中に散り、跡さえ残らなかった。

 悠真の父もため息をつき、続けて言った。

「もういい。あの子が拗ねているなら、拗ねさせておけ。甘やかしてばかりではいけない。悠真、お前もそろそろ自分のことを考えなさい」


 私は少しだけ悔しかった。

 城戸家に嫁いだばかりの頃、悠真の父は誰よりも私を誇りに思ってくれていた。あの頃、私も藤崎凛も同じ東都科学大学を卒業していたし、研究室での成績は私のほうがずっと上だった。教授は、私が病気にならなければ、最初に東都先端生命科学研究所へ入ったのは私だったはずだと言っていた。

 けれどその後、私は博士課程を退いた。私が担当していたテーマは藤崎凛に引き継がれた。彼女は一歩ずつ授賞台へ上がっていき、私は一歩ずつ、このクッション材に囲まれた部屋へ閉じ込められていった。


 悠真は私の部屋のほうを見つめ、まだ何か言いたそうだった。藤崎凛がそっと彼の袖を掴む。その目には、行かないでほしいという思いが滲んでいた。悠真はしばらく黙り込み、最後には頷いた。


「分かった」

 彼は低い声で言った。

「若葉のわがままも、そろそろ直さないとな」


 その瞬間、胸を見えない手で強く握りつぶされたようだった。悠真の中でも、私はただ理不尽に騒いでいるだけの人間になっていたのだ。

 少なくとも彼だけは違うと思っていたのに。



 3.苺のケーキと離婚協議書

 年越しの食卓には、温かな湯気が立ちのぼっていた。

 牛肉の鍋はぐつぐつと香りを立て、カキフライは白い皿に並べられていた。年越しそばの横には、苺のショートケーキまで置かれている。それは私が一番好きな店のもので、普段なら長い列に並ばなければ買えないものだった。

 体調のいいとき、私は何度か、あの店の苺のケーキが食べたいと口にしたことがあった。けれどクリームと糖分は私の病状に良くないからと、悠真はずっと買ってくれなかった。もう忘れていると思っていたのに、今日、本当に買ってきてくれていた。私は思わずケーキのそばへ漂い、甘い香りを吸い込もうと顔を近づけた。

 次の瞬間、細く白い手が伸びてきて、ケーキを取った。藤崎凛だった。彼女は自然な仕草で一切れを切り分け、食べようとした。悠真の目がわずかに動く。何か言いかけたように見えた。藤崎凛は手を止め、不安そうに彼を見た。


「どうしたの?」

「いや、何でもない」

 悠真は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。藤崎凛は手の中のケーキを見て、少し気まずそうな顔をした。

「このケーキ、若葉さんのために用意したものだった?」

 彼女のおずおずとした様子に、悠真の目にはすぐ痛ましさが宿った。

「違う」

 彼はそっと言った。

「彼女はこういうものが好きじゃない。ケーキは君のために買ったんだ」


 藤崎凛はようやく幸せそうに笑い、小さな口でケーキを食べはじめた。悠真は彼女の満足そうな顔を見て、無意識に口元を緩めていた。

 私はそばに立ち、低く言った。

「違うよ。私も好きだよ」


 私は剥がされたケーキのフィルムに触れようとした。端についたクリームをほんの少しでいいから舐めたかった。けれど指は空気をすり抜けるだけだった。悲しかった。死んでしまうと、ほんの少しの甘ささえ味わえないのだ。


 私の悲しみとは違って、食卓の空気はますます賑やかになっていった。藤崎凛は人を楽しませるのがとても上手な人だった。彼女は授賞台での出来事や、研究所の先輩が緊張しすぎて台詞を忘れた話、海外の記者が自分の名前を読み間違えた話をした。ほんの数言で、悠真の両親は腹を抱えて笑った。


 食事が終わると、藤崎凛と悠真は両親への新年の贈り物を取り出した。悠真が用意したのは、「遠い山」をテーマにしたペアリングだった。藤崎凛が贈ったのは、「海の波」をテーマにしたブローチのセットだった。偶然にも二つを合わせると、まるで「海誓山盟」のような意味になった。

 二人は息の合ったように視線を交わした。その一瞬の視線は短いのに、人を火傷させるほど熱かった。


 藤崎凛は熱くなった頬を手で扇ぎ、半分照れ、半分甘えるように言った。

「きっと悠真がこっそり私の考えを真似したんだわ。おばさまが気に入ってくださったから、今回は許してあげる」

 悠真は鼻のあたりを指で擦り、目に笑みを浮かべたまま、否定しなかった。悠真の両親は二人を見て、嬉しそうに笑っていた。けれど笑っているうちに、悠真の母はふと寂しげな顔になった。

「私はずっと、凛ちゃんと悠真が一番お似合いだと思っていたの」

 彼女は悠真を見て、それから藤崎凛を見た。

「余計な人が割り込んでこなければ、今ごろあなたたちには子どもがいたかもしれないのに」


 以前なら、こういうとき悠真は必ずすぐに反論した。けれど今日は黙っていた。彼は俯き、聞こえなかったふりをするように、ご飯を一口口に運んだ。


 悠真の母はその隙に、バッグから一通の書類を取り出し、彼の前に押し出した。

 私は近づいてそれを見て、思わず固まった。それは離婚協議書だった。そこには私の署名があった。


 そのときようやく、少し前に母が一度来たことを思い出した。家の名義変更の手続きがあるから、念のために先に署名してほしいと言われたのだ。あの日の私は精神状態がひどく、よく確認しないまま名前を書いた。

 あの書類は、離婚協議書だったのだ。

 胸が少し苦しくなったが、強い悲しみはなかった。ただ、そんなふうに騙さなくてもよかったのに、と思った。堂々と差し出してくれたなら、私はきっと署名した。

 悠真はその書類を長いあいだ見つめ、掠れた声で言った。


「若葉が署名に同意するはずがない。どうやって手に入れたんだ?」

 彼の母は少し気まずそうに目を逸らした。

「どうやってかなんて、あなたは知らなくていいの。とにかく、あなたが名前を書けば解放されるのよ」

「自分の姿を見なさい。たった五年で、どれだけ自分をすり減らしたの。あの子の薬は一番いいもの、カウンセリングも一番高いところ。貯金は消えたうえに借金まで背負って。昔のあなたはあんなに誇り高かったのに、今ではお金を借りるために、面子まで捨てているじゃない」

「凛ちゃんはもう研究所に話を通してくれているのよ。あなたが戻る気になれば、東都先端生命科学研究所はいつでも受け入れてくれる。すぐに最新プロジェクトにも参加できるの。あなたが一番興味を持っていたことじゃない。悠真、あなたはまだ二十八歳なのよ。本当に一生をあの子に壊されるつもり?」


 藤崎凛は悠真の迷いを見抜いたように、優しく口を開いた。

「悠真兄さん、私たちは若葉さんを完全に見捨てろと言っているんじゃないの。今回の賞金も、これまで貯めてきたお金も、彼女の治療費に使っていい。ただ、あなたの人生まで彼女に縛りつけないでほしいの」

「あなたは、本当に疲れすぎている」


 悠真は、彼女がそう言うとは思っていなかったのか、呆然と彼女を見つめた。藤崎凛はペンを彼の手に押し込んだ。

 私の胸も、同じように締めつけられた。その瞬間、私の考えは滑稽なほど矛盾していた。悠真には過去を忘れて前に進んでほしかった。けれど、本当に私を忘れてしまうのも怖かった。

 悠真も私と同じように迷っているようだった。彼は何度かペンを持ち上げたが、最後まで名前を書けなかった。その小さな出来事のあと、悠真の心は明らかにどこかへ離れていった。


 夜八時にもならないうちに、彼は両親と藤崎凛を送り出した。

 リビングは再び静かになった。彼は一人で黙々と食卓を片づけた。その手つきは、四年前よりずっと慣れていた。もう一度あの離婚協議書を手にしたとき、彼はすぐに捨てはしなかった。黙ったまま、それを棚の一番奥へしまい込んだ。


 

 4.扉の向こうの沈黙

 再び私の部屋の前に立ったとき、城戸悠真は一皿の食事を手にしていた。

 食事が始まる前に、彼は私の好きなものをあらかじめ取り分け、キッチンで温めてくれていたのだ。皿の上には小さく切った牛肉、カキフライ、数口分のそば、そして苺のケーキにのっていた一番大きく赤い苺がいくつかあった。

 彼はもう厚手の上着に着替えていた。私は知っていた。今夜、彼は運転代行の仕事に行くのだ。大晦日の夜は、飲酒後に車を運転できない人が多く、代行料金は普段より高くなる。一晩走れば、私の半月分のカウンセリング代になる。


 彼はおそるおそる部屋の中を覗き込み、ひどく軽い声で、機嫌をうかがうように言った。

「若葉、まだ怒ってるのか?」


 部屋の中から返事はなかった。彼は私がまだ拗ねているのだと思ったのだろう。額をそっとドアに押し当てた。その姿は、かつて意気揚々としていた研究の天才などではなく、悪いことをしたあと、どう謝ればいいか分からない子どものようだった。


「ごめんな、奥さん。今日の俺、言いすぎた」

 彼の両手は拳になり、鼻先から涙が落ちた。

「疲れすぎて、あんなことを言ったんだ。今日、代筆の原稿料を踏み倒されて、この数日の努力が全部無駄になった。お前の来月の薬代もまだ足りない。苦しそうなお前を見たら、急に我慢できなくなった」

「若葉、分かるか。俺はただ悔しかったんだ。どうしてお前なんだって。俺たちには、あんなに明るい未来があったはずなのに、どうして全部こんなことになったんだって」


 彼はそこに立ったまま、世界中から見捨てられた人のように自分を責めていた。私は彼の頭を撫でたかった。けれど触れたのは、虚ろな空気だけだった。

 それが、私たちがもう生死を隔てているのだと、初めてはっきり知った瞬間だった。


「若葉、怒ってるなら出てきて俺を殴ってくれ。罵ってくれ。頼むから」

「黙ったままでいないでくれ。俺を無視しないでくれ」

 彼は手元の皿を見下ろし、さらに声を低くした。

「ほら、お前の好きな苺、残しておいたんだ。一口だけでも食べてくれないか?」


 そのとき初めて気づいた。さっき藤崎凛が食べていた苺のケーキには、苺が一つも乗っていなかった。目の奥が急に熱くなった。

「知ってるか。夜勤の班長が、俺はよく働くから給料を上げてやりたいって言ってくれたんだ。それに、運転代行の仕事も新しく始めた」

 悠真は無理に笑った。

「若葉、ほら、全部少しずつ良くなってる。だから、もう怒らないでくれないか?」


 部屋の中は、死んだような沈黙に包まれたままだった。携帯の中で、出勤を知らせるアラームが鳴った。

 悠真は苦笑しながら顔を上げ、何度も深呼吸して、ようやく自分を落ち着かせた。最後にもう一度、優しい声で言った。

「若葉、ごめん。ゆっくり休め。明日の朝、新鮮な苺を買ってくるから」


 出かける前に、悠真はあの引き出しの前へ向かった。私の沈黙が、ついに彼に決断させたのだと思った。けれど彼は離婚協議書を取り出した瞬間、ためらうことなくそれを破った。紙片がゴミ箱に落ちる様子は、遅れて降る雪のようだった。

 馬鹿な悠真。あんなにたくさん機会があったのに。どうして私という重い荷物を、どうしても捨てられないの。


 悠真が出て行ってから、ほどなくして藤崎凛が来た。

 彼女はまず、私の部屋のドアを三回強く叩いた。中から何の反応もないと分かると、顔に浮かんでいた優しさが少しずつ消えていった。代わりに現れたのは、抑え込んだ苛立ちだった。

「水瀬若葉、いい加減にして」

「この世に、どうしてあなたみたいに身勝手な人がいるの? 自分の病気のことしか見えていないのね。知っている? 悠真は先月、医師から軽いうつ状態だと診断されたのよ。でも治療を受けようとしないし、薬を飲むお金も惜しんで、自分は病気じゃないって言い張っているの」


 私はその場に固まった。心臓を鋭いもので貫かれたようだった。もう鼓動なんてないはずなのに、胸だけはひどく痛んだ。

「そんな……悠真は、私に一度も言わなかった」


 藤崎凛に私の声は聞こえない。彼女はドアの外に立ち、目を赤くしながら、声だけはどんどん冷たくしていった。

「お願いだから、もう悠真を縛らないで。頼むから、あの人を自由にしてあげて」


 彼女の言葉は、喉を締めつける手のようだった。私は今すぐ彼女に伝えたかった。私はもう死んだのだと。私は本当に、もう悠真を引きずらない。二度と、彼の重荷にはならない。

 けれど部屋の中は、相変わらず死んだように静かだった。藤崎凛はついに我慢できなくなった。彼女は食卓へ行き、悠真が私に残してくれた食事と苺を、すべてゴミ箱へ掃き入れた。


「そう。どうしても離さないつもりなのね。それなら、私にも考えがある」

「悠真が心配して、私に様子を見に行ってくれって頼んだのに。あなたみたいに身勝手な人は、誰よりもしぶとく生きている。何を心配する必要があるの?」


 そう言い終えると、彼女は手際よく悠真の散らかった部屋を片づけはじめた。私はふと、悠真の母が彼女を評した言葉を思い出した。

「表舞台にも立てるし、家のこともできる」

 その言葉だけは、本当にその通りだった。


 翌朝、城戸悠真は新鮮な苺の大きな箱を提げて、疲れきった姿で帰ってきた。彼が目にしたのは、異様なほどきれいに片づけられた部屋と、ソファで眠る藤崎凛だった。彼女の前のローテーブルには、彼が破り捨てた離婚協議書が置かれていた。

 書類は彼女の手で貼り合わせられていた。一片一片、きれいに並べられていた。

 悠真はその光景を見て、わずかに目を見開いた。それから黙って彼女に薄い毛布を掛けた。すると藤崎凛が目を覚ました。彼女は悠真の手の中の苺を見ると、目を輝かせ、甘えるように言った。

「私に買ってきてくれた苺?」


 彼女が手を伸ばすと、悠真は箱を引いた。

「違う」

 彼はまっすぐ私の部屋の前へ向かった。


 昨夜残しておいた食事と苺がなくなっているのを見て、彼は私が食べたのだと思い、明らかにほっとした。それから、扉の向こうへ機嫌を取るような声で言った。

「奥さん、新鮮な苺を買ってきたよ。二つだけでも食べてくれないか?」

 中からの返事はなかった。藤崎凛は冷たく笑い、貼り合わせた離婚協議書を彼の前に押し出した。

「どうして破ったの?」

「私と結婚したくないの?」

 一晩中働いてきた悠真の声は疲れていた。それでも、迷いは一つもなかった。

「言っただろう。俺は若葉とは離婚しない」


 その言葉で、藤崎凛の目は一瞬で赤くなった。

 彼女は突然立ち上がり、悠真の首に腕を回して、必死に唇を重ねた。悠真は押し返そうとしたが、彼女は離れなかった。二人は狭いリビングで、混乱と絶望が絡み合うようにもつれた。

 最後に、藤崎凛は部屋の合鍵を取り出した。鍵が回る音がした瞬間、悠真の顔色が変わった。


 

 5.遅すぎた発見

 扉が開いた瞬間、城戸悠真は藤崎凛を突き飛ばした。

 藤崎凛は床に座り込んだ。まだ何か言う間もなく、吐き気を催すほど濃い血の匂いが、湿った水気と混ざって流れ出した。

 悠真は完全に取り乱した。彼は狂ったように部屋の中で私を探した。ベッドにもいない。ベランダにもいない。クッション材に囲まれた部屋にもいない。最後に浴室へ飛び込んだ瞬間、彼の世界は止まったようだった。目の前にあったのは、冷たい水に沈んだ私だけだった。青白く、硬く、もう呼吸をしていなかった。

 彼の瞳孔が激しく収縮し、全身がその場に凍りついた。次の瞬間、人の声とは思えないほど悲痛な叫びが、狭いアパートを貫き、東京の冬の朝の灰色の空まで突き抜けた。


「若葉――!」

 彼は膝から崩れ落ちた。

 震える手で私に触れようとして、触れられなかった。抱きしめようとして、傷つけてしまうことを恐れていた。

「若葉……奥さん……」

「起きてくれ……寝ないでくれ……」

「水が冷たいだろう……風邪を引くだろう……」


 彼は支離滅裂に呟き、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしていた。その姿は、かつて国際会議で英語の発表を落ち着いてこなしていた城戸悠真とは、まるで別人だった。

 彼は自分の頬を強く打ち始めた。何度も、何度も、力いっぱい。すぐに頬が腫れ上がった。


「俺は最低だ! どうしてお前を一人でここに置いたんだ!」


 彼はすでに冷たく硬くなった私を抱きしめ、喉が裂けるほど泣いた。私は半空に漂いながら、その崩れ落ちた姿を見ていた。心が砕けそうだった。悠真、泣かないで。あなたのせいじゃない。私が自分で行くと決めたの。私があなたを捨てたの。


 救急車が来た。警察も来た。

 赤と青の灯りが階下で交互に点滅し、古いアパートの壁を明るくしたり暗くしたりした。狭い部屋には人があふれた。医師、看護師、警察官、音を聞いて集まった近所の人たち、そして顔面蒼白の藤崎凛。

 悠真は狂ったように、私の体を抱え込んで離さなかった。誰かが触れようとすると、獣のような目で睨みつけた。その目は、最後の食べ物を守る野獣のようで、絶望的で恐ろしかった。


「出ていけ!」

「全員出ていけ!」

「彼女は死んでない、眠ってるだけだ!」


 藤崎凛が彼をなだめようとしたが、悠真はさらに激しく怒鳴り返した。医師はどうしようもないというように首を振り、憐れみの目をした。

「ご主人、落ち着いてください。奥様はもう、亡くなられてかなり時間が経っています」

「嘘をつくな!」

 悠真は怒鳴った。首筋の血管が浮き上がっていた。

「昨夜、俺は彼女に話しかけたんだ! この扉の前で!」

「苺だって残しておいた。彼女が死んでいるはずがない!」


 数人の警察官が近づき、ようやく彼を押さえつけた。その隙に医師が私に白い布をかけ、運び出そうとした。白い布が私の顔を覆うのを見た瞬間、悠真は完全に崩壊した。彼は必死にもがき、私の名前を叫びつづけた。


「若葉! 行くな!」

「俺に約束しただろう、いなくならないって!」

「俺が家にいる限り、お前も家にいるって言ったじゃないか。嘘つき!」

「お前がいなくなったら、俺はどうすればいいんだ!」


 医師はどうすることもできず、彼に鎮静剤を打った。薬はすぐに効きはじめ、彼の抵抗は少しずつ弱くなっていった。それでも彼は、担架が出ていく方向をじっと睨みつづけ、目尻から涙を流していた。

 責任者らしい警察官が悠真を見た。その目には疑いと観察があった。


「あなたが亡くなった方のご主人ですか?」

 悠真は床に座り込んだまま、虚ろな目で頷いた。

「あなたは家にずっといたのに、奥さんの異変に気づかなかったのですか?」

 警察官の声は冷たかった。その一言は、刃より鋭かった。

 そうだ。彼は扉のすぐ外にいた。たった一枚の扉を挟んで、私は中で少しずつこの世界を離れていった。そのとき彼は外で、藤崎凛が貼り合わせた離婚協議書と、本来ならやり直せたかもしれない人生を前にしていた。


 自責が彼の骨を噛み砕いていく。

「ごめん……」

 悠真は頭を抱え、苦しそうに嗚咽した。

「知らなかった。本当に、知らなかったんだ……」

 悠真の母が知らせを聞いて駆けつけたとき、部屋の惨状を見て、その場に尻もちをついた。

「ほ、本当に死んだの?」

 彼女は太ももを叩いて泣き叫んだが、その泣き声に悲しみはほとんどなく、恐怖と恨みのほうが強かった。

「これからこの部屋、どうやって住めばいいのよ! どうしてわざわざここで死ぬの!」


 悠真は勢いよく顔を上げ、母を睨みつけた。その目は人を噛み殺しそうだった。

「出ていけ」

 彼は歯の隙間から、一語だけ絞り出した。母は固まった。

「何を言ってるの? 私はあなたの母親よ!」

「出ていけって言ってるんだ!」

 悠真は最後の力を振り絞って怒鳴った。


 母は恐怖で何も言えなくなった。鎮静剤が完全に効きはじめ、悠真の意識はぼやけていった。彼は床で踏みつぶされた苺を見つめ、まだ小さく呟いていた。

「若葉、苺を買ってきたんだ……」

「起きて、一口だけ食べてくれないか……」

「もう怒鳴らないから、帰ってきてくれ……」

 言い終える前に、彼の目が裏返り、そのまま倒れた。


 

 6.手術室での再会

 私は彼のそばにいた。彼を引き止めたかった。眠らないでと言いたかった。けれど私の手は、何度も彼の体をすり抜けた。

 城戸悠真は救命処置室へ運ばれた。強いショックに加え、長期の過労が重なり、深刻な心臓の問題を引き起こしていた。手術室のランプが赤く光っている。医師たちは中で慌ただしく動き、モニターは急かすような音を鳴らしつづけていた。

 悠真は手術台に横たわっていた。その顔色は、死んだときの私よりもさらに青白かった。

 突然、モニターの音が耳障りな長い音に変わった。医師たちはすぐに蘇生を始めた。

 私は部屋の隅に立ち、魂でも震えることがあるのだと初めて知った。

 そのとき、悠真が起き上がるのが見えた。彼の体ではない。彼の魂だった。彼は茫然とあたりを見回し、すぐに隅にいる私を見つけた。その瞬間、彼の目は、ようやく家に帰る道を見つけた子どものように輝いた。

「若葉!」

 彼は私の名前を呼び、私のほうへ駆けてきた。

「見つけた! よかった。やっぱりお前は俺を待っていてくれたんだ」

 彼は私を抱きしめようとした。その顔には、ようやく解放された人の笑みがあった。

「行こう。今まで行けなかった場所に全部行こう。北海道で雪を見て、鎌倉で海を見て、京都に一か月住もう」

「子どもだって作れる。俺はもう、名前の出せない論文なんて書かなくていいんだ」


 彼は私の手を掴もうとした。その手は温かかった。私が何年も恋い焦がれた温度だった。けれど私は激しく彼の手を振り払った。

「誰が来ていいって言ったの!」

 私は一歩下がり、彼を強く押した。

「戻って! ここはあなたが来る場所じゃない!」


 悠真は凍りついた。悪いことをした子どものように、悲しげな目で私を見た。

「どうして? 俺はお前のそばにいたい」

「お前がいないと、俺は生きていけない。あの家は寒すぎるんだ。どこを見てもお前の影がある。怖いんだ」

「あっちで一人でいる一秒一秒が地獄なんだ。若葉、俺を追い返さないでくれ。頼む」


 彼は泣きながら私に頼み、もう一度私の手を掴もうとした。

 胸が裂けるほど苦しかった。けれど私は彼を死なせるわけにはいかなかった。彼はまだ二十八歳だ。人生はまだ長い。研究所にも戻れる。人を本当に救える研究だってできる。私のような重荷のために、命まで捨てるべきではなかった。


「城戸悠真!」

 私は手術台の上の、無数の機器につながれた体を指差し、震える声で彼を叱った。

「あなたは生きている人間なの! あなたには研究の仕事がある。外にはご両親もいる。未来だってまだ長い!」

「あなたが死んだら、私は本当に無駄死にしたことになる! 私が離れたのは、あなたを解放するためであって、あなたに後を追わせるためじゃない!」

「私はあなたに生きてほしい。私の代わりに春の桜を見て、私が歩けなかった道を歩いて、日々を続けてほしいの!」

 悠真は必死に首を振った。その目は恐ろしいほど偏っていた。

「見ない!」

「お前がいないなら、どんな桜にも意味なんてない! 研究もいらない。未来もいらない。俺はお前だけがほしい!」

 彼はまた飛びついてきて、私の腰を強く抱きしめた。

「戻らない。殺されても戻らない」


 駄々をこねる彼を見て、私は泣きたいのか笑いたいのか分からなくなった。馬鹿。ほんとうに馬鹿な人。

 でも、私は心を鬼にしなければならなかった。彼の頬を両手で包み、最後に深く見つめた。

「悠真、言うことを聞いて」


 私は顔を近づけ、彼の唇にキスをした。彼は凍りついたように動きを止めた。そのキスに囚われ、短い温もりに沈んでいく。

 その瞬間、私は最後の力を振り絞り、彼を下へ突き落とした。

「戻って!」

「ちゃんと生きて。それが、私があなたに与える最後の罰だから」

 彼の魂は逆らえないまま後ろへ倒れ、重くその体へ戻っていった。

「若葉――!」

 彼の絶望的な叫びが、虚空に響いた。


 次の瞬間、モニターは再び規則正しい音を鳴らしはじめた。手術台の上で、城戸悠真は勢いよく目を開いた。胸を激しく上下させ、大きく息を吸う。目尻から、一筋の涙が流れた。彼は生き返った。尽きることのない痛みと後悔を抱えて、生き返った。


 

 7.彼女のいない家

 城戸悠真は目を覚ました。けれど誰もが、彼はおかしくなったと言った。

 心拍がようやく安定したばかりなのに、彼は体につながれたチューブを引き抜いた。手の甲の針が抜け、血の粒が白いシーツに散った。看護師たちが悲鳴を上げて駆け寄り、彼を押さえようとしたが、彼は理性を失ったように全員を押しのけた。


「家に帰る」

 医師が駆けつけ、彼を落ち着かせようとした。けれど彼は裸足のまま冷たい床を踏みしめ、扉を睨みつけていた。

「触るな。若葉を探しに帰る」


 誰にも止められなかった。薄い病衣のまま、彼はよろめきながら、血の匂いが残る古いアパートへ戻った。部屋に入って最初にしたことは、片づけを手伝おうとした大家と清掃業者を追い出すことだった。


「触るな。誰も何も触るな」

 彼は大切なものを守るように、浴室の前に立った。そこに私はもういない。冷えた湿気と、消えない痕跡が残っているだけだ。けれど彼の目には、それが私が残した最後のものに映っていた。彼は清掃を拒み、換気さえ拒んだ。

 毎晩、彼は浴室の扉の前で眠った。薄い毛布を一枚敷き、そこで体を丸める。そうして目を閉じれば、私がまだ中で入浴していて、まだ生きているふりができるかのように。

 昼間、彼は狂ったように働きはじめた。以前の彼が働いていたのは、借金を返すためであり、私の薬を買うためであり、カウンセリング代を払うためだった。今の彼が働く理由は、自分を麻痺させるためだけだった。彼は疲れを知らない機械のように、朝から深夜まで、雨の日も風の日も走りつづけた。


 けれど毎晩、仕事が終わると、私のチャットアカウントにメッセージを送った。一日の行動を、細かいことまで全部報告するのだ。

「若葉、今日は雨だった。足は痛くないか? カイロを貼るのを忘れるな」

「若葉、今日は一万二千円稼いだ。借金完済まで少し近づいた」

「今日は果物屋の前を通った。苺が新鮮だった。でもまだ買うのは我慢した。明日買ってくるから、いいだろ?」

 彼は携帯に向かって独り言を言った。笑う日もあれば、泣く日もあった。


 私は彼のそばに漂いながら、彼が日に日に痩せていくのを見ていることしかできなかった。

 あるとき、彼は街である後ろ姿を見つけた。米色のコートを着て、長い髪を下ろした人だった。少しだけ私に似ていた。その瞬間、城戸悠真は狂ったように走り出した。ヘルメットが地面に落ちても拾わなかった。

「若葉!」

「若葉!」

 彼は何本もの通りを追いかけた。人にぶつかり、怒鳴られても気にしなかった。ようやくその人の手を掴むまで、止まらなかった。


 振り返ったのは、見知らぬ顔の女性だった。彼女は怯え、彼の手を振り払った。

「何なんですか、あなた!」


 悠真の目にあった光は、一瞬で消えた。彼は手を離し、雨の中に立ち尽くした。周囲の人たちは彼を指差し、変な人だと罵った。それでも彼は何も聞こえていないように、ヘルメットを抱えて道端にしゃがみ込み、家に帰れない子どものように泣いた。

「奥さん……」

「どこに隠れたんだ」

「会いたい」

「出てきて、俺に会ってくれないか」


 雨はますます強くなった。彼に傘を差してあげたかった。けれど私は彼のそばに漂い、一緒に雨に濡れることしかできなかった。

 とうとう大家の我慢が限界に達した。隣の住人からは何度も苦情が入っていた。部屋に匂いがあること、城戸悠真が毎日空気に向かって話していることが怖すぎるということ。中年の大家は鼻を押さえながら玄関に立ち、埃まみれのテーブルに敷金の精算書を叩きつけた。

「金は返す。さっさと出ていってくれ」

「この部屋が事故物件になったら、俺は誰に文句を言えばいいんだ。まったく縁起でもない」


 このとき、悠真は抵抗しなかった。黙って荷物をまとめた。

 実際、まとめるほどのものもほとんどなかった。この家には、もともと価値のあるものなどなかった。数枚の古い服、数冊の研究資料、私の病歴、そして結婚したときに買った安い食器。

 ベッドの下を片づけているとき、ほうきが硬いものに当たった。悠真は床に腹ばいになり、古いクッキー缶を取り出した。それは以前、中秋節の頃に中華街の菓子店で売られていた箱で、私は小物入れにしていた。


 蓋は固かった。彼が力を込めて開けた瞬間、全身が固まった。

 中にあったのは、三つだけだった。一枚のキャッシュカード、百円ショップで買った薄いノート、それから封も切られていない薬の袋がいくつも。

 抗うつ薬だった。悠真の手が激しく震え、薬袋が床に落ちそうになった。彼はそれを掴み、指をますます震わせた。毎月どれほど苦しくても、彼は私の薬代だけはどうにか捻出していた。薬を私の口元へ運び、私が飲み込むのを確認してから、水を渡してくれていた。

 なのに、なぜ薬がここにあるのか。彼は薬袋を放り出し、その薄いノートを掴んだ。


 最初のページには、私の字があった。

 歪んでいて、弱々しくて、書いた人間が今にも倒れそうな字だった。

「三月十二日。今日は薬を隠した。薬は高すぎる。一錠飲まなければ、悠真は配達の仕事を少し減らせる。もう飲まない。お金を残したい」

 一滴の雫が紙に落ち、インクを滲ませた。悠真の手はひどく震え、薄いノートを持つことさえ難しそうだった。

 彼は次のページをめくった。

「五月四日。病気がもっと悪くなっている気がする。いつも消えたい。でも消えちゃいけない。私までいなくなったら、悠真はどうするの」

「六月十八日。今日は悠真が昔の同業者に笑われているのを、私はドアの陰から見た。苦しくてたまらなかった。私は吸血鬼だ。彼の血を吸っている」

「八月二日。悠真と冷戦なんてしたくない。でも感情を抑えられない。発作を起こした私を見て彼が怖がるのが嫌で、浴室に隠れてタオルを噛んで泣いた。悠真、ごめん」


 最後のページは、私が死んだ日に書いたものだった。文字はひどく乱れていて、涙の跡があった。

「もし私がいなくなったら、このカードのお金と、結婚指輪を売ったお金で、少しは彼が息をつけるはず」

「悠真、ごめん。私を責めないで。もう本当に耐えられない」


 真実は刃のように、悠真の心臓へ突き刺さった。

 あの半年、私が喜怒哀楽を抑えられなかったのは、彼を愛していなかったからではなかった。お金を節約するために、こっそり薬をやめていたからだった。

 彼は携帯でそのカードの残高を確認した。

 残高は、三十万円だった。

 それは、私が少しずつ治療を諦めることで残したお金だった。


 

 8.俺が覚えている限り

「ああ――!」

 城戸悠真は薬袋とキャッシュカードを抱きしめ、体を丸めた。喉の奥から押し出された掠れた叫びは、ほとんど人の声には聞こえなかった。

「俺は、何て夫なんだ……」

「俺は何て夫なんだよ!」

「どうしてそんなに馬鹿なんだ。どうして薬をやめたんだ」


 彼は額を床に強く打ちつけた。一度、また一度。すぐに額が切れ、血が目に流れ込んだ。それでも彼は痛みを感じていないかのように、ただあのノートを抱きしめ、全身を震わせて泣きつづけた。

 彼はようやく理解した。私は彼を責めてなどいなかった。誰よりも彼を愛していた。彼を少しでも楽に生かすためなら、自分を殺すことさえ選ぶほどに。

 彼は日記の最後のページに、震える手で、一画ずつ文字を書いた。


「若葉、受け取った」

「愛してる」


 私の葬儀は、ひどく簡素なものだった。

 広い式場も、立派な花もなかった。東京郊外にある葬儀社の一番小さな告別室に、白い布をかけた台があり、その上に私の遺影と小さな骨壺が置かれているだけだった。

 悠真の母は隅に縮こまり、低い声でぶつぶつ言っていた。私が縁起でもないこと、城戸家に子どもを残さなかったこと、葬儀にまでお金がかかることを恨んでいた。

「そのまま火葬すればいいのに。わざわざ部屋を借りるなんて、本当に無駄だわ」


 悠真は色あせた黒いジャケットを着て、扉に背を向け、私の遺影の前に立っていた。

 彼は人相が変わるほど痩せていた。頬骨が皮膚を突き上げ、顎には青黒い無精髭が生えていた。係員が火葬の時間を知らせに来ても、彼はまだ空の骨壺を強く抱えたまま、俯き、全員の前で私の白黒写真に深く口づけた。

 そして彼は顔を上げ、母を見て、藤崎凛を見て、見物に来たような人たちを見た。

「水瀬若葉は、俺、城戸悠真の人生で唯一の妻です」

「これから先、再婚だの子どもだのを俺に言う人間がいたら、彼女の悪口を一言でも言う人間がいたら、俺はもう許しません」

「俺は一生、この人を守って生きていきます」


 火葬炉の鉄の扉が開いたとき、熱気が押し寄せてきた。彼は泣かなかった。まばたきもしなかった。ただ、私を呑み込もうとする火をまっすぐ見つめていた。隔離ガラスに押し当てた手の指は、力みすぎて白くなっていた。

 彼の唇が小さく動いた。声は、そばに漂う私にしか聞こえないほど小さかった。


「痛くないか、奥さん」

「怖がるな。火が消えたら、俺がお前を連れて帰る」


 私は彼のそばに漂い、涙を拭ってあげたかった。けれど手のひらは、やはり彼の体をすり抜けた。

 悠真。どうか、ちゃんと生きて。


 三年が過ぎた。

 路地の入口にある銀杏の木は、黄色くなっては緑に戻り、また黄色くなった。城戸悠真は東都先端生命科学研究所へ戻った。

 けれど彼は、別人のようになっていた。人付き合いをしなくなり、飲み会にも行かず、未来のことも口にしなくなった。毎日研究室にこもり、疲れを知らない人のように、神経修復と精神疾患治療の研究に打ち込んだ。三年のあいだに、彼は本当に患者を助けられる成果をいくつも出した。彼は、そうすることだけが私の死に報いる方法だと言った。

 藤崎凛はその後、何度か彼に近づこうとした。そのたびに、彼は容赦なく拒んだ。やがて、彼女も来なくなった。


 研究所では時折、新しく入った女子学生が彼の連絡先を聞こうとした。悠真はただ左手を上げ、薬指の結婚指輪を見せるだけだった。

「妻がいます。そういうつもりはありません」

 それでも諦めない若い女性が、どうして一度も奥様を見たことがないのかと尋ねた。

 悠真はただ静かに言った。

「彼女は遠い場所へ気晴らしに行っています」

「俺は、彼女が家に帰ってくるのを待っています」


 私は彼の頭上に漂い、手を伸ばして頭を撫でようとした。指は彼の髪をすり抜け、何にも触れなかった。

 最近、その無力感はますます強くなっていた。私は分かっていた。もう時間なのだ。執念が薄れ、魂もここに留まれなくなっている。


 その日の夕方、研究所のオフィスの窓は開いていた。風が吹き込み、窓辺の風鈴をちりんちりんと鳴らした。夕日が机の上に落ち、悠真の手元にある、何度も読み返されて古びた日記を照らしていた。

 私は、優しくも抗えない力が、自分を上へ引き上げていくのを感じた。


 悠真が突然立ち上がった。椅子が倒れ、大きな音を立てた。けれど彼はそれを起こす余裕もなく、窓辺へ駆け寄り、見えない空間をじっと睨んだ。

 彼には私が見えない。それでも、感じ取ったのだ。

 三年のあいだ、私たちの間には、理由のない不思議な通じ合いがいつもあった。


「若葉?」

 彼が一度だけ呼んだ。声が震えていた。

 私は彼の前に漂い、その顔をじっと見た。彼は日焼けし、痩せていた。目尻には細い皺ができ、眉のあいだには、私の知らない沈黙がたくさん刻まれていた。けれど以前よりもずっと見ていられる顔だった。長い歳月に磨かれた石のように、すべての尖りが削られていた。


「私、行くね、悠真」

 私は口を開いた。

 彼は空中に手を伸ばした。何も掴めなかった。その手は半ばで止まり、指先だけが小さく震えた。長い時間が経ってから、彼は深く息を吸い、手を下ろしてポケットに入れた。そして笑った。風に向かって、そして私に向かって。

「行け」

「振り返るな」

 その声はとても軽かった。けれど、これまでで一番揺るがなかった。

「この三年で、俺も少しは分かったんだ」

「俺が生きている限り、お前は本当には消えない」

「お前は俺の頭の中にいる。俺の心の中にいる。誰にも連れていけない」


 私は近づき、彼をそっと抱きしめるふりをした。

「ちゃんと生きて。いい子を見つけて。あまり選り好みしないでね」

「それから、煙草は少し控えて」


 私の体はほどけはじめ、細かな光の粒になっていった。

 風が止まった。光の粒も散った。

 城戸悠真は窓辺に、長い長い時間立っていた。

 最後に、彼は低く言った。

「俺が覚えている限り、君は永遠に生きている」

 ――完――




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