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第7話


 小野寺修は汗ばむ手で大型トレーラーのハンドルを握っていた。ミラーに貼った妻と娘のプリクラが彼を見守る。

「博子。朋美。ごめんな。でも、これで借金全部返せるから…」

 子煩悩でごくごく善良な大型車両の運転手だった。だが、スマイルローンで金を借りた。驚くほど容易かった。そのうちに借金と貯金の区別がつかなくなっていた。貯金は使えば無くなるだけだが、借金は使った分を返さなければいけない。そんな子供でも分かることなのに…。

 もう一度「港〇‐△××□」と書かれたメモを見る。さっき高級マンションの駐車場で、車種を確認した。黒塗りのベンツだった。


 比嘉陽海は航平のマンションの地下駐車場で、ベンツのトランクに荷物を積み込みながら携帯電話で兄と話した。

「…やだ、東京の電車は難しいサ…うん、ニイニイの車借りるよ…ナビついてるから、なんくるないさあ」

 思わず出身地の訛りが出るのは、心が躍っているからだ。

「…そそ、瑠奈は学校で拾ってく。じゃあ」

 陽海は携帯を切って、ハンドルを握った。

「瑠奈、温泉久しぶりだねえ。ヒヒ」

 陽海の運転する黒いスモークガラスを張ったベンツが、ゆっくりとマンションの地下駐車場を出た。十メートルも進むと大通りに出る。車の前方が通りに差し掛かった時だった。

 大型トレーラーが尋常ならぬスピードで走ってきて、ベンツを弾き飛ばした。陽海を乗せた車は何度も横転を繰り返し、二十メートル先でようやく止まった。頑丈が売りの高級外車だったが大破した。


 夕方には長野の旅館に電話があり、深夜航平は都内の救急病院にいた。手術室前の長椅子で瑠奈の手を握って結果を待った。手術中のランプが消えて、執刀医が出てくる。航平が立ち上がると、執刀医は首を振った。医者がなにか説明を始めたが聞こえなかった。航平は瑠奈を置いて、抜け殻のようにふらふらと病院を出た。

(…ああ、電話しなきゃな)

 携帯電話を取り出した。既に夜は深まっていたが、あっちは一日の活動が始まったばかりのはずだ。


 まだWTCビルが建っている頃のウォール街に信也はいた。ホイッスラーNYという証券会社に出向していたのだ。洗練された職場で研修生として働く信也の生活は充実していた。身なりや仕種はすっかりスマートなビジネスマンに成長して、この日も株価チェックと顧客の応対に目まぐるしく動いていた。研修教官が受話器片手に信也を呼ぶ。

「サニー、4番に国際電話。ヒジャアとかいう日本人からだ」

 ああ、ヒガはそう聞こえるのかと信也は苦笑して内線を繋いだ。

「あ、比嘉さん?武田です」

―調子はどうだ?

「ええ、いい勉強させてもらってますよ。世界経済の中心ですから実戦的で役に立つことばかりですね」

―お前、休みとって一時帰国できねえか?いや、帰国しろ。

 命令口調に一瞬むっとしたが、思い返した。

「…お袋に何かあったんですか?」

―はるみが死んだ。

 はるみ、が陽海とつながるまで時間がかかった。

「妹さんが?…あ、ご愁傷様です」

―弔い合戦をやる。兵隊が必要だ。

 話が見えなかった。兵隊?弔い合戦?

「いや俺はヤクザじゃないし、比嘉さんの部下でもないし…」

―てめえは陽海と寝ただろうが!

 救急病院の中庭をいらいらと歩き回りながら、航平は続けた。

「お前はあいつの人生に関わったんだ。当然の義務だ」

―そんな無茶苦茶な…

「うるせえ!いいかあいつはな、この世でやりたいことを何もできずに死んだんだ。恋愛とか、結婚とか、しあわせな家庭とか」

 話すほどに取り乱していく。

「あいつの人生はな、献身だけだったんだよ。わかるか?献身だ。どいつもこいつもてめえの欲得しか考えねえのにだ。あいつは、あいつは」

 興奮する航平の視界に、中庭の燈火の下で佇む瑠奈の姿が入った。

じっと航平を見守っている。

「あいつは…」

 と言いかけて電話を切った。瑠奈の許へ歩く。

(…俺が、殺した)

 かみしめた唇は鉄の味がした。


 皮肉なほど青い空に煙が立ち上る。あの気体が人間の魂なのだとしたら、人生はやはり薄っぺらく軽い。瑠奈の手を握りながら喪服姿の航平は口を歪めた。

「瑠奈。死ぬのは怖いと思うか?」

「ん。わかんない。けど、悲しい」

「死はいつも隣にいるんだ。俺の隣にも瑠奈の隣にもな」

 脅かすつもりで言ったわけではない。時折陽海にも話した口癖のような航平の持論だった。瑠奈の肩を抱き寄せたとき、内ポケットの携帯電話が鳴った。発信者は荻原組長だ。反射的に瑠奈を自分から離す。聞かせたくも触らせたくもない世界から遠ざけるように。

―おう、比嘉。陽海ちゃん、残念だったな。お悔やみ言っとくよ。

「恐れ入ります」

―うん。ところでこんなときに何だが、穂高ローンの会長から泣きが入ってなあ。一刻も早くって言うもんだからさあ。

「…はい。うかがいます」

 自分に背を向けて話し込む航平を、瑠奈は恨めしそうに睨んだ。航平もまた、もう一度肩を抱くことはなかった。


 成田空港の搭乗者出口から慎也がカートを押して出て来た。待ち構えていた航平は何も言わず顎をしゃくって車に案内した。車の中ではじめて、航平は信也に説明を始めた。

「俺たちは三年かけて経世研究会、つまり大和田組傘下の企業三社を営業不能に追い込んだ。株主の大部分は手を引いたが、引くに引けない大株主がいる。穂高ローンの会長だ」

「日本トップクラスのノンバンクですよね」

「今日は、その穂高邦夫と話をつける」

 帰国したその日に、信也は大任を言いつけられた。拒否の隙間も与えられなかった。フランス料理店の個室で商談が始まった。メンバーは荻原、そのボディガードとして若頭の小島、航平、信也と穂高邦夫の五人だった。穂高が切り出す。

「もともとがでんな、大和田さんの肝煎りで買うた株ですねや。全国展開するときのみかじめ料代わりですわ」

「古いタイプの組織ですから強引ですよね。お気の毒です。でもおかげで、穂高ローンの名前を知らない者はこの国にはいません」

 慰めにもならないことを荻原が言うと、小島までが

「ああ。体操着着たねえちゃんたちが踊るCM、ありゃいいよな」

 などと呟いたため、航平はテーブルの下でその脛を蹴った。

「でもそれを売ったりしたら、大和田さん気を悪くしませんか?」

 荻原が心配そうに訊いた。これだけは航平の貫目では確かめられないこと。事前に組長には示唆しておいたこと。

「いえいえ。もう組長からして、長尾にはあいそ尽かしてますよってに」

 荻原が航平に目配せをする。商談だ。

「ざっくばらんに申し上げます。当方は時価の五割増しで買い取らせていただく用意をしておりますが、いかがでしょう?」

 好条件のはずだ。だが穂高はナイフとフォークを置いて

「えらいすんません。お断りします」

 と頭を下げた。下げられた荻原組の者たちは凍りついた。

「手前勝手な話で恐縮なんですが、もう私はスジもんは懲り懲りですねや」

 と言うなり、爪楊枝で歯をせせり始めたのだ。それからは一同が黙々と食事を続けた。


 中座した航平は化粧室の洗面台で顔を洗った。打ち合わせと違う方向に話が進んだため、不安を感じた信也が追いかけるように入ってくる。

「驚いたぜ。ヤクザ呼びつけといて、スジもんは懲り懲り、とはな」

 苦笑いする航平に、信也は自分のハンカチを手渡した。どうするんですか?と。

「だが、想定の範囲内だ。打ち合わせ通り、頼むぞ」

「本気ですか?CEOには研修の初日に挨拶したぐらいですよ。ましてや」

「ましてやジャパニーズ・マフィアがらみの会社を買収するわけが、ってか?」

 ハンカチを返しながら言った。

「やってみなきゃわからねえよ」

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