第8話
個室に戻るとすでにデザートが出されていた。レアチーズケーキだった。穂高が小さなフォークで突つき
「私ダメですねや、チーズが昔から。要は腐った牛乳やろ?」
と駄々をこねたので、小島が給仕を呼んで下げさせるように命じた。だが、犬のように臭いを嗅いでいた穂高が今度は
「いや、こいつは臭うないなあ。ちょっとトライしてみるわ」
と給仕の方を制し、ひとかけらのケーキを口に放り込んだ。食えないおっさんだ、と小島は心の中でため息をつく。
「あ、なあんや。甘いやないか。悪うないなあ」
と機嫌を取り直したところで、航平が再提案を試みる。
「会長、いかがでしょう。間に外資をはさんでみては?」
穂高はデザートを口いっぱいに頬張り「…外資?」と、少なからず興味を示した。すかさず航平はケーキをフォークに刺して示す。
「ええ。腐った牛乳も“ケーキ”に加工すれば、この国の人間は納得してくれるのではないですかね?」
「そらそや。要は臭みが消えればええねんから。けど、そんなうまい具合に…」
「この男、私の義理の弟なんですが、ホイッスラーNYに勤めてまして」
航平が隣に座る信也を紹介した。
「ホイッスラー…全米十二位、総資本52億ドル、中の上やな」
穂高が間髪入れずに言い当てる。信也は驚いて航平に頷いてみせた。どうやらこの男の頭の中には、古今東西問わず金に関わるデータが詰まっているらしい。航平が信也を促す。
「…実はひが…義兄の会社とホイッスラーは、来年業務提携の契約を交わすことになっております」
航平が引き継いで言う。
「どうでしょう。この際三社もまとめて合併させてみては?」
「なるほどなあ。外資いうオブラートに包む、か」
穂高は口を拭いながらしばらく考えていた。新たな緊張状態がほんの数秒続いた。徐に荻原に向かい、
「荻原はん。これからも末長う、お付き合いくださるようお願いします」
と、穂高が頭を下げた。これで決まりだった。一同は安堵した。
フランス料理店を出た車の中では小島が運転し、助手席に信也が座った、後部座席には荻原と航平が並んだ。
「航平。今日からお前、組の本部長やってくれねえか」
組長はいつになく名前で呼んだ。それが彼のお褒めの言葉なのだ。
「あ、ありがとうございます!」
平身低頭する比嘉社長を見たのは初めてだったので、信也は小声で小島に訊いた。
「本部長ってどんな役職なんですか?」
小島は苦々しげに「金庫番だ」とだけ答えた。
「買収できたことより、穂高会長と懇ろになれたのがでけえやな。知ってるか?あの人の個人資産、一本だとよ」
「まさか、百億っすか?」
小島の答えに荻原が首を振った。
「一兆だ」
車内が静まり返る。当然国税が把握していない金額だろう。荻原は航平の腿をなでながら言った。
「そう考えるとよ。上納金が年五億って、物足りなくねえか?どうだい?航平」
もっと出せるんじゃあねえのか?と恐喝され、明らかに怯えている。信也は助手席で苦笑した。あの鬼のような比嘉航平が、この工務店の社長のような初老の男を本気で恐れているのだ、と。
口からでまかせの業務提携だったため、信也は後付けに動かざるを得なかった。出向先のホイッスラー本社に稟議書を提出した。どうせダメ元、目も通してもらえないだろうと高をくくっていた。ところが、ジョン・ホイッスラーCEOは乗った。アジア進出を狙っていた彼にとって、証券・不動産・ノンバンクが一度に手に入るこの提案は渡りに船だったのだ。
アメリカの実業家は、動き出したら世界一速い。トップの決断を受けて、事務方はわずか二ヶ月で手続きを済ませてしまった。
国際記者会館で経済記者を集めた会見の日、ホイッスラーは満面の笑みで“Whⅰsler・Global・Investment”略して「WGI」のロゴを紹介した。当面は現業を日本スタッフに任せホイッスラーはノベルティを取って名前を貸すだけ、というグレーゾーンの外資系証券会社がここに誕生した。比嘉航平も初代社長(GM)として紹介され、反社会的勢力の一員でありながら記者の拍手を全身に受けた。
(いつまでもこの国はアメリカという名前に弱い、ということだろうな)
と、いつもの冷ややかな笑みを覗かせながら。
その頃、信也が籍を置く東西銀行は大型合併を果たし「第一協同東西BANK」という長ったらしい名称に変わっていた。金融ビッグバンの波に飲まれ、各行はこれ以降も統廃合を繰り返して行くことになる。WGIが立ち上がった一週間後、信也は細川という人事部長からある辞令を受け取った。
「出向の、出向?ですか」
「うん、ホイッスラーCEOたっての希望でね。一応当行在籍のまま、投資顧問としてきみの辣腕を奮ってほしいそうなんだ」
「ぼくは、どこで働くんですか?」
「まあ、ホイッスラーNYと東京のWGIの役職を兼任することになるね」
「ぼくの席はこの銀行にはない、というわけですか?」
細川は、サラリーマンがゴネるんじゃないよ、と軽く目でけん制しながら続けた。
「メガバンクになりゃ、業務も多角化せざるを得ないってことさ」
信也は辞令をじっと見たまま、推理を働かせる。
(無論それだけじゃあない。たぶん、今も手を切れないでいる闇社会からの圧力もあるんだろう?)
細川はフレンドリーに信也の肩を抱く。
「いいか。きみはやつらの監視役でもあるんだ。くれぐれも取り込まれるなよ」
小声で囁くその目は笑っていなかった。
WGIビルの一階は証券取引所のミニチュアのような造作になっていた。
「信也、見ろ。俺の賭場だ」
航平が上機嫌に語る。前面には大型モニター、頭上には回転式の株価情報ディスプレイが設えてある。
「これからは、好き勝手に遊ばせてもらうぜ」
ビル全体が吹き抜けになっていて、航平と信也はいま階上の重役オフィスフロアから取引所を見下ろしている。
「ぼくは当分、NYとここを行ったり来たりですね」
「ああ。よろしく頼むぜ、投資顧問」
航平は信也の前では楽しげに振るまったが、ふと目を伏せる瞬間があった。
(陽海。これがお前の命と引き換えにしたモノだ)
本当にこれを見せたい者はもういない。すきま風はこの頃から男の心の中に吹き始めていた。
平成一三年~一八年
平成一三年(2001年)9月11日。WTCビルに航空機が激突する映像が世界中を駆け巡った。この日NYダウと日経平均株価も暴落し、以後そのまま低迷しつづける。
WGIの社長室で航平は決算書に目を通しては破り捨てて、電話を取る日々が続いた。電話の相手は穂高邦夫である。
「あ、会長。誠に申し訳ありません。また運転資金の方を…」
社長室の片隅のテレビではブッシュ大統領の「悪の枢軸に対して制裁を行う」という声明がライブで流れていた。そして全米各地で繰り広げられる戦争反対のデモも。建国史上初めて本土を攻撃されるという汚点を残した大統領は、再選を期して起死回生の逆張りを仕掛けた。平成十五年(2003年)3月20日、イラクへの空爆に踏み切ったのだ。
WGIビル一階の取引所では〝売り″の単語が飛び交っていた。だがその中で信也は冷静に新興市場の市況を見ていた。内線電話が鳴る。社長室からだ。
―おい。ついにドンパチが始まったな。そっちはどうだ?
「全面安ですね。でも、これはチャンスでもある」
受話器の向こうが沈黙する。
「アメリカで起きた90年代後半のITブームは、必ず日本にも現れる。今のうちに落ちたところを拾いましょう」
信也は思い切った進言をしてみた。
―逆張りか。気が進まねえな。ここは見だ。買いは安定株だけにしとけ。いいな。
「社長!」
しかし電話は切られた。信也は受話器を戻してすぐに飛び出して行った。社長室の航平は書類チェックをしていた。殴り込みにでも来たような信也を航平は片手で遮る。
「話は終わってるぞ」
だが、投資顧問が珍しく詰め寄った。
「社長。いや、荻原組本部長」
「おい」
この職場では禁句だ。
「ちまちま安定株だけ買い付けて、二年間滞納している上納金が払えますか?」
「ほお。俺を脅すのか?」
面白いことを言い出したな、とも思う。
「あんたがコケたら、俺も東京湾に浮かぶんだ」
「今時、そんなヤクザはいねえよ」
鼻で笑われた信也は、書類をどかして航平を睨んだ。
「どっちでもいい。俺が言いたいのはこうだ。ギャンブルする気がないんなら、ヤクザなんかやめちまえ!」
航平は怒るではなく、意外そうな顔で信也を見た。あのときのこいつに似ている。対峙したまま、しばらく睨み合った。
「わかった。いいだろう」
今度もまた、事態を変えるのかもしれない。航平は立ち上がって、信也の頬をつねった。
「勝負してみろよ。坊主」
言質は取った。社長室を出た信也は、吹き抜けから見下ろす一階の取引所に向かって叫んだ。
「みんな、聞け!」
従業員一同が、信也を見上げている。
「今日からは新興市場を土俵にする。ヤフージャパン、楽天、ライブドア…ITと名のつくものは、拾って拾って拾いまくれ!」
イラクでは砂漠の攻防が始まり、連日CNNが戦況を報じた。民家が空爆されていく映像も隠すことなく流された。戦争は全てを塗り替える。ブッシュ大統領の支持率は、株価とともに上昇した。NYダウと日経平均のグラフが、この年の三月を底値に上昇して行ったのだ。リンチ事件もあった。爆弾テロも頻発した。さまよえる戦争難民たちの姿があった。だがその後四年にわたって日本のITバブルは続き、WGIの業績も鰻昇りとなった。社長室の片隅のテレビでは、大統領が再選の笑みを浮かべていた。
「アメリカもまたアメリカという幻影に弱い、ってことだな」
航平は評論家のようなことを言い、すぐに「くっだらねえ」と自嘲しテレビを消した。