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82.仮面舞踏会④


 人々の視線を感じながら、エマはアンリに手を引かれダンスフロアの端へと移動する。

 中央では金髪の女性と踊るラザフォードの姿が見えた。レオナールの姿を探す前に、アンリの口が開く。



「……レオナール殿下は俺から見える位置で踊っています」


「そう…ですか。ところでアンリさま、どうしたんですか?何があっても踊らないって言ってませんでした?」



 レオナールが他の女性と踊る姿を見ることはせず、エマはアンリに問い掛ける。途端にアンリの顔が歪んだ。



「全くです。これはあなたのせいですよ、エマさん」


「え?私ですか?」


「そうです。あなたが誰とも知らない令息をダンスに誘っていた姿を見たレオナール殿下に、思いきり足を蹴飛ばされたんですから」



 先ほどの極上の笑顔が嘘のように、いつもの神経を尖らせたアンリの表情に戻っている。そのことに安心したエマは、くすりと笑ってしまった。



「……それは、すみませんでした。あの場でボケっと立っていたら不都合があったので…」


「見ていました。リリアーヌさんが飲み物をぶち撒けた子爵令嬢ですね」



 嫌がっていた割に、アンリはダンスが上手かった。エマはくるりと回転してから会話を続ける。



「気付いていたんですか?」


「あそこの家は悪い噂が絶えないので。隠蔽

も上手いですが、あなたのおかげで尻尾を掴めるかもしれません」


「……アンリさまに褒められると不思議な気分になります」


「俺もその仮面をつけたあなたと踊っていると、不思議な気分になりますよ」



 アンリの口元がフッと緩んだ。普通にいつも笑顔でいればいいのにとエマは思ったが、側近となるとそうもいかないのだろう。


 曲が終わり、エマとアンリは互いに会釈をしてから離れた。

 リリアーヌと子爵令嬢の様子が気になり、一度抜けて医務室へ行こうかと考えていると、すぐ近くから悲鳴が上がった。


 周囲の招待客たちの視線が一斉に悲鳴の上がった方へ向く。

 そこには二人の令嬢が向かい合っており、一人は床に倒れていた。近くにはグラスが割れて散らばっており、真っ赤な液体が血のように広がっている。



「な……何をするのよ!!」



 床に倒れていた令嬢が、立っているもう一人の令嬢をキッと睨み上げていた。その唇はわなわなと震えている。



「……何をしたか、ですって?何もしていないけど?」


「とぼけないでよ!私の足を引っ掛けたじゃない!」



 エマは騒ぎの方へ近付きながら、どうしたものかと眉を寄せた。

 睨み合う二人の内、一人の令嬢の声には聞き覚えがある。派手な深紅のドレスに身を包んでいるのは、ラザフォードの婚約者候補であるヴィオラだった。

 ヴィオラは倒れている令嬢を見下ろし、片手に持つグラスをくいっと傾けた。



「言いがかりはやめてちょうだい。どこかに足を引っ掛けて転んだのではなくて?あなたの不運を私のせいにされても、困ってしまうわ」


「なっ……!」



 顔を赤くした令嬢は、それ以上言葉が出ないようだった。周囲の人たちも遠巻きに見ているだけで、手を差し伸べようとはしない。

 エマは倒れている令嬢のすぐ近くまで移動すると、仮面を見た。花びらは七枚……ラザフォードの婚約者候補だ。となれば、相応の爵位を持つ令嬢のはずだ。


 ちらりとダンスフロアに視線を向ければ、ラザフォードが女性と踊りながらこちらを気にしている様子が見える。



(何かあれば、ラザフォード殿下が止めに来てくれると思うけど…。倒れている婚約者候補があまりにも可哀想だわ)



 ヴィオラとどちらが本当のことを言っているのか、状況をずっと見ていたわけではないエマには分からない。

 ただ、令嬢が転んだ瞬間を見ていた人物がいたとしても、名乗り出ることはしないだろう。

 王家主催と銘打ったパーティーで騒ぎを起こすことは、自殺行為に等しいからだ。



「―――あら、確かに足を掛けられていたわよ?」



 凛とした声が響き、周囲がざわりと揺れた。

 仮面をしていてもエマにはそれが誰だか分かる―――隣国ラマディエの王女、グレースだ。

 レオナールの婚約者候補だと分かる仮面をつけ、優雅にグラスに口付けていた。



「いつまでも床に倒れたままだと、貴女の品位を損なうわよ?早く立ちなさい。それから貴女、子供みたいな嫌がらせはやめなさい」


「〜なっ…!わ、私は嫌がらせなんてしていないわ!!」



 ヴィオラの矛先がグレースへと向く。相手が隣国の王女だと知ってか知らずか、ヴィオラは果敢にも文句を言い続けていた。

 周囲の視線が逸れているうちにと、エマは倒れている令嬢にこっそりと近寄る。手を差し伸べると、令嬢は明らかに動揺していた。



「……あ、私の手は取りたくないですかね。誰か別の方を…」


「だ、大丈夫よ。ありがとう。ただ少し、驚いて……っ」



 令嬢が手を掴んでくれたので引っ張って立ち上がらせれば、その瞳からは涙が零れ落ちていた。

 王家主催のパーティーで転ばされ、多くの人の前で失態を晒してしまったことがショックだったのだろう。仮面で素性が不確定とはいえ、誰からも救いの手が差し伸べられなかったという事実は、心の傷になってしまう。



「誰にも見られないように、私の仮面を貸しましょうか?」


「……ふふ、それは遠慮しておくわ」



 令嬢が涙を拭いながら、エマの言葉にフッと笑みを零す。少し落ち着いた様子に安心してから、エマはグレースに視線を向けた。

 グレースはヴィオラの文句を軽く聞き流している。エマと視線が合うと、「大丈夫よ」と言うように口元に笑みを浮かべた。

 けれど、その笑みがヴィオラの癇に障ったようだ。



「何なのよあなた…!私を馬鹿にしているのね!?それとも、私を陥れようとしているのかしら!?」


「あら、貴女を陥れて私に何の得があるのかしら」


「………っ、」


「―――やぁ、何の騒ぎかな?」



 驚くほど低く通る声が響いた。騒動を傍観していた招待客たちがサッと顔を青くし、そろそろと遠ざかっていく。

 グレースとヴィオラ、そしてエマと令嬢が取り残され、声を掛けてきた人物を見る。



(ラザフォード殿下……と、セイン兄さん。わざわざ声を掛けてきたってことは、騒動の原因をこの場で排除しようと決めたってことね)



 エマは震え始めた令嬢を庇うように前に出た。グレースの言葉が真実なら、彼女は足を掛けられた被害者だ。

 そして何より、乱れた姿をラザフォードに見られたいはずがない。


 ヴィオラは近付いてくるラザフォードを見るなり、態度を急変させた。



「ああ、ラザフォード殿下…!お助けください、この方たちが私に言いがかりを……!」



 瞳いっぱいに涙をためるという技を駆使したヴィオラが、ラザフォードの腕にしなだれかかる。それを一瞥したあと、綺麗な碧眼がグレースとエマ、それからエマの後ろの令嬢へと移った。



「……この場にいる三人が、寄ってたかって君に言いがかりを?」


「ええ!そうです、この三人……三人?」



 ヴィオラは一度ラザフォードから離れて振り返る。エマの存在に気付いていなかったようで、驚いて目を丸くしたかと思えば、すぐにまたラザフォードの腕に縋り付く。

 その一瞬の間に、ヴィオラの口元が弧を描いていたことにエマは気付いた。



「この三人です…!酷いわ、どうして皆でこの私を……!」



 どうしてもヴィオラは自分が弱いとアピールをしたいらしく、エマは完全なるとばっちりを受けていた。一言も言葉を交わしていないのに、ヴィオラを陥れようとしたことになっている。



(……本当にグレースの言う通り、そんなことをして私に何の得があるの?って話だわ。逆に下手に注目を浴びて、両陛下の耳に嫌な噂で伝わったら困るんだけど…!?)



 エマが仮面の裏で唇をぐっと結んでいる間、ラザフォードの腕を掴んでペラペラと話すヴィオラを、グレースは冷めた目で見ていた。

 そしてため息を吐き出すと、コツコツとヒールを鳴らしてエマに近付いて来る。



「エマ、ここには私が残るわ。その方のドレスが汚れてしまっているから、一度会場を抜けた方がいいと思うの」


「……そうね。このあと着替えのドレスが借りられるか聞いてみるわ。足を捻ったりはしていない?」



 エマの問い掛けに、令嬢は再び瞳を潤ませて首を振る。ラザフォードに断りを入れようと視線を向ければ、とても良い笑顔を返された。

 その瞬間、嫌な予感がした。



「……ねぇ、さっきから僕にくっついてくるそこの君」



 ラザフォードの言葉に、ヴィオラが腕を掴んだまま「はい?」と顔を上げる。



「―――君は、どこの誰?ベタベタと勝手に触れてくる厚かましい令嬢を、僕は知らないんだけど」



 冷たい笑顔を向けられたヴィオラは、凍りついてしまったかのように固まっていた。



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