72.揺らぎ
エマの宣言を聞いて、最初に口を開いたのはラザフォードだった。
「……君たち二人の想いは分かった。この国の未来のために、僕は協力するよ」
ラザフォードは微笑みながら、隣に座るレオナールの頭をぐりぐりと撫でる。レオナールは気恥ずかしそうな顔をしながらも、その手を払い除けようとはしなかった。
エマの隣に座るオレリアは、エマの片腕にぎゅっと抱きついてくる。ふわりと甘い香りが漂った。
「私も協力します。エマがレオナールお兄さまと結婚すれば、私たち義理の姉妹になれるわね」
ふふっと嬉しそうに笑うオレリアに、エマは照れ笑いを返す。
そして向かいに座るレオナールの背後に控える側近たちと目が合い、きちんと背筋を正した。レオナールに仕える三人が、エマが婚約者になることをどう思っているかは分からない。
出会った当初は、レオナールの側近になると息巻いていたことを皆知っている。
「……アンリさま、ルーベンさま、ウェスさま。迷惑をかけてばかりの私ですが、どうか…」
「君がレオナール殿下の婚約者になったら、エマさまって呼んだ方がいい?」
突然ウェスにそう言われ、エマは瞬きを繰り返す。それは、遠回しに認めてくれているともとれる言い方だった。
けれど散々正直すぎる否定の言葉を投げかけられてきたエマは、疑うような視線を向けてしまう。
「ええと……いえ、さま付けはやめていただけると…」
「そう?じゃあエマって呼ぼ」
「………」
初めてウェスからちゃんと名前を呼ばれた感動で、エマは咄嗟に言葉が出なかった。ずっと“珍妙ちゃん”と呼ばれ続けていたので、この先も名前で呼ばれることはないだろうと半ば諦めていたのだ。
エマが顔を輝かせていると、レオナールが楽しそうに笑う。
「エマ、何も心配要らない。俺の側近たちはみんな、エマのことを認めてくれてるよ」
「ほ…本当ですか?」
エマは同意を求めるようにアンリとルーベンを順に見る。
アンリはすました顔で「あなたの根性は認めます」と言い、ルーベンはいつものしかめっ面で「……同じく」とアンリの意見に同意してくれた。
顔を輝かせたまま振り返れば、笑いを堪えているシルヴァンが口を開く。
「……俺も、あなたにお仕えするためなら協力を惜しみませんよ」
この場にいる皆は、エマがレオナールの婚約者となることに協力してくれるらしい。
込み上がってくる感謝の気持ちは、とても「ありがとう」の一言だけでは足りなかった。一人一人の手を握り、長々と礼を伝えたいくらいだが、早く決めなくてはいけないことが山程ある。
そう考えていたのは、レオナールも同じのようだ。
「みんな、ありがとう。このあとの計画が全て上手くいったら、改めてお礼をさせてほしい」
「そうだね。まずは上手くいくよう計画を練らないと。失敗したらエマがレオナールの婚約者になる道は閉ざされると考えた方がいいね」
「もう、ラザフォードお兄さま!エマを不安がらせるようなことは言わないでください!……絶対に成功させますよ!」
ラザフォードが笑い、オレリアが怒る。そんな二人の様子を、レオナールが嬉しそうに目を細めて見ていた。
そして、そんなレオナールを見る側近たちの表情は穏やかで、エマも自然と笑みが零れる。
優しさと温かさに満ちた部屋の中で、エマたちは意見を出し合って計画を立てていった。
***
ラザフォードの婚約者候補であるヴィオラは、公爵邸に戻るなり大声を上げた。
「信じられないっ!!」
大きな宝石の輝く髪飾りを床に投げつけると、使用人が慌ててそれを拾う。その様子を一瞥しながら、ヴィオラは勢いよくソファに座った。
大声を上げても、物に当たっても、イライラとした感情は一向に収まらない。このイライラは、思い通りにならないラザフォードへと向けられていた。
「私を誰だと思っているのよ…!」
ガリ、と親指の爪を噛む。
ラザフォードの婚約者候補の中では、ヴィオラが一番婚約者に近いと噂されている。
幼い頃から将来の有望性を見出され、王家から直々に声が掛かった。いずれ王妃となることを目標に、ヴィオラは毎日血の滲むような努力をした。
それなのに、ラザフォードはヴィオラに全く興味を示さない。金髪の女性が好きという噂は皆が知っているが、好みに一致しているヴィオラに迫ってくるようなことは一度も無かった。
相手から来ないならばと、時間を見つけてはラザフォードに会う打診をし、数回に一度は時間を作ってもらえている。けれど、いつも上辺だけの会話しかしてもらえず、さすがのヴィオラも怒りが限界に達していた。
つい先程も、ようやく会えたと思えば邪魔が入った。食い下がっていたら部屋に置き去りにされた挙げ句、迎えに来たのは黒髪の騎士だったのだ。
さらにはその騎士はヴィオラがラザフォードの婚約者候補ではなく、ただの客人だと思っていた。
その場で怒鳴り散らしそうになったヴィオラは、必死に手の甲をつねって耐えた。おかげでその手の甲はまだ痛んでいる。
ヴィオラの頭の中に、ふと第二王子の婚約者候補の姿が浮かんだ。
先日の生誕祝いのパーティーで突然現れた婚約者候補で、その正体は平民で黒髪の、第一王女オレリアの侍女だという。
公爵家の令嬢あるヴィオラは、ただの平民が王子の婚約者候補に選ばれることに納得がいかなかった。
抱えきれない不満と怒りが、言葉となって零れ落ちる。
「ああもう……私ですらまだラザフォード殿下の婚約者に決まっていないのに…!もしあんな平凡な女がレオナール殿下の婚約者に決まったら、将来はあの女が身内になるということ…?」
生粋の貴族思考を持つヴィオラの心が、それだけは嫌だと叫ぶ。
早く第一王子の婚約者に選ばれたい。いずれ王妃になれるという確証が欲しい―――そんな野心を剥き出しに生きるヴィオラの元へ、やがて吉報が訪れる。
それは、屈辱的な気分を味わった日から一か月後のことだった。
「ラザフォード殿下から手紙ですって?」
ほぼ毎日のように出しているラザフォードへの手紙に、ようやく返信が来たと使用人に知らされたヴィオラは、息を弾ませて手紙を受け取りに向かった。
受け取った封筒は、とても華美な模様が描かれており、一目で王家から届いたものだということが分かる。
ヴィオラは次に会える予定の返信が来たのだと思い、すぐに手紙を取り出した。けれど、そこに書かれていたのは全く別の内容だった。
「……王家主催の、仮面舞踏会……?」
文章を読みながら、だんだんと眉間にシワが寄っていく。
王家主催のパーティーは何度も参加したことがあるが、仮面舞踏会は聞いたことがない。
せっかくの他家との交流の場で、仮面によって素性や身分を隠しては何も得られないからだ。仮面舞踏会という単語自体に良い印象を持たれるはずはない。
招待状には、つける仮面は王家で用意し事前に届けるということと、政治的な意図はなく、身分は関係無しに純粋に楽しんで欲しいという旨が書かれていた。
「……下級貴族のご令嬢たちは、それは楽しいでしょうね」
フン、とヴィオラは鼻を鳴らす。王家主催のパーティーで、下級貴族の令嬢は堂々と上位貴族の令息と接点を持つことが可能なのだ。
それに引き換え、二人の王子の婚約者候補たちには、このパーティーの利点を見出だせないだろう。仮面で素性を隠してしまうなら、ラザフォードやレオナールとの時間を取れるはずもない―――…。
そこでヴィオラは閃いた。
素性を隠せるのなら、仮面舞踏会で少し派手な動きをしてもバレにくいのではないかと。
人目を忍んでラザフォードに突撃し、既成事実を作ってしまうか、あるいは他の婚約者候補たちを見つけ蹴落とすか。
もし咎められても、“仮面で相手が誰だか分からなかった”で通せるかもしれない。
ヴィオラの口元が綺麗な弧を描き、それに気付いた使用人がビクッと肩を震わせる。いつもならその態度を咎めるところだが、ヴィオラは久しぶりに気分が高揚していた。
ラザフォードの婚約者に選ばれるのは自分だと、未来の王妃になるのは自分だと、ヴィオラはそう信じて疑わない。
その妄信を否定する人間は、ヴィオラの周囲にはいなかった。
そして、この仮面舞踏会の招待状によって、複数の婚約者候補たちがそれぞれ企みを持つことになる。
彼女たちもまた、ヴィオラのように自分が王子の婚約者になることができると信じて疑っていなかった。
エマがレオナールの婚約者となるために用意された、仮面舞踏会。
三か月後に開かれるそのパーティーで、数々の欲望にまみれた事態が引き起こされることになるとは、まだ誰も思っていなかった―――。




