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75.他国の婚約者候補②


「エマ、貴女はレオナールさまの婚約者候補にするには勿体ないわ!」



 話を聞き終えたグレースに開口一番そう言われ、エマは目を丸くする。



「勿体ない?」


「そうよ。そこまで優れた適応能力を持っているんだから、王太子妃を目指すべきだわ!」



 思いも寄らないグレースからの過剰評価に、エマは思わずくすりと笑ってしまった。

 王太子妃ということは、ラザフォードの婚約者を目指すということだ。



「グレース、私が目指しているのはレオナール殿下の隣に立つことなの」


「え?そうなの?」



 心底驚いているような様子を見ると、グレースはレオナールに全く興味がないようだ。エマの目にはそれがとても新鮮に映る。



「グレースは、誰か想う相手がいるの?」



 そう問い掛けてみれば、グレースはすぐに首を振った。残った半分の果実水を、今度は少しずつ飲んでいる。



「残念ながらいないのよね。まともな恋愛結婚ができるとは思っていないけど、一度でいいから誰かと想い合う経験をしてみたいわ」


「……その相手に、レオナール殿下を選ぶつもりはないってことよね?」


「そうよ。どちらかと言えば、私はラザフォード殿下の方が好みで……ってエマ、貴女ものすごく嬉しそうよ?」



 呆れたようなグレースの指摘に、エマはハッとして緩んだ頬を引き締める。

 目の前の美女がレオナールに興味がないと分かり、安心してしまったのだ。



「本当にレオナールさまが好きなのね。あの人、全然女性に興味なさそうだけど勝算はあるのかしら?」


「それは……」



 前世のことやレオナールとの関係性は、もちろんグレースには話していない。

 口ごもるエマに対して、グレースは何かを察したようだ。申し訳なさそうな表情で口を開く。



「余計なことを訊いてごめんなさい。好きなら関係ないわよね」


「あ、ううん、大丈夫―――…」



 そのとき、客の一人がエマたちのテーブルにぶつかってきた。

 果実水の入ったグラスがカシャンと音を立てて倒れ、中の液体がテーブルに広がり、服にも水滴が飛んでくる。



「あれ〜?ぶつかっちゃったなぁ。どうもお姉さん方、すみません〜」



 明らかに酔った様子の男性が、とろんとした目でエマとグレースを交互に見た。



「あれ〜?お姉さん方、とっても綺麗ですねぇ〜。どうですぅ?良かったらオレと飲みませんかぁ〜?」



 男性はニヤニヤと笑いながら、図々しくもグレースの隣に座る。グレースは笑顔だったが明らかに目は笑っていない。

 他国で問題を起こすわけにはいかないグレースの代わりに、ここはエマが男性を追い払うしかないと腹を括る。



「あの。座っていいとは一言も言っていませんけど」


「……ええ〜?お姉さん冷たいなぁ〜…ははっ、よく見たらお姉さん黒髪じゃん〜。もしかして、誰にも相手にされないから嫉妬してるの〜?」



 グレースの手がピクリと動く。その手は果実水の入っていた空のグラスを握っていた。

 エマはグレースの名前を呼ぶ。



「グレース、気にしないで。慣れてるから」



 そう言いながら、エマは自分が黒髪だということを忘れかけていた。それは、あまりにグレースが普通に接してくれていたからだ。

 そのことに気付いて感動していたエマに向かって、男性が「はあ〜?」と声を上げた。



「なぁ〜に強がっちゃてるの〜?びくびく震えてた方がまだ可愛げありますよ〜?」


「―――お前に見せる可愛げなんか、彼女には必要ないな」



 エマたちのテーブルに、新たに一人の男性が現れた。

 騎士の服と灰色の髪が目に入る。それでも、今世での愛しい人の声を聞き間違えるはずはなかった。



(レオナール殿下……!?)



 別人を装っているレオナールが片手をテーブルにつき、酔った男性に微笑みを向ける。



「邪魔だからどいてくれないか?」


「あ〜?何だよお前…オレは今なぁ〜…」


「参ったな。嫌がられていることに気付けない男はモテないぞ?」


「なっ……!?」



 レオナールはわざと男性を挑発したようだ。顔を赤くした男性は立ち上がり、レオナールの胸ぐらを掴む。

 次の瞬間、男性の体は床に仰向けに打ち付けられていた。


 何が起こったのか分からない男性は、すっかり酔いの覚めた顔で天井を見上げている。

 周囲からワッと歓声と拍手が沸き、レオナールは笑顔で片手を挙げた。同じく変装をしたルーベンが素早く現れ、男性を立たせて後ろ手に縛り上げる。



「なっ…何だぁ!?オレが何したって言うんだよぉ!?」


「とりあえず、店に対する迷惑行為と、騎士に対する暴行。それと…」



 レオナールは男性の耳元に顔を寄せ、恐ろしく低い声で言い放った。



「―――彼女を傷つける言葉を吐いた罪だ」



 男性は青白い顔でヒュッと息を飲む。ルーベンはその腕を引っ張りながら、レオナールに頭を下げて店を出て行った。

 その姿を横目で見送ったあと、レオナールがエマに視線を移す。



「……ケガはないか?」


「…………」



 エマは口元を両手で覆い、こくこくと頷く。言葉が出せないのは、口を開けば一気に感情任せに喋ってしまいそうだからだ。

 変装したレオナールは、前世で護衛騎士だった“レオ”にそっくりだったのだ。



(私もだったけど、やっぱり元の容姿と似ているのね…!髪色だけでとても印象が変わる。もうレオだわ、レオ。懐かしい黒混じりの灰色の髪。瞳はレオナール殿下の碧だけど…騎士の服なのもずるい。……ああ無理、格好いい…)



 じっと見つめたままのエマの思考が、レオナールに伝わったのだろうか。

 口元に笑みを浮かべながら、エマへ向かって片手を差し伸べてくる。灰色の髪がサラリと揺れた。



「……お手をどうぞ、お姫さま」



 それは、前世で“レオ”が“エマリス”に対してよく言ってくれた言葉だった。

 目の前のレオナールの姿がかつての思い出と重なり、エマの心臓が暴れ出す。何か言わなければと思うのに、「好き」という言葉に頭を支配されていた。


 碧い瞳に吸い込まれるように、エマは無意識に手を伸ばして重ねる。

 すると、レオナールは「よくできました」と言わんばかりに悪戯で妖艶な笑みを見せてきた。



(待って、本当に無理。胸が苦しい)



 心臓が口から飛び出そうなほど脈を打つ。震える唇をなんとか動かそうとした、そのときだった。



「―――私は一体、何を見せられているのかしら?」



 その声で一気に我に返ったエマは、声の主を見た。頬杖をついたグレースが、じとっと睨むように目を細めている。



「グ、グレース…そのっ…」


「エマはいいのよ。私を庇おうとしてくれてありがとう。……それに引き換え、貴方は全く私のことなんて眼中にありませんでしたよね、レオナールさま」



 グレースの射抜くような視線を受け、レオナールは笑顔で首を傾げた。



「おや、正体がバレていましたか」


「バカにしていますか?仮にも婚約者候補なんですからね」


「それなら、他の候補者を巻き込んで我々の手を煩わせるのはやめてください」



 レオナールのあまりに率直な物言いに、エマはハラハラと成り行きを見守っていた。このまま他国との関係が拗れたら大変だ。

 グレースが俯き、小刻みに肩を震わせ始める。まさか泣いているのかと、エマは慌てて席を立った。



「グレース……!」


「……っあはははは!」



 ころころと鈴を転がすようにグレースが笑い出す。その目は怒っているようには見えなかった。

 ポカンと口を開けてしまったエマに向かって、グレースはなんとか笑いを押し殺そうとしていた。



「……っふ、ふふっ…!やっぱり一度この国に来て良かったわ…!こんなに面白いものが見られるなんて……ねえ、レオナールさま?」


「はは、何のことか分かりませんが、どうやら我が国を楽しんでもらえているようで何よりです」



 レオナールの返答に、グレースは変わらず笑っている。とりあえず関係の悪化はなさそうだと思い、エマはホッと胸を撫で下ろした。

 周囲に人が多い状況のため、エマはレオナールの袖を引っ張って顔を寄せる。そのまま耳元で囁くように問い掛けた。



「あの……レオナール殿下。お手を煩わせてしまってすみません。このあとどうすればいいですか?」


「…………」


「……?殿下?」



 反応のないレオナールを不思議に思っていると、グレースが楽しそうに唇の端を持ち上げる。



「あらあら。これはレオナールさまの弱みを一つ握ってしまったかしら?」


「……弱みでは、ありませんから」



 咳払いをしたレオナールが、エマの肩をぐっと抱く。



「彼女がいてくれることは、俺の強みです」



 すぐ隣で感じた体温に真っ赤になったエマは、このあとどうやって城に戻ったか全く覚えていなかった。



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