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日食の人形令嬢は自由を望む

作者: 黒木 森

「ヒルデガルド!!

 今日、この時をもって貴様との婚約を破棄する。異論はないだろうな」


 ヒルデガルドと呼ばれた女性は目の前で叫ばれているにも関わらず、作り物のような笑みを浮かべる。

 だが、その目には何の感情もない。美しさも相まって彼女は出来のいい人形のように見えた。

 男の側には一際派手な女性が勝ち誇った顔をヒルデガルドに向けている。


「…何故でしょうか」


 口を開いたかと思えば、ただ疑問を問いかけるだけで、一向に表情が変わらないヒルデガルドに男は顔を顰める。その顔を見れば、男が彼女の態度が気にいらないと言うことは誰でもわかるだろう。


「貴様のその表情は何だ!! 僕が婚約破棄と言っているのだぞ。泣いて僕に嫌だといって縋るべきだろう。

 そもそも、最初から貴様は気に入らなかったのだ。その浅黒い肌、長い耳など、どう見てもこの国において異物である貴様が僕の婚約者など、たとえ、大いなる聖樹の意思により、父である陛下が決めたこととはいえ、あり得ないだろう。

 だが、僕は寛大だからな。気持ちの悪い貴様だが、婚約者になったのだからと茶会に誘って交流してやったにも関わらず、いつまでも人形のような作った笑みばかりで僕を楽しませようという気が感じられない。いくら心の広い僕であろうとも、我慢の限界だ!!」


 男の言葉に賛同するような声が広がる。


「本当よね。ヒルデガルド様って、確かダークエルフとかいう魔に魅入られた忌むべき種族なのでしょう? そんな人が王太子であるエミット様の婚約者など、烏滸がましいにもほどがあるわよね」


「それに対してエミット様はなんてお優しい。蔑まれるはずのヒルデガルド様を気にかけ、交流していることは誰もが知っていることですもの」


「まぁ、確かに美しいとは思うが、いつまでも人形のようで、エミット様が見限るのも無理はないな」


 エミットに賛同する男の一人はヒルデガルドの体を上から下まで、舐め回すように見て、鼻で笑う。


「しかも、何だ。彼女が着ているレースやフリルが大量の似合わぬドレスは。今更、エミット様の興味を引こうという必死さが見えて痛々しいですな」


 男の言葉に周りが嗤いに包まれる。


「それより見て。エミット様とマデリン様が並んでいると、まるで一枚の絵画のよう。

 何てお似合いなのかしら」


「本来、ヒルデガルド様がいなければ、公爵令嬢であるマデリン様がエミット様の婚約者だったのですもの。当然でしょ」


 この場にいる誰もがヒルデガルドを見て嗤っている。

 夜会の音楽を奏でるはずの演者たちさえも手を止め、この余興をにやにやと眺めている。


 自分が嗤われているのがわかっているはずだが、ヒルデガルドは何も変わらず笑みを崩していない。まるで彼女が本当に心を持たぬ人形のようで気味が悪いと感じ、口元を扇で隠し、顔を顰める女性も見られた。


「それで、私との婚約は破棄ということでよろしいでしょうか」


 その冷静なヒルデガルドの態度が余計にエミットを苛立たせる。


「お前、僕が、嘘を言っていると思っているのだろう。これを見ろ!!」


 エミットはヒルデガルドの前に紙を見せつけた。それは二人の婚約破棄に関する紙で、陛下の印も押されており、あとはヒルデガルドが署名するだけの状態だった。

 その紙を見てヒルデガルドの目が驚愕により、わずかに開く。そんな彼女を見て、エミットは満足したように頷いた。


「これでわかっただろう。婚約破棄は父上も了承していることだ。さあ、早く、お前の名前をここに書け」


 渡されたペンを受け取り、ヒルデガルドは震える手で自分の名前を書く。書き終わったことを確認したエミットは乱暴に紙を奪い取った。


「これで精々した。やはり、聖樹の意思は間違いだったのだ。

 まぁ、謝るのなら、許してやってもいいんだぞ。そうすれば、僕の愛妾にでもしてやろう」


「エミット様」


 今まで黙っていたマデリンが咎めるように名前を呼び、彼の耳元で何かを囁く。マデリンの言葉に頷いたエミットは口角を上げ、彼女の腰に手を当て引き寄せる。


「ああ、すまない。僕としたことが、まだこいつに情があったようだ。

 こんなことは二度と言わないよ。許してくれるかい、愛おしい人」


「もう、仕方ないわね。許してあげるわ、私の婚約者様」


 マデリンは甘えるようにエミットの胸に体を預け、周りは彼女の婚約者という言葉に沸いた。


「おお、婚約者ということはエミット様の新たな婚約者はマデリン様か」


「まあ、当然ですね」


 未だにエミットの前に笑みを浮かべて立つヒルデガルドを惨めだと嗤う声が広い会場中に響く。それでもなお、彼女は表情を変えず、真っ直ぐにエミットたちを見ている。


「ヒルデガルド、僕の婚約者ではないお前はもう用なしだ。この国の異物であるお前は家族共々、この国から出て行け。

 僕は優しいからな、屋敷に戻って荷物をまとめることぐらいは許してやろう」


「お心遣い、感謝いたします」


 ヒルデガルドは見とれるほどに美しく、完璧なカーテシーをし、エミットたちに背を向け、歩き出す。その姿にエミットは目を奪われ、最初に彼女と会った時のことを思い出した。

 同時に王太子である自分が、どんな言葉を掛けても彼女は笑顔だが、その目は冷たいままで、自分と同じ熱を最後まで返さなかったことが頭を過ぎり、唇を噛む。


 だが、それも今日までだ。彼女の屋敷の使用人は全て国王の息が掛かっており、屋敷に残っているはずのヒルデガルドの両親はもう捕らえているはずだ。

 彼女の乗る馬車は屋敷とは違う場所へ向かうように指示している。そこでヒルデガルドを牢に入れて飼う予定だ。


 婚約破棄され、また、家族を人質に取られれば、さすがの彼女も笑顔から絶望へとその表情を変えるだろう。そして、話すのはエミットだけ、頼れるのも彼だけという状況が続けば、彼女はエミットの素晴らしさにようやく気づき、愛を囁くようになるはずだ。


 エミットは腰に抱いたマデリンの方を向き、この計画を立てた彼女に感謝した。


「これでようやく、僕の願いが叶う。これも全て、君のおかげだ」


 微笑むエミットにマデリンも笑い返す。


「貴方の妻になるのだもの、これぐらい当然ですわ。

 ですが、新しいおもちゃに夢中になって、私を忘れないでくださいましね」


 二人の仲のいい様子に拍手の音がしばらく鳴り止まなかった。




 ヒルデガルドは、令嬢として咎められない速度で廊下を歩く。本当はスキップしたいぐらいなのだが、まだ、気を抜くことはできない。

 しかし、我慢出来ず、彼女は笑みを浮かべる。その笑みは先ほどまでの人形のような冷たいものではなく、子供のように無邪気なものだった。


「僕は自由になったんだ。やったね!!」


 先ほどとは違う口調で、機嫌良く鼻歌を口ずさむ彼女の姿を月だけが見ていた。




 ヒルデガルドの両親であるルイスとアンナは国から国へと旅をするダークエルフだった。ある時、聖樹の意思により国へ迎え入れたいという申し出があった。

 その国は海に囲まれた小さな国であり、聖樹の導きにより、国が守られていると信じられていた。聖樹の意思に間違いなどなく、全て叶えるものとされているらしく、何度か断ったが、その国は諦めることはなかった。


 そのうち、アンナに新しい命が宿っていることに気がつき、彼らは悩んだ。それというのも、ダークエルフは特定の故郷というものがなく、それを探すために旅をしているようなもの。もし、生まれた我が子が旅を嫌ったらと考えてしまったのだ。


 旅を嫌っても居続けられる場所があればと二人は考えた。他にも移住候補の国はあったが、自分たちを迎えたいという申し出をする国ならば、歓迎してくれるだろうと考え、了承の返事をした。その際に、もし、国を出たいと自分たちが考えたのならば、引き留めることはしないという条件を出した。

 最初は渋ったが、了承しなければルイスたちを迎入れるという聖樹の意思を叶えられないとわかった彼らは国王に相談し、これを認めるという契約書を作成した。


 契約書に不備がないことを確認すると使者と共に国へと向かった。

 見たことのない国に期待する彼らを迎えたのはダークエルフを蔑む目だった。

 まだ、ダークエルフへの差別は根強く、また、白く透き通るような肌こそが、この国における美の基準であったので仕方のないことだったのだが、これに彼らは落胆した。


 他の国にもダークエルフの差別意識はあるが、昔よりも薄れてきている。ルイスたちもここしばらく、そういった目で見られていなかったので、油断していた。


 国に向かうとすぐに国王から領地はなしの法服貴族として伯爵の地位とルイスは騎士の指導役という役職を賜った。そして、彼らのために建てたという屋敷に案内され、使用人も用意されていたが、誰もが彼らを蔑む目を隠そうとはしない。


 使用人を入れ替えるが、代わりの者はダークエルフに仕えることに嫌がり、なかなか集まらない。来るのは国の息が掛かった者だけだ。早くもこの国から出たいと思う気持ちが強くなったが、生まれてくる子供のためと我慢した。



 それから、すぐにアンナは女の子を産んだ。元気に泣く我が子に二人で涙が止まらなかったのはいつまでも覚えているだろう。

 女の子はヒルデと名付けたが、平民のような名前だと周りから文句を言われ、仕方なくヒルデガルドとした。

 だが、使用人の目がないところでは、本当の名前であるヒルデと呼んだ。



 ヒルデガルドは健やかに育った。屋敷に近い森で走りまわるようなお転婆な彼女だが、屋敷の異常さを子供ながら感じ取って人目があるところでは深窓の令嬢を演じ、家族だけのときには明るい顔を見せる、賢い子だった。


 そして、ルイスたちが旅をした国のことなどを話すようになるとヒルデガルドも両親のように旅をしたいと願うようになった。

 自分たちの心配が杞憂だったことに安堵し、使用人の目が行き届かないところでルイスたちはヒルデガルドに魔法や旅をするのに必要な知識などを教えた。


 もう少し、ヒルデガルドが成長したらこの国を出ようと考えていたある日のことだった。

 国王からヒルデガルドも一緒に家族で登城するように連絡を受けたが、ルイスもアンナも呼び出される理由がわからず、首を傾げた。


 指示通り家族で登城し、謁見の間に案内されるとそこには国王たちとエミットがいた。

 何故、エミットまでと思ったが、口には出さず臣下の礼をする。


「面を上げろ」


 国王からの声に従い、頭を上げるルイスはエミットの視線が気になった。彼はルイスたちが部屋に入って来てからヒルデガルドしか見ていないのだ。


 ルイスたちは自分の背より大きな戦斧を魔物相手に喜んで振ったり、魔法で使用人にイタズラをしようとする元気な子供らしい彼女の印象しかないが、口を閉じて、大人しくしている彼女の姿しか知らない屋敷の使用人から人形のようだ言われ、それが外にも伝わり、肌の色から日食の人形令嬢と呼ばれていることを知った。


 人形のようだと言うのは侮蔑的な意味もあるが、彼女が美しいからというのもある。

 褐色の肌と言うことで蔑まれるが、ルイスたちの容姿に見とれる人間はこの国においても、少なくはないのだ。


 エミットがヒルデガルドを見る目には恋情の熱が込められているのはすぐにわかった。

 一目見て、彼女を気に入ってしまったらしい。ルイスたちは嫌な予感がした。


「今日は、何故呼び出されたのでしょうか」


 他の人と同じようにルイスたちを見下す目を隠そうとせず、国王は口を開いた。


「聖樹のからのお告げにより、エミットとそこの娘の婚約が決まった」


 想像もしていなかったことにルイスは一瞬、頭が真っ白になった。


「…私は何も聞いていませんが」


 平民ならば口約束でも婚約が成立するかもしれないが、ルイスたちは貴族だ。それも王族の婚約が話し合いもせずに、こんな一方的に決まるわけがない。


「この国の民なら聖樹の決定は絶対だ。そうでなければお前の娘のような異物が王族に嫁げるはずがないだろう」


 あまりにひどい言い方に、わずかにあったこの国への情もなくなった。

 ヒルデガルドの婚約が成立しようが関係ない。契約書の条件に則り、すぐにでもこの国を出て行ってやると決意し、ルイスは静かに怒りを抑える。


「まあ、エミットはそこの娘を気に入っているようだ。良かったではないか」


 ヒルデガルドに見とれていたエミットは自らの思いを不意に指摘され、顔を真っ赤にして否定した。


「な、ち、父上、僕がこんなのを気に入るはずがないでしょ!!

 だが、聖樹のお告げならば、仕方ないな。お前のような者でも我慢してやろう」


 好きな子に素直になれない思春期のそれなのだろうが、可愛い自分の娘を馬鹿にされて微笑ましいなど思う親がいるはずがない。抗議をしようとルイスが口を開こうとしたとき、この国に来たときから感じていた纏わり付くような嫌な魔力が急に辺りに満ちた。魔力の気配を辿ろうとしたとき、ヒルデガルドがふらつき、地面にしゃがみ込んでしまった。


「ヒルデガルド!!」


 ルイスとアンナは急いでヒルデガルドに駆け寄った。彼女は苦しそうに胸を手で押さえ、肩で息をしている。国王にもエミットにも今、この場で言いたいことは山ほどあるが、体調の悪い娘の方が大切だ。


「娘の体調が芳しくないようなので今日はこれで失礼しても?」


 国王は王座の肘置きに頬杖をつき、興味がなくなったように答えた。エミットは心配そうにヒルデガルドを見ているが、こちらに向かって来ることはなかった。


「ああ。早くここから出て行け」


 ルイスたちは怒りを飲み込み、謁見の間を後にした。




 馬車に乗ってもヒルデガルドは苦しそうにしており、何かを伝えようとアンナの袖口を握る。それに気がついたアンナは彼女の口に耳を近づけた。

 アンナはヒルデガルドの言葉に頷くと、風の魔法を使い、馬車を操る御者に中の会話を聞かれないようにした。


「これでいい、ヒルデ?」


 しゃがみ込んでいた時よりも幾分か調子が良くなったヒルデはうつむいていた顔を上げる。


「うん、ありがとう、お母さん」


 アンナに微笑むヒルデガルドは先ほどの人形のような笑みではなく、年相応の子供らしいものだった。


「それで、何があったんだ、ヒルデ」


 来るときまでは元気だったのだ。あの場で彼女の身に何かあったと考えるしかないだろう。


「もう、最悪。僕の中の魔力、何かわかんないヤツに根こそぎ持っていかれた」


 胸を押さえ、眉を顰めるヒルデガルドの手を取り、アンナは自分の魔力を彼女の中に流して探る。


「本当ね。あれほどあったヒルデの魔力がほとんど残っていないわ。

 それだけじゃない、いつの間にか何かの契約に縛られているわね。それが原因でわずかだけど、今もヒルデの魔力がどこかに流れている」


「あの馬鹿との婚約が原因だろう。これが狙いだったのか」


 原因として考えられるとしたら、エミットとの婚約だ。ルイスたちは了承した覚えがないが、それがきっかけで何かの契約が強引に結ばれたのだ。

 そうなると、困ったことになった。ヒルデガルドを縛る契約がどういうものがわからぬ以上、国を出れば娘がどうなるかわからないので迂闊に動くことが出来なくなった。


「ああ、もう、ヤダ!! あんなこと言う奴と婚約なんて。ムカつき過ぎて、アイツの頭、僕の斧でかち割りたくなる」


「すまない、ヒルデ。お前を縛る契約をどうにかできるまで、我慢してくれ」


 むくれて、頬を膨らます我が子をなだめ、ルイスたちはヒルデガルドが結ばされた契約を探り始めた。



 婚約するとすぐに王太子妃教育を受けるためにヒルデガルドは王宮へと向かうようになった。蔑む王宮の人々の目に、教育の合間にあるエミットとの交流、そして、以前より魔法が思うように使えなくなったことが、ヒルデガルドを苛立たせた。


 こういうときは思いっきり戦斧を振り、ルイスと手合わせをすることで発散できるのだが、国の息が掛かった屋敷の使用人の目が以前より厳しくなっているので気軽に出来なくなった。

 怒りを抑え、もう少しの我慢と自分に言い聞かせて、ヒルデガルドは人形のような作り物めいた笑顔を貼り付け、今日も王宮へ向かう。




 婚約の撤回を何度も訴えたが、聖樹が決めたことは覆らないと国王はルイスの訴えを聞こうともしない。

 仕事の隙を見て契約の詳細をルイスが探るが、聖樹に関するものとだけとしかわからなかった。ならば、契約の破棄ができないかと魔法が得意のアンナも探るが何の手がかりも得られないまま、数年の時が経った。


 もうエミットとの結婚まで時間がないと焦るヒルデガルドだが、笑顔を崩さず、エミットの方を見続ける。エミットは幼い頃と変わらずヒルデガルドに執着しているが、いつまで経っても彼女の態度が自分の思ったようなものに変わらないため、その苛立ちをぶつけてくるようになった。


「僕がこうして忙しい時間の合間を縫って交流しているのに、お前は何だ。

 いつまでもその人形のような笑みで僕の話を聞き、頷くだけ。他の女ならば僕を楽しませようとして来るぞ」


「申し訳ありません、殿下」


 最近、エミットはこうして他の女との関係を匂わせてくる。ヒルデガルドの嫉妬心を煽ろうという考えだろうが、そもそも、彼のことを好いていないので無意味だ。

 だが、本当のことを言う訳にもいかないので、こうして頭を下げる。するとそれ以上は言わず、彼は満足そうな顔をする。

 エミットはヒルデガルドの好意が返ってこない苛立ちを抑える代わりに自身の嗜虐心をこうして満たすのだ。


「本っ当に最低ぇ」


 頭を下げたまま、エミットには聞こえないほど小さな声で呟く。

 その後も彼の意味のない話が続き、ヒルデガルドの背に立つ侍女が声を掛ける。


「申し訳ありませんが、お時間です」


 侍女の言葉にエミットは不満そうに答えた。


「ああ、もうそんな時間か。大体、お前が王太子妃教育などすぐに終わらせれば、もっと時間が取れるのだぞ。わかっているのか」


「はい。私の不徳の致すところで、ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」


 ヒルデガルドのことを見下す教育係がまともに授業をするはずがない。したとしても、この国の考えや歴史は偏っており、両親から色々教えられている彼女としては王宮で学ぶ意味が見いだせず、どうしても集中力が欠くのだ。

 エミットに言ったところで彼が理解するはずないので、ヒルデガルドは黙って頭を下げ、彼に背を向けた瞬間、笑みを消して無表情となり、ゆっくりと歩き出した。



 王宮の廊下を歩いていると一人の女性が複数の侍女を引き連れ、ヒルデガルドへと向かってきた。公爵令嬢であるマデリンだと気づき、廊下の端により、彼女が去るまで頭を下げる。

 しかし、彼女はすぐに去ろうとせずに、ヒルデガルドの前で立ち止まった。


「あら、いやだ。太陽のごとく輝く王宮に影を差す者がいるわ」


 マデリンが笑いだすと周りも、ヒルデガルドに着いている侍女さえも彼女をかばうようなことはせずに一緒につられて笑い出す。

 彼女はヒルデガルドがエミットの婚約者になってからこうして絡むようになった。

 外から来たよそ者にその地位を盗られたと影で嗤われているらしく、彼女の高いプライドがそれを許さないようで、よく嫌がらせをされるようになった。


 王妃の部屋がある方向から彼女は歩いてきたので今日も呼ばれて茶会をしていたのだろう。


 聖樹のお告げによる婚約であってもヒルデガルドとの婚約を認められない者もいる。王妃もその一人であり、彼女はヒルデガルドを見たくもないと言い、会おうともせず、こうしてマデリンを呼び出して、自分が認めるのは彼女だけだと周りに示しているのだ。


 しかし、何故か聖樹の決めたこととして、誰もが積極的に婚約を辞めされるために動こうとしないのだ。それはヒルデガルドを認めないと言っている王妃やマデリンであっても例外ではない。婚約を辞めさせるために何かしてくるだろうと期待していたヒルデガルドたちはこれにはガッカリした。


 それだけ、聖樹がこの国にとって絶対的な存在なのだろうが、ヒルデガルドにしてみれば誰もが聖樹のいいように踊らされているようで気味が悪い。



 いつもなら、マデリンが満足して立ち去るまで何も言わずに頭を下げ続けるのだが、ヒルデガルドにある考えが浮かんだ。

 ここで彼女を挑発すれば、いつも見下している相手に馬鹿にされ、プライドを傷つけられたとして、ヒルデガルドとエミットの婚約を何が何でも止めさせるために行動を起こすのではないだろうか。

 ダメでも、何かが変わるのではないかと考え、ヒルデガルドは頭を上げ、微笑む。


「申し訳ございません。ですが、私がここにいることに何の問題があるのでしょう。もうすぐここは私のものになるというのに」


 今まで何を言っても大人しく、言い返してこなかったヒルデガルドが反抗してきたのでマデリンは驚いた。


「あ、貴方、何を言っているの」


 狼狽しているマデリンに対してヒルデガルドは笑みを崩さない。


「何を、とは? 言葉の通りですよ。

 あ、申し訳ありません。殿下の婚約者にもなったことのないマデリン様には関係ないことでしたね」


 その言葉がマデリンの神経を逆なでしたらしく、恐ろしい目で睨み付けてくる。

 だが、日頃から魔物と対峙しているヒルデガルドにしてみれば、何も怖くない。


「聖樹のお告げがなければ、私が婚約者だったのよ!!」


「もし、貴方が婚約者であったとしても、殿下が愛しているのは私ですから、婚約を破棄されるのではないでしょうか。まぁ、マデリン様、可哀想」


 マデリンが持つ扇から音がした。怒りにまかせて壊してしまったのだろう。


「もう少し、こうしてお話したいのですが、教育係が待っておりますので、これで失礼します」


 挑発はこれで十分だ。マデリンに礼をし、呆気に取られて動かない自分の侍女を置いて、ヒルデガルドは歩き出し、誰にも聞こえないほどの声で呟く。


「嫌みの何が楽しいんだが、僕にはわからないな」


 今まで嫌みを言ってきたマデリンに初めて嫌みで返したことで、彼女と同じ場所に落ちるような感覚がして、ヒルデガルドは不快になった。これが楽しいと思っている人の気が知れない。


 立ち止まり、窓から見える海を眺めた。海は波もなく、穏やかで、空の青を反射し、輝いている。

 嫌みを言うよりもあの海の向こうにある世界に思いを馳せる方が余程有意義だ。

 もし、この国から出ることが出来たら、何がヒルデガルドを待っているのだろう。そう考えると胸でもやもやしていた何かが消えた。




 それからしばらくすると、エミットとマデリンが一緒にいる姿を見ることが増えた。

 彼はヒルデガルドに見えるようにマデリンを抱き寄せ、マデリンは勝ち誇ったような目を彼女に向けてきた。


 おそらく、マデリンに嫌みを返したと聞いて、ヒルデガルドが言い返すほどに意識している彼女を利用して、エミットは自分も意識してもらいたいと考えているのだろう。


 マデリンの方は、エミットを盗られたとヒルデガルドが悔しそうにする顔を見たくて彼を誘ったのだろうが、親しくしている二人を見ても彼女の作り物のような笑顔は崩れることはなかった。


 彼女の目に何の感情も浮かんでいないことに気がつき、二人は怒りを募らせる。




 屋敷の使用人の様子が変わったのを感じたヒルデガルドはルイスたちと協力して魔法を使い探ると、マデリンと親しくしている姿を見せつけているにも関わらず、何も変わらない彼女に業を煮やしたエミットにマデリンが婚約を破棄すれば、さすがのヒルデガルドもすがりつくだろうと言ったらしい。

 もし、そうならなければ、誰にも知られない場所でヒルデガルドを閉じ込め、躾けてやればいいと。


 どうやらこの計画には王妃の協力もあるらしい。王宮が自分の物になるとヒルデガルドが言ったと聞き、息子との結婚も間近という焦りもあってようやく婚約破棄へと動き出したらしい。


 王妃の指示もあり、国の息が掛かっている屋敷の使用人も彼女たちの意思通りに動く。彼らは気づかれていないと思っているようだが、仕事はより一層おざなりになり、そわそわと落ち着かなくなった彼らを見れば、何かあるとわからないはずがない。


 ルイスたちはようやく、ヒルデガルドの婚約が破棄されるのだと歓喜した。

 喜びを隠し、詳しく調べていると、今度の公爵家の夜会でヒルデガルドだけに招待状を送り、計画を実行するらしいとわかった。




 素知らぬ顔で会場に出てみれば、情報通り、エミットは婚約の破棄を宣言してきた。

 笑顔を崩さず、あえて、彼を煽るような態度を取ると面白いように乗ってくる。

 婚約破棄の紙に名前を書くと、ヒルデガルドを縛っていた何かが切れるのを感じたと同時に彼女の魔力を奪っていたあの正体不明の気持ち悪い気配も消えた。


 これで自由になったのだと浮かれる気持ちを抑え、会場を後にする。

 そのまま、馬車に乗れば、屋敷ではないどこかへ連れて行かれることはわかっているので、誰にも見つからないように公爵家を出て、家族で相談した集合場所である森へと向かう。


 森に入ってすぐにヒルデガルドはドレスを脱ぎ捨てる。

 ドレスはエミットが贈ってきたもので、レースだ、フリルだのが大量に付いた悪趣味な物で、ヒルデガルドは自分のものなのだという彼の執着心の塊のような気持ちの悪いものを早く脱ぎ捨てたくて、たまらなかった。


 ヒルデガルドの好みである動きやすいシンプルな服に素早く着替え、両親の待っている場所まで走った。




 ヒルデガルドの耳に波の音が聞こえてくる。足が濡れないように気をつけ、二人は並んで波打ち際に佇む。波は打ち寄せては引くことを繰り返し、それをただ黙って眺めた。

 風が気持ちいいが、乱れた髪が気になり、耳に掛ける。そのときに彼から貰った髪飾りに触れ、思わず頬が緩む。


 海を見るとあの頃を思い出し、気持ちが落ち込むかと思ったが、そうはならなかった。


 顔を上げ、今にも雨が降り出しそうな曇り空なのに海を見て嬉しそうにしている彼の方をじっと見ていると、ヒルデガルドの視線に気づいたようで見つめ返してきた。


「何だ?」


「いやさぁ、アッシュ君って海、好きなの? すっごいキラキラした目で見てるから、そうなのかなって」


 いつもは、大人の落ち着きを見せる彼だが、自分が知らない世界のこととなると、まるで子供のような顔をする。このことを知っているのは、今、この瞬間は自分だけなのだと思うと自然と笑みがこぼれる。

 それは、令嬢時代のような作り物のような笑みではなく、心からの笑顔だった。


「そうだな。カーステンの手記で知っていたが、初めて見たときは本当に感動した」


「初めて?」


「ああ、俺の住んでいたところの近くに海はなかったからな。あの人たちと一緒に見たのが初めてだった。」


 嬉しそうに頬を緩ませていたアッシュだったが、何かに気づき、ヒルデガルドに謝ってきた。


「あ、悪い。ヒルデは見慣れてて、珍しくもなかったんだよな。」


 申し訳なさそうにするアッシュにヒルデは首を横に振る。


「いや、僕もこんなに綺麗な海は初めて見るよ」


 暗い雲の切れ間から太陽の美しく輝く光が海を差す。

 黒い海は光が差すその部分だけ煌めき、光の柱を精霊が行き来しているように見えるほどの神々しい光景だった。


 自由を望み、何度も窓から見た海が、今はただ純粋に美しいと思える。彼が隣にいてくれるから、そう思えるのだろう。







『自由になりたい冒険家は世界を見たい』の登場人物であるヒルデの話です。

最後に出てきた男性はこちらの話の主人公なので興味がありましたら、是非読んでみてください。

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