第1話
怖いけど覗いてみたくなる裏社会。平成の水面下に蠢く経済ヤクザどものノワール・クロニクル(暗黒年代記)。
平成二〇年(2008年)9月。ニューヨーク証券取引所は喧騒と焦燥に飲み込まれていた。
世界トップクラスの証券マンたちが全面安の展開に頭を抱えている。
百年に一度の経済危機が世界を襲ったのだ。
リーマン・ショックである。
東京にあるWGI(ホイッスラー・グローバル証券)でも、NY同様、絶望的なトレードに追われる従業員たちが右往左往していた。
大型モニターには冷やかに笑う男がいる。武田信也という。
信也の不遜な顔を睨みつけている男が、比嘉航平だ。
航平は、信也が兄とも父とも 慕った恩人だった。
だが、下手を打った。
一週間後、荻原組長の大広間には関東侠星会の幹部が居並んでいた。
下座に座る航平が、己の小指を詰めるという儀式だ。
「んん!」
渾身の力を短刀に込める。
あっけなく小指の先が飛んだ。
比嘉航平は、先の無くなった小指を居合わせた幹部連に示しながら、不敵に笑った。
平成元年~平成九年
二度の大震災と「百年に一度の経済危機」が起きたにも関わらず、その時代は〝平成〟という名称だった。
平成元年(1989年)三月、武田信也は高校一年生になろうとしていた。ただ彼の通う私立学校は大学までエスカレーター式なので、受験をする必要はない。この頃の信也は、通学途中の別の高校の合格発表を羨ましげに見ていたものだ。合格者が胴上げされ、落ちた者が呆然と立ち尽くす。その様子を見ていると、戦う機会を与えられない自分を恨めしく思うのだった。
平成七年(1995年)、信也は大学を卒業し父親と同じ大手都市銀行に就職した。当時の名称は「東西銀行」で、創業以来関西を拠点としていたのだが、昭和後期に全国進出を図りこの年一月に起きた阪神淡路大震災をきっかけに本店業務を東京に移管していた。
武田家は転勤のたびに各地の社宅に引越す生活だったが、ここ数年は東京に落ち着いていた。マンションの壁には、ぎこちなく笑う小学生の信也と肩に手を添える皆子、父・宗太郎の家族写真で作られたカレンダーが掛けられている。バブル崩壊後、この写真以外で家族が揃うことは珍しくなっていた。この日の食卓もテレビの音だけが響いていて、たまに皆子がひとり息子に話しかける。
「仕事慣れた?どこの支店だっけ?」
信也は面倒くさそうに答える。
「板橋支店の研修は先月終わったよ。内示がおりてさ、提携先の外資系証券会社に出向になった」
いまの自分の状況を母親に説明すると、皆子は愕然とした。
「あなた、何かやらかしたの?入社したてで出向だなんて」
長年銀行員と連れ添い、そのコミュニティーの中に身を置いてきた彼女は事情に詳しい。入社初年度は支店窓口等のリテール業務に配属されるのが一般的のはずだ。まさかわが息子はいきなり挫折したのか?信也は興奮する母親をいなすように説明した。
「違うよ。出向って言っても研修の続きみたいなもんだよ。俺トレーダー志望だから、むしろ期待されてるんだって」
株や為替を取引して銀行の資金運用を任されるトレード部門は、バンカーにとって花形部門のひとつではある。だが東西銀行の場合トレーダーは系列の信託銀行か証券会社に出向し、本店業務からは距離を置くことになる。それは皆子の思い描く銀行員の王道から逸れることでもあるのだ。
その後も嘆きとも説教ともつかぬ母の話は続いたが、すぐに信也の耳からその声は遠ざかっていった。この人はいま息子のことではなくコミュニティーの中での自分の立場を心配しているのだなあ、と今日もまた軽蔑する。彼は母親が嫌いだった。
テレビでは、世の中を壊したいと考えたカルト教団のニュースが連日のように報道されていた。
信也の運命を変える男との出会いは、二年後の平成九年(1996年)である。六月の東西銀行株主総会にその男は出席していた。無目的な暇潰し、あるいは肚に一物を抱えた株主の群れの中に比嘉航平はいた。株券を団扇代わりにしながら会場を見回している。壇上には総会進行役の武田宗太郎がいた。
「これより1996年度、東西銀行株主総会を始めさせていただきます。株主の皆様、よろしいでしょうか?」
宗太郎の呼びかけに、会場のあちこちから「異議なし」「迅速進行」といった声が発せられる。仕込みの総会屋たちだ。航平はその声の主をひとりずつ確認した。今後俺の敵になる連中だ、と。
「ありがとうございます。それでは、議案第1号についてですが…」
言い終わらぬうちに「経営陣に一任!」「一任!迅速進行」という声。先ほどと同じ男たちの顔を確認した航平は苦笑する。旧態依然、という四字熟語が浮かぶ。ふと見ると、前列に座る部下の渡辺が寝ている。航平はその背もたれを蹴った。
(始まったぞ。起きろ)
諫められた渡辺が慌てて起きたあとも、不毛な出来レースは一時間以上続いた。航平が動いたのは、これからようやく閉会へ向かおうという頃合いだった。
「最後に、東西銀行副頭取・石川貢から皆様方への感謝の言葉をもちまして、閉会の運びとさせていただきます」
宗太郎が下がり石川が壇上に立つと、会場から総会屋主導の拍手が沸き起こった。
「よ、次の頭取!」
「配当上げろ!」
ヤジとも激励ともとれる声に、石川は苦笑した。
「ありがとうございます。頭取人事についてはともかく、配当につきましては決算報告書にあります通り、次年度も通年通り実施させていただきたく予定でございます。ただ政府が提唱します金融ビッグバンに備え、増額につきましては今しばらくのご辛抱を賜りとう存じます」
政府によって守られる「護送船団方式」で、昭和という時代を乗り切ってきた日本の金融界。だがそのことがバブル経済を産み、破裂させることにもつながった。当時の橋本内閣は遥か先を行くイギリスやアメリカに倣い、金融市場の規制を緩め活性化・国際化を図ろうとしている。だが当の金融界にとってこの規制緩和は、長年浸かってきたぬるま湯から追い出されることを意味する。覚悟も体力も必要なのだった。
(それにお前らを守ってきたのは、政府だけじゃねえだろ?)
と、航平は壇上の副頭取に語りかける。
「来る大改革におきましては、株主の皆様方のご加護が必須でございます。来期以降も何卒…」
石川が締めにかかったタイミングで、航平は丸めた株券で渡辺の頭をポンとはたいた。
(ここだ。行け)
それを合図に、渡辺が立ち上がる。
「質問!質問、質問、質問!」
その大音声に戸惑うように、石川がスピーチを中断した。渡辺が続ける。
「われわれ株主への感謝のことばが、なぜ頭取ではなく副なのか質問したい!」
段取りにない質疑応答要請に会場がざわつき始める。航平は注意深く会場の反応を観察した。さて、誰がどんな顔をするか。
「この大事な日に、頭取の高島はどこで何をしているのか?」
現頭取・高島和寿は、ぬるま湯に浸かり過ぎてのぼせ上ったトップの類だった。素行不良の上、脇も甘い。宗太郎が下りてきて、ある男の席へ駆け寄る。
(ここを仕切っているのは奴だな。確か、大和田組の金庫番…本部長の長尾一慶)
航平は長尾の顔をインプットした。そして彼に耳打ちする宗太郎の顔を、膝上の社員名簿と照らし合わせる。
(総務部渉外課の武田、か)
額に汗する宗太郎に長尾は首を振って応対する。あれは俺たちの与り知らぬ輩だ、とでも言っているか。
「一説によると、高島は愛人とマカオで、カジノ巡りをしているとかいないとか」
渉外課の男が目を剥いてこちらを見る。スキャンダル暴露は総会荒しの古い手法だ。自分への責任追及が頭を駆け巡っているのだろう。ざわつく会場と動揺する壇上のスタッフたちを交互に見て、今度は航平が立ち上がった。
「愚問!経営に影響な~し!」
太く通る声が響き渡る。航平は長尾の表情が曇るのを確認しながら叫び続けた。
「迅速進行!迅速閉会を求める!」
総会屋たちが我に返り、航平の言葉に同調するように立ち上がって拍手をし始めた。どうやら総会を荒らすのが目的ではない、と安堵したようだ。
(長尾。お前さんへの名刺代わりだ。俺の面を覚えとけ)
今日の仕事は終わった。航平は帰り支度を始める。
「いよ~お」
会場全体がシャンシャンシャン、という声と柏手に包まれる。大改革を提起した東西銀行の株主総会だったが、最後は悪しき伝統に則って締められた。
他の株主たちとともに会場を後にした航平は、うしろから追いかけて来た宗太郎に呼び止められた。
「お待ちください」
そうら来た。航平は立ち止まり渉外課長を振り返った。
「なにか?」
宗太郎は息を整えながら、自分の名刺を示した。
「私、こういうものです。お名刺を頂戴できませんか?」
おそらくあの男の指示なのだろう。航平は「比嘉経営コンサルタント」代表としての名刺を渡す。もう一枚の名刺をこの男が目にするのは、だいぶ経ってからになるだろう。
遠くからふたりのやりとりを窺っていた長尾は(引越した途端、ハエがたかってきやがったか)と、こちらもまた航平の顔を脳に焼き付けてから唾を吐いた。