第12話
陽海は荻原が経営する風俗店の個室のバスルームで化粧を直していた。鏡には、電話で話す荻原が映っている。
「…そうか、五百溶けたか…いや、続けさせてくれ。いいんだ、若い者に勝負をさせてやりたいんだ。まあ、人材への投資ってやつだな」
電話を切ったのを見届けてから言った。
「組長さん、ニイニイを信じてくれているんですね?ありがとうございます」
だが荻原は、何も言わずワイシャツを脱ぎ始めた。肌着は着けておらず、すぐに不動明王の刺青が入った背中が現れた。これほどの刺青を至近距離に見るのは初めてで、陽海の目は釘付けになった。
「俺はお前さんの兄貴に刃物で脅されて、仕方なく一千万渡しただけだぜ」
「え?」
鏡の中の荻原が近づいて来た。両手首を掴み、陽海を鏡に向かせ両手を鏡面につかせる。
「…い、や」
ようやく声が出たが、すぐにワンピースのファスナーが引き裂かれる。陽海の細く白い背中が現れる。
「さびしい背中だな。お嬢ちゃん」
ごつごつした手で背中を撫で回す。
「どうだ、墨でも入れてみねえか?」
そう言って、屹立したものを挿入した。鏡の中の陽海の顔が歪んだ。
茫然自失の航平がゆうべのおでん屋台の前を通りがかると、小島が声をかけてきた。長椅子に座って焼酎を飲んでいる。
「よお、お疲れ」
「あんた、なんで?」
明らかに待ち伏せだろう。航平は嫌な予感しかしない。
「大負けしたらしいな。ま、座れよ」
言われるがままに隣に座ると、コップを持たされビールを注がれた。
「それにしても一晩で一千万かァ。一生に一度の快感だろうな。羨ましいぜ」
随分上機嫌だ。辟易するほどに。
「でもオヤジは、きちんと返済すりゃあ示談にしてやるってよ」
「返済?示談?」
この男は何を言っている?小島が懐から一枚の紙を取り出した。盗難届けだった。
「こないだ刃物を持って、うちの事務所にタタキに入った奴がいてな。信じられるか?」
それが俺だ、ということになっているのか?
「ヤクザの事務所に、だぜ」
陽海はベッドにうつ伏したまま、不動明王に白いワイシャツがかけられるのをなぜか惜しいと思い見つめた。
「初めてじゃねえな?」
数日前に踏ん切りををつけるため兄とした儀式を思い出す。
「兄貴とやってるのか?」
何もかも見透かしているんだぞ、という言い方に陽海は反感を覚えキッと荻原を睨んだ。
「血が繋がってるのかどうかは知らんが、避妊だけはしろよ。ろくなことにならねえぞ」
男は財布から一万円札を三枚取り出し枕元に置いた。これが今の私の値段なのか。だがこれだけ稼ぐには、ハンバーガーショップで一体何日働かなければならないだろう?
「期待してるぜ。陽海ちゃんにも、航平にもな」
期待…言われたことのない言葉だった。
屋台では小島が航平に釘を刺していた。
「朝七時までに便所を掃除しとけ。明日から毎日だ」
それから一万円札を置いて「おやじ。今日は好きなだけ飲ませてやってくれ」と、言い残して去っていった。
突き出される前に警察に自首するか、今夜のうちに陽海と東京を脱け出すか。いや、この二択はない。自首する前に、逃げ出す前に俺か陽海のどちらかは拉致される。拉致で済むかどうかも怪しい。朝七時前に便所掃除をする。永遠に…。注がれたビールはもう気が抜けていた。悔し涙が溢れた。
小渕官房長官が新年号「平成」を発表した頃、航平はビニ本を売りさばいて生計を立てていた。恋人たちがスキー場で愛を語っていた頃、陽海はソープランドで働いていた。
空前のグルメブームで有名店の行列ができていたが、航平はカップラーメンをすすりながら、ラジオで競馬中継を聞きノミ屋稼業に精を出した。背中に刺青を入れながら、陽海はトレンディドラマを観た。美男美女のキスシーンの後、彫り師の凌辱を受けた。ジュリアナ東京では、ワンレン・ボディコンが蝶のように舞い踊っているというのに。
やがて航平にも金になる仕事が回ってくるようになった。専有屋のプレハブ住宅を、ブルドーザーで破壊していった。某企業の総務部に乗り込んで、自分の手の甲にドスを突き立てたこともあった。企業は一流であればあるほど、暴力に弱いことを知った。
闇社会の一員となって五年、航平はあいかわらず安アパートに住んだ。エアコンも付けようと思えば付けられたが、故郷の沖縄の暑さに比べれば必要ないと思えた。隣には汗ばんだ陽海が並んで寝ている。包帯を巻いた手で、陽海の背中の観音菩薩を撫で回してみた。
「それ、評判いいんだよ。ゾクゾクするんだって」
と、背中を向けたまま言った。
「変態は、どこにでもいるからな」
「うん。なんか、一流企業のお偉いさんが集まってる、変なクラブに呼ばれた」
陽海はタバコに火をつけて、航平に渡してやる。
(使えるな)
いろんな絵図面が浮かび、考え始めようとしたとき言われた。
「ニイニイ。使えるな、とか思ったでしょ?」
航平は少しむせて
「今度そいつらの素性、探っとけ」
と言って、背中を向けた。陽海の恨めしい目は見たくなかった。
「マチ金をやらせてもらうことになった。開業資金を捻り出す」
「…」
「もう少し。もう少しだからよ…」
陽海は航平の傷ついた手を握った。
「わかった。わかったから、もう危険なマネしないでね」
泣きそうな声で言うので航平が思わず振り返ると、そこには菩薩のように微笑む妹がいた。
それから二十年近くが経っていた。航平はデザイナー設計のひろびろとしたリビングにぽつんと独りいて、陽海の遺影を見ながらゴルフクラブを磨いている。
(確かにもう、危険なマネをすることはなくなったぜ。金なんざ、右から左に流れてきやがる。だがな…)
長い間、航平は陽海の顔を見据えた。
「これほどくだらねえ生活も…ねえ!」
クラブでサイドボードを叩き壊したのを皮切りに、次々と家具を叩き壊していった。
平成一九年~平成二三年
平成一九年(2007年)夏。信也はホイッスラーNY本社ビルのフードコートで、研修時代の教官だったサミュエル・コリンズとランチをとっていた。彼はNYに来ると何かと面倒を見てくれるよき先輩だが、プライベートな話は一切せず大概は仕事に関わる情報交換をしたがった。
「サニー。サブプライム・ローンはヤバイことになるぞ」
このローンはとても優良客などとは言えない低所得者層向けに販売された利率の高い商品だったが、アメリカの住宅バブルを背景に売れに売れ証券化されていた。ただこのローンには時限装置が付いていて、一定年数が経つと利子か返済額が跳ね上がる仕掛けになっている。そのため前年あたりから焦げ付きが発生して、世界中に散らばった関連証券の危機が囁かれていた。
「とっくに織り込み済みでしょ。大事にはならないんじゃない?」
サムはふふんと笑って小声に切り替える。
「いや、そうは思わんね。ブッシュは金融業が嫌いだ。親父が選挙のとき裏切られたからな。リーマンあたりが生贄にされるぞ」
「潰れても救済はしない、と?」
当時の米国証券業界には、こうした見方は確かにあった。
「来年は大統領選だからな。親の仇ってやつさ。もしそうなりゃ、世界恐慌(1929年)の再来だろう。この間のブラックマンデー(1987年)も軽く凌ぐね。百年に一度のクライシスってわけだ」
コーヒーを弄びながら信也は(だとしたら…俺は、運がいい)と、目を輝かせた。
クライシスか。俺はそんな勝負をしてみたかったんだ。なぜかそのとき信也の脳裏に、十数年前の大震災とカルト教事件のニュースが浮かんだ。
小島は思う。俺たちは組内でも有名な犬猿の仲だったはずだ。それなのに今日も、こいつは俺の事務所に来て世間話をしている。
「逃げたのか?」
非難がましい目を向けやがる。やはりこいつは俺の天敵だ、と小島は思い直す。
「逃げたわけじゃねえよ。入れたんだよ、自衛隊に」
関東侠星会系小島組事務所に預けた航平の養女の話だ。
「お前、あれ狂犬だぞ」
小島の話によると、しつけの第一歩として瑠奈に事務所の便所掃除を言いつけたのだが、そこでひと悶着が起きたようだ。小島は組本部長の養女ということは匿し「変わり者の娘を預かった」とだけ若い者たちに言っておいた。初日に早速そのうちの一人が掃除をする瑠奈に突っかかった。大便所から出るなりズボンをおろし「おい、こっちも掃除しろ」と命じたらしい。瑠奈はおとなしく言われるとおり、その若者の前にかがんだ。
「お、好きだねえ?お前、誰かの借金のカタにとられたヤリマンギャルなんだって?」
などとからかっていると、瑠奈は足首のホルダーからナイフを抜き取り、その男の性器をスパっと裁ち切った。
「ギャアー」
のた打ち回る若者の目の前に、血まみれの物を放り投げてこう言ったそうた。
「今日から女役やりな、カマ野郎」
その話を聞いて航平は唖然とした。もはやあいつに、自分のことをターリーと呼んで頬にキスをした面影は一切ない。
「悪いが、手に余るわ」
言われて航平はため息をつくしかなかった。今では自衛隊に入って、むしろ今までで最も充実した日々を送っている、と電話で小島に語ったという。
「あんたが匙投げるほどの大物だったかあ。頼もしいこった」