84.仮面舞踏会⑥
会場へ戻ると、真っ先に目に入るのは中央のダンスフロアだ。
仮面をつけた男女が向かい合い、音楽に身を任せて踊っている。互いに正体を知らない相手かもしれないし、想像がついている相手かもしれない。
そこから恋が始まるのなら、それは素敵なことだとエマは思った。
そんなきらびやかな空間の周囲では、次は誰と踊ろうかと、令嬢や令息がグラスを片手に目を光らせている。それぞれの親は仮面をつけていないので、人脈を広げようと大人同士で歓談を楽しんでいた。
さらに、そこから視野を広げてみると―――…。
「……殺伐としていますね、ものすごく」
「ああ。兄と俺の婚約者候補たちかな」
何故か楽しそうにレオナールが笑う。
あちこちで睨み合いや貶し合いが起きているようだが、騒ぎになれば自分の不利になると分かっているようで一線は越えていない。
特にラザフォードの婚約者候補たちは、いつ切り落とされるか分からず気が気でないだろう。
「俺の婚約者候補たちは、蹴落とし合っても無意味なのにな。俺はエマを選ぶから」
「……だからさっきの態度ですか?ラザフォード殿下もですけど、そのうち背後から刺されるかもしれませんよ」
「はは、優秀な側近がいるから問題ない。兄は何度か刺されそうになったけど、自分で返り討ちにしていたな」
ラザフォードの側近となったシルヴァンとセインの姿を思い出し、エマは心の中で『頑張れ』とエールを送る。
さすがにこの会場で凶行に出る人物はいないだろうと思いながら、エマとレオナールはダンスフロアへ向かう。
エマたちに気付いたラザフォードとオレリアは、それぞれが誰かと踊りながらも微笑みを向けてくれた。
周囲の状況を確認しようと視線を走らせたエマは、ドクンと心臓が脈打つ。
(―――国王陛下と王妃陛下……!それにラマディエ国の両陛下…!他にも他国の両陛下がいるわ)
別に用意されていた要人用の部屋から、どうやら揃って会場へと移動してきたようだ。会場内の空気が一変する。
「……エマ」
知らずに震えていた手を、レオナールがそっと握ってくれた。伝わってくる優しい温もりに安心しながら、エマはその手を握り返す。
「はい、レオナール殿下。準備はできています」
「よし。ならまずは、俺たちの息の合ったダンスを見せつけてやろう」
エマの好きな悪戯な笑顔で、レオナールが笑う。仮面をつけたエマの表情は誰にも見られないが、それでも満面の笑みを返した。
曲が変わり、踊っていた人々はペアを変えて踊り出す。エマとレオナールは高度な技を繰り返しながら、徐々に周囲の注目を集めていった。
レオナールの生誕祝いのパーティーでは、“謎の婚約者候補”としてダンスを披露した。けれど今は、“エマ”としてレオナールの手を取り、踊ることができている。
エマにはそれが夢のような出来事に思えた。
(目の前で微笑みかけてくれる、大好きな人。前世で叶えられなかった恋―――もうすぐ私は、レオの…レオナール殿下の隣に―――…)
曲が終わり、大きな拍手に包まれた。レオナールが真剣にエマを見つめたかと思えば、その口元がフッと緩む。
「……大事な言葉を伝えるのに、仮面は少し邪魔だな」
レオナールの手が伸び、エマの耳元に触れる。心臓の鼓動が速まり、うるさく感じられるようになった、その時だった。
「……レオナール殿下」
一人の令嬢が、いつの間にか近くに立っていた。仮面には六枚の花びらがあり、レオナールの婚約者候補だということが分かる。
次のダンスの誘いだろうかと、エマとレオナールはサッと顔を見合わせる。
「ごめん、少しだけ待ってくれないか?」
「……私はもう、充分すぎるほど待ちました…それでもあなたは、突然現れたそんな女を選ぶのですね……」
涙の浮かぶ令嬢の瞳は、狂気に満ちていた。エマはぞくりと肌が粟立つ。
令嬢が隠し持っていた小型ナイフを持ち向かって来るのと、エマがレオナールを庇うように間に立ち塞がるのはほぼ同時だった。
「―――エマ!!」
令嬢が持つナイフがエマの腹部に刺さる。周囲からは悲鳴が上がり、エマはその場に崩れ落ちた。
次の瞬間にはダァン!と目の前で何かが床に叩きつけられる音が響く。ゆっくりと顔を上げたエマの視界に、後ろ手に拘束されている倒れた令嬢の姿が映った。
背中に乗っているのはウェスで、その脇には長剣を令嬢に突きつけるシルヴァンが立っている。
「エマ……エマ!」
「エマ!大丈夫か!?」
バタバタと足音が聞こえ、エマの周りに人が集まってくる。床に押さえつけられ拘束された令嬢は、エマを見上げながら口元を不気味に歪ませた。
「……ふ、ふふっ…。バカな女。殿下を庇って自分から死に突っ込むなんて……」
「―――!!」
肩を抱いてくれているレオナールの手に力が込められ、さらに震えているのが分かった。エマはその手に自分の手を重ね、レオナールに向かって微笑む。
「レオナール殿下、心配しないでください」
「……っ、俺はまた、あなたを……!」
「いいえ。今度こそ、私があなたを護れたんですよ。ほら……」
ゆっくりと立ち上がるエマを、慌ててレオナールが引き止めようとする。
目を見開く令嬢の目の前に、カランと音を立てて半分に割れた仮面が落ちた。
「―――ね?」
にこりと笑ったエマの腹部は、ドレスが破れてはいるが出血はない。
刺されると思った瞬間、エマは外した仮面で自らを護っていたのだ。
口をポカンと開けたレオナールは、急に全身の力が抜けたようにエマに覆いかぶさってくる。
「……レ、レオナール殿下?」
「本当に……あなたって人は…」
「……心配かけて、ごめんなさい」
「いや……ありがとう」
まだ僅かに震えているレオナールの背中をトントンと優しく叩きながら、エマは目を細めて令嬢を見下ろした。
驚愕の表情を浮かべながら、令嬢は「そんな…嘘よ…」とブツブツと呟いている。
「信じられないのは、あなたの行為だわ。婚約者候補のあなたが、レオナール殿下を傷付けようなんてどういうつもり?」
「う、うるさいわね…!あなたに私の気持ちなんてっ……」
「ええ、分からないし分かりたくもないわ。実力で隣に立とうとせず、大切な人を護ろうともせず、逆に傷付けようとするあなたの思考回路なんて!」
ここで止めなければと、エマの頭の中で警鐘が鳴る。それでも止められないのは、前世の想いも背負ってここに立っているからだ。
この令嬢は、レオナールのことが好きだったのだろう。婚約者という地位が欲しいわけではなく、一人の女性として選ばれたかった。
その想いだけはエマには理解できるが、だからこそ許せないと思ってしまう。
「この世界には……平民の力だけではどうにもできない事がたくさんある。でも、貴族に手を差し伸べてもらえれば救われる事もたくさんあるの。……そしてレオナール殿下が、手を差し伸べようとずっと頑張っていることを、あなたは知っているでしょう…?」
「………っ」
「お願いだから、そんな優しい人を傷付けようと思わないで。お願いだから、もう二度と―――…」
―――大切な人を奪わないで。
その言葉を口にできない代わりに、エマの頬を一筋の涙が滑り落ちる。
泣くつもりなどなかったエマは、慌てて目元を擦った。それでも涙は次々に溢れ、視界がぼやけていく。
(やめて……止まって。周りがどういう状況なのか分からないし、両陛下に絶対見られてる。止まって涙、お願いだからっ…)
強く目元を擦ろうとした手を、誰かの手が掴んで止めた。揺れる視界の中に、エマの大好きな人の姿が見える。
レオナールはエマの瞼に優しくキスを落とし、驚いたエマは涙が止まる。
綺麗な微笑みを浮かべ、レオナールがエマの手を取り跪いた。
あの日、レオナールの前世が“レオ”だと分かった時の記憶が重なっていく。
「―――エマ・ウェラー。俺の隣に立ってほしいと思える女性は、生涯…いや、この先何度人生を繰り返したとしても、あなた一人だけでしょう」
「……レ、オ…」
「今一度、俺にあなたを護り抜く役目をください。―――どうか俺と、結婚してくれませんか?」
周囲のざわめきは、エマの耳に届かない。
今この瞬間がどう見られているのか、どう思われているのか。そんなことはどうでもいいと、そう思ってしまった。
愛しい人が、自分を望んでくれている。それ以上に幸せなことが、エマにはなかった。
「―――はい。レオナール殿下」
涙に濡れた瞳で、エマは思いきり笑った。




