第5話
怖いけど覗いてみたくなる裏社会。平成の水面下に蠢く経済ヤクザどものノワール・クロニクル(暗黒年代記)。
平山の部下らしき検察官ふたりが口々に言う。捜査関係者の間ではそう呼ばれているのか。だとすれば自分が出頭しなくても、いずれは再捜索され白日の下に晒されたのだろう。密告者のような後ろめたさを軽くするため、信也は自分に言い聞かせる。
「それでは、信也さんの知ってる範囲で詳細をお伺いしたいと思います。よろしいですね?」
若い検察官が小型テープレコーダーのスイッチを入れた。
「宜しくお願いします」
信也は恭しく頭を下げてみせた。
ひさしぶりの家族ぐるみの遊園地だったが、瑠奈はフリルつきの洋服が不満だった。これでは走り回れない、と陽海に言ったが「あなたは女の子だから」と取り合ってもらえなかった。
「瑠奈。お花畑行ってみる?」
だが娘は黙って首を振り、興味深そうに出店の射的を凝視する。
ベンチにはふたりを見守る航平が座っている。ポケットの携帯電話が鳴る。着信者を一瞥して「おう、どうだった?」と聞くと、信也の声が返ってきた。
―一年通え、と言われました。
「朗報じゃねえか。東京地検特捜部が大ネタと認めたわけだ」
―それと、取り調べが終わったらニューヨーク支店に異動した方がいいって…どういう意味ですかね?
地検は信也の勤務先についても調べ上げている。俺の知ってる限りじゃあ、東西銀行のNY支店は近年立ち上がったばかりのはずだ。だが証人を隠すにはうってつけ。
「国内じゃ、検察も完全におまえを守りきる自信がねえってこった。チンコロがバレたら、やつら地獄の底まで追ってくるからな」
―でも、そうなるとかあさんは…。
瑠奈が陽海の手を振り切り、射的の方へ走っていくのが見える。
「安心しろ、お袋さんはウチの組で守る。指一本触れさせねえよ」
―はあ…しかし。
瑠奈が靴を脱いで、射的の台に上っていく。
「そうしろって。それに金融の本場で修業するのは、おまえのバンカー人生にもプラスになるんじゃないか?箔も付くしな」
―わかりました。かあさんのこと、くれぐれも…。
「たりめえだろ。おめえらはもう俺の家族同然なんだからよ。何かあったらまた連絡しろよ」
―はい。
航平は電話を切ると
「ったく、めんどくせえガキだ」
と、吐き出した。向こうを見ると、瑠奈はよほどフリルが邪魔らしく袖をひきちぎっている。
「瑠奈ちゃん!」
陽海が叱るのも構わず瑠奈はライフル銃の引き金を引いた。そして見事大きな景品を撃ち落としたのだ。やるじゃねえか、と航平はにやりと笑う。
「ターリー(お父さん)。見て見て」
瑠奈に手を振って呼ばれ、ふたりを眩しげに見ながら航平は立ち上がった。
「さあて、こっちも潜るか」
この携帯電話はもう使わない方がいいだろう。航平は公園の名称になっている大きな池に放り投げた。
平成九年(1997年)5月23日。東西銀行東京本店ビル玄関前に、検察庁のワゴン数台が停車していた。助手席の平山主席検事が腕時計を確認して言った。
「午後1時15分、執行」
担当検事のふたりを先頭に、捜査官および事務官ら数十名が踏み込んで行った。
時を同じくして長野の温泉旅館に潜伏していた航平は、浴衣姿で自分の事務所の部下に電話をかけていた。
「ああ、売りだ。東西銀行、一万株を空売りしろ。つべこべ言わずに売れってんだよ」
怒鳴ってから電話を切り振り返ると、荻原と小島が総桐の卓を前に座っている。
「よう、比嘉。俺はともかくオヤジを呼びつけるとは、おめえ図に乗ってやしねえか」
若頭が言う。
「俺も命が惜しいんでね」
ぶっきらぼうに答えたため小島が身を乗り出しかけたが、組長は気にかけていないようだった。
「いいよ、頭。俺はいい骨休めだ。で?」
荻原は用件を催促した。
「こいつらを叩いてください」
世田谷土地開発、帝都証券、消費者金融スマイルのパンフレットを卓の上に広げて見せた。小島の顔がみるみる赤くなり
「大和田組と戦争させる気か、ゴラァ」
と、悲鳴とも威嚇ともつかぬ雄叫びを上げた。航平はそれには答えず、荻原だけを見て言った。
「大丈夫です。本家は当分動けない状態になります」
しっかり画は描けている、と目で訴えた。
「それなりなんだろうな?」
「まずは十億。翌年からは五億ずつ納めさせていただきます」
荻原は満足したようだった。
「いいだろう。あとは小島と詰めといてくれ。風呂でも浴びるよ」
と、隠居老人のごとく手ぬぐいを首に巻いて退出していった。大筋合意ができて、航平はやれやれと足を崩しながら言った。
「頭よお。腹くくってくれよ」
「もし神戸が動いたら、てめえに責任がとれんのか」
全く納得はいってない口ぶりだ。航平は思う。サラリーマンなら上司を説得するのに好条件やらお世辞を駆使したりするだろう。だが、俺たちはヤクザなのだ。
「オヤジがいつも言ってるだろ?金の取り合いはタマの取り合い、って。いま土俵に立ってるのは俺の方なんだ。砂かぶるくれえで泣き言いうなよ」
火をくべなければならない。
「な、泣き言だと?」
「ふだんタダ飯食ってんだ。たまにゃ働け、つってんだよ!」
「んだと、このクラゲ野郎!」
ふたりが一触即発の睨み合いになったとき、部屋の電話が鳴った。航平が大急ぎで受話器を取る。
「始まったか?」
―社長、テレビありますか?
「おう」
部屋のテレビをつけると、画面はちょうどガサ入れのニュースだった。レポーターが興奮気味に報告している。曰く『本日午後1時過ぎ。東京地検特捜部が東西銀行本店の一斉捜査に乗り出しました。容疑は暴力団関係者に対する利益供与。繰り返します、暴力団への利益供与…』。
航平は受話器に向かって「株価は?」と訊いた。
―落ちました。ええと、始値から300円、あ、今520円安。
満足げに頷いた。
「よおし、売って売って売りまくれ」
電話を切ると、置き去りにされていた小島の呆れ顔があった。
「おめえ、もうヤクザじゃねえな。ただの株屋だ」
「勘違いしないでくださいよ、頭。これは行きがけの駄賃。本命はそっち」
パンフレットをもう一度見て小島は
「オヤジが黒ってんなら黒なんだろ。今回だけは、てめえの顎に使われてやる」
と、懐にしまった。
「はは、うれしいね。ところで頭、クラゲ野郎って?」
「あ?」
「いま、俺に言ったろ」
小島は子供にでも教えるかのように、航平を見据えて言った。
「俺ら武闘派は地下、おめえら経済ヤクザは海ん中。きちんと棲み分けて獲物を狙うわな。刺す相手を探しながら、水中でひらひら泳いでるおめえらはクラゲ野郎ってこった」
航平は口をへの字に曲げた。
「だったらサメとかシャチとか、もっとこうカッコいい…」
「姿が見えねえ、掴み所がねえ、煮ても焼いても食えねえ…やっぱ、おめえらはクラゲだ」
うまいこと言いやがる。航平は苦笑いと舌打ちを同時にした。一方の若頭には忸怩たる思いが拭えない。こいつのゲームのために、ウチの若い者何人かが死ぬか懲役に行くことになるだろう。だが、やるしかない。小島は立ち上がり、客間を出しなに
「間違っても身内を刺すなよ。クラゲ野郎」
と、クンロクだけは入れておいた。