79.仮面舞踏会①
―――ついに、運命の日がやって来た。
エマはいつも通りに身支度を終えると、扉に手を掛ける。村を出てからずっと過ごしていた小屋の中を一度振り返った。
無事にレオナールの婚約者になることができれば、この小屋で過ごすことはなくなるだろう。
(……よし。精一杯頑張ろう)
誰にともなく頷いてから、エマは扉を開いた。
セインの小言が飛んでくるかと構えていたが、簡易的に作った畑に実る作物を指でつついている人物を見て目を丸くする。
「レ……レオナール殿下!?」
何故か騎士の服を身に纏い、灰色の髪のウィッグを被ったレオナールがそこにいた。
エマの上擦った声に反応すると、輝かしい笑顔が向けられる。朝からとても眩しい。
「おはよう、エマ」
「ど、どうされたんですか?変装までして、何か問題でもありましたか?」
「問題はないし、準備は整った。ただ、俺が……会いたくて」
短いその言葉は、エマの心臓を掴むには充分だった。普段の姿のレオナールの言葉の威力はすごいが、“レオ”に似た姿で発せられる言葉の威力もまた破壊的である。
エマは口元をもごもごとさせながら、レオナールを直視できずに作物に目を遣った。
「そ、そうですか」
「エマは俺に、会いたいと思ってくれてる?」
「……!もちろんです!私はずっと―――、」
危うく好きだという気持ちをこの場で暴露しそうになり、エマは慌てて言葉を変える。
「ずっと―――今世でも会いたいと、そう思っていました」
この言葉も、決して偽りではない。前世で気持ちを伝えられなかったことを、ずっと後悔していたからだ。
けれど、ようやく気持ちを伝えられるかもしれない。そう思うだけで、まだ舞踏会が始まってもいないのに声が震えてしまう。
「私は……っ、」
「エマ、ごめん。虐めるつもりはなかった。俺はただ…そうだな、少し緊張してる」
いつの間にか近付いて来ていたレオナールが、エマの髪に優しく触れる。
視線を合わせれば、確かに緊張して表情が強張っていることが分かった。
「……レオナール殿下も、緊張するんですか?」
「当たり前だろ?このあと舞踏会が始まれば一瞬たりとも気が抜けないし、それに……大勢の前であなたに求婚することになる」
求婚、の言葉に思わずピクリと反応を示すと、レオナールが苦笑する。
「まさか、断ったりしないだろ?」
「そ、そんなことしません!」
「……安心した。じゃあ行こうか、今日はセインの代わりに俺が城まで送るよ」
エマの髪に触れていた手を離し、レオナールが歩き出す。もう少し触れていてほしいという思いをエマは頭から追い払った。
変装をした姿で現れたのは、この送迎のためなのだろうか。それを嬉しく感じながら、レオナールの背中を追い掛けた。
他愛ない会話をしながら、隣に並んで森の中を歩く。木々の間から木漏れ日が差し込み、そよ風で葉がカサカサと揺れる。
穏やかに流れる時間と、エマを見つめる碧眼の優しさに気付き、不意に泣きたくなってしまった。
今ここにいるのは、“エマリス”と“レオ”ではない。それでも、二人きりの時間が前世を呼び起こす。
「……レオ」
ポツリと口から零れ落ちた名前に、レオナールが驚いた顔をする。エマは我に返って口元を押さえた。
「す、すみませ……」
「どうして謝る必要が?……エマがそう呼びたければ、この先ずっとそう呼んでくれて構わない。“レオ”なら愛称として使えそうだし」
「……愛称…」
「レオナールという名前も気に入っているけど……俺は、あなたが呼んでくれる“レオ”が好きだった」
嬉しそうにレオナールが笑い、エマの胸は「好き」「愛しい」という感情で溢れ返る。
前世で叶わなかった恋を、今世では諦めたくない。エマはそっとレオナールの手を取り、指を絡ませた。
「エマ?」
「森を抜けるまでの間、私に勇気をください―――レオ」
レオナールはきっと、エマの緊張が滲む声に、僅かに震える手に気付いていただろう。
それでも何も言わず、微笑みながら優しく手を握ってくれたのだった。
王都の入口の門は、とても混雑していた。近隣の仮面舞踏会の参加者たちが列を成して待っている。
事前に王都に入って宿泊する参加者も多く、ここ最近は王都が賑わっていた。それに乗じて良からぬことを考える輩も増え、騎士たちは大忙しらしい。
門番のオスカーが対応に追われている様子を遠目に見ながら、エマはレオナールに小さく声を掛ける。
「……このままだと時間がかかりますし、私といると目立ってしまうので……先に戻ってください」
「却下。何のために迎えだと?城に着くまでにエマに何かあったら大変だろ」
「心配ないと思いますけど……」
そう答えた瞬間、背後からトンと肩を叩かれる。驚いて勢いよく振り返ったエマは、そこにいた人物を見てさらに目を見開いた。
「ウォ…ウォレス……!?」
「おはよう。そんなに驚くことないだろ?」
エマの叔父であるランベール公爵の養子であるウォレスは、エマたちが領地へ訪れたあと、心を入れ替えて真面目に領地経営の手伝いをしていると聞いていた。
改めてウォレスを見てみると、服装のおかげもあるだろうが、貴族の雰囲気が洗練されている。誰も昔は盗賊だったとは思わないだろう。
「あれ……ランベール公爵は?」
「父さんは雑務に追われてて、あとから合流することになってる。ちゃんとお前の力になるから、心配するなよ」
「……うん、ありがとう」
「エマの兄さんと姉さんも城にいるんだろ?父さんが会えるの楽しみにしていたぞ」
屈託のない笑顔でウォレスが笑う。以前公爵領で会ったとき、常に不機嫌そうな顔をしていたのが嘘のようだ。
セインとミリアは、父親のマークが貴族の人間であったことに薄々勘付いていたということを、つい最近知った。幼い頃王都にいた朧気な記憶が残っていたらしい。
さすがに公爵家出身だとは思っていなかったようで、叔父の存在を知った二人は会いたがっていた。その願いは今日叶いそうだ。
(父さんも母さんも、隠していたことを手紙で謝ってくれた。でも、私は二人が貴族でも平民でも関係ない……大好きな両親だもの)
今回の仮面舞踏会に両親を呼べなかったことを残念に思っていると、ウォレスの視線がレオナールに向いていることに気付く。
「婚約者候補って、護衛の送迎がつくのか?すごいな」
「あ、ええと…」
エマがちらりと見上げると、レオナールは悪戯に笑った。
「久しぶりだな、ウォレス。頑張っていると聞いているぞ」
「え?………レ、レオナもごっ」
「しーっ!」
レオナールの名前を叫びそうになったウォレスの口を、エマは慌てて塞ぐ。ウォレスはすぐに冷静になったようで、エマの手を剥がすと軽く頭を下げた。
「気付くのが遅れてしまい、申し訳ございません。その節は大変お世話に……」
「そんな堅苦しくしないでくれ。今の俺は護衛騎士“レオ”だからな」
楽しそうにレオナールがそう言って、エマに向かって笑いかけてくる。
ウォレスも一緒に領地の話などをしていると、あっという間に門に近付いていた。
門番のオスカーがエマに気付くとパッと顔を輝かせる。
「おはよう。見知った顔がいると安心するな」
「おはようございます。今日は大変だと思いますが頑張ってくださいね」
エマたちはそれぞれ身分証を見せる。オスカーはレオナールの顔を二度見していたが、深く追求することはやめたようだった。
門をくぐった先でウォレスと別れ、エマとレオナールは城へ向かう。城の門番にも同じような反応をされたあと、レオナールは城を見上げて「さて」と呟いた。
「本番は夕方からだな。……計画は全て頭に入ってるかな?」
「はい。衛兵の配置場所までバッチリです」
「ははっ、さすがだ。じゃあ……次に会場で会うときまで、お互いに出来ることをしよう」
微笑んだレオナールが、少し身を屈めてエマの耳元で囁く。
「―――求婚の返事の言葉を、考えておいて」
全身にぞくりと震えが走り、エマは真っ赤になっていた耳元を押さえた。レオナールは妖艶な笑みを浮かべ、手を振って城へと歩き出す。
その後ろ姿を睨むように見つめながら、エマは「望むところよ」と呟いた。
―――天気は快晴、準備は万端。やる気も勇気も、充分漲っている。
それぞれの想いを乗せた仮面舞踏会が、間もなく始まろうとしていた。




