33.第一王子ラザフォード
その日、エマはオレリアの指示で北の書庫へと出向いていた。
この周辺は第一王子であるラザフォードの管轄であるらしく、書庫で働くのは女性が多いのかと思えば、その反対で全員が男性だった。
働く司書たちにじろじろと見られながらも、エマは目当ての本を借りる手続きを終え、すぐに書庫を出る。
(……ものすごく居心地が悪かったな。早く戻ろう……)
両手で本を抱えながら足早に歩き、廊下の角を曲がったところでエマは立ち止まった。
見覚えのあるプラチナブロンドの髪の人物がいた。けれどレオナールやオレリアではなく、ラザフォードだ。
窓際に一人の女性がいる。見たところ使用人のようで、その女性を両腕で囲い込むようにしてラザフォードが窓に手をついていた。
エマは急いで廊下の角を戻って身を隠す。
(え……もしかして口説いてる?こんな誰でも通る廊下のど真ん中で??)
綺麗に整った顔を近付けられれば、ほとんどの女性が虜になってしまいそうだ。使用人にとって、王子など雲の上の存在である。
だからこそ、雲の上から手招きされた女性たちは、夢心地のままふらりとついて行ってしまうのだろう。
たちが悪いな、とエマは眉を寄せた。
「……」
息を潜めてその場で待ちながら、そろそろいなくなったかと再び歩き出そうとした時だった。
廊下の角の向こうから、コツコツと足音が響く。
エマは嫌な予感がした。近付いて来る足音がラザフォードのものではないようにと願ったが、その願いは叶わなかった。
「―――おや、もしかして君はオレリアの侍女?」
角から現れたラザフォードは、壁を背に立つエマを見てそう声を掛けてきた。素通りしてくれればいいと思ったが、そう上手くはいかないらしい。
声を掛けられた以上、エマは無視するわけにはいかなかった。
「はい。オレリア殿下の侍女を務めさせていただいております、エマ・ウェラーと申します」
「……へぇ、綺麗なお辞儀をするね。ところで、どうしてこんな北の端まで?」
「書庫で本を借りておりました」
エマの返事に、ラザフォードの視線が手で抱えていた本へと向く。その瞳が細められたかと思えば、何が可笑しいのかくすくすと笑い出した。
「それ、経営の本だろう?オレリアは何か事業でも始めるつもりなのかな?毎日必死に背伸びしてるところが可愛らしいけどね」
どこかバカにしたような言い方に、エマはカチンときてしまう。けれどさすがに、ここで言い返すような真似はしない。けれど。
「視察では、オレリア殿下はその目で王都の現状をしっかりと見ておられます。ご自身で力になれることはないかと、毎日遊び歩くことなく勉学に励んでいらっしゃいますよ」
「……へぇ、なるほど?」
ラザフォードを纏う空気が少し変わった。エマは微笑みを浮かべながらも、遠回しな嫌味がバレたかと焦っていた。
要するにエマは、『視察でも城内でもふらふらと女遊びに励んでいるあなたとオレリアは違う』と言ったのだ。
あまり目を付けられたくはないが、仕える主人をバカにされて黙っていることもしたくはなかった。
「そうだ、良いことを考えた。たった今可愛い子猫を逃がしたばかりの僕を、君が癒やしてくれるかな?」
「……」
目を丸くしたエマに、ラザフォードが一歩近付く。壁に手をつき、スッと顔を近付けられた。
(ああ、この人もまつ毛が長い―――じゃなくて、どうしよう。逃げないと……!)
エマは手に持っていた本を床に落とした。そしてそれを拾いつつ、ラザフォードの腕を躱して距離を取る。
「……オレリア殿下へ早くこの本を届けに行かなくてはなりませんので、失礼いたします。ラザフォード殿下を癒やす役目はぜひ、他の金髪の女性にお願いしてください」
強硬手段を選び、エマはにこりと微笑んだ。
もし引き止められたら逃げるわけにはいかなかったが、ラザフォードは楽しそうに笑っている。
「それは残念。……じゃあ、オレリアによろしく」
「はい。失礼いたします」
エマは頭を下げ、躊躇いなくラザフォードに背を向けた。普通に見えるよう努めながらも、精一杯の早足でこの場を立ち去る。
未だに心臓はバクバクと早鐘を打っていた。
(こ……怖い。目が獲物を狙ってるみたいに鋭かった。金髪の女性にしか興味ないんじゃないの?それともオレリア殿下の侍女はまた別枠なの?)
リリアーヌとルシアにも注意を促さなければと、エマは一目散にオレリアの部屋へ戻っていく。
その途中で見知った後ろ姿を見つけたエマは、隣を素通りするべきかものすごく悩んだ。
けれど、声を掛けないほうが不自然だという結論に辿り着く。
「……お疲れ様です」
横を足早に通り過ぎながら、エマは無難な挨拶をしてペコリと頭を下げる。そのまま歩き続けようとしたところで呼び止められた。
「待ってください、エ……んんっ、そこのあなた」
エマの名前を呼ぼうとして、慌てて咳払いをしたのはアンリだ。立ち止まって振り返ったエマに、スタスタと近付いてくる。
「何でしょう……?」
「ちょうど渡すものがありましたので」
アンリが差し出したのは、一通の手紙だった。
花柄の可愛い封筒を見た瞬間、エマは思わず笑顔が零れる。姉のミリアからの手紙だ。
エマが現在住んでいる小屋は、郵便配達がない。なので、手紙の受け取りは毎回アンリを経由していた。
小屋の扉前にポツンと置いてあることがほとんどで、手渡しされるのはこれが初めてだった。
「あり……がとうございます」
エマは危うく満面の笑みで声高にお礼を言いそうになり、すぐに平静を装った。遠目に使用人の姿が見える。
なるべく仕事の会話に見えるよう、エマはアンリに頭を下げた。
「では、失礼します」
「……“妹が最近楽しそうだ。ありがとう”……と、伝言を預かっています。確かに伝えましたよ」
それが誰からの伝言なのか、エマにはすぐに分かった。頭を下げたまま笑い、緩んだ表情を戻してから顔を上げる。
「はい、確かに受け取りました」
「……では、引き続き励んでくださいね」
アンリが立ち去る背中を見送ってから、エマは再び歩き出す。
ミリアからの手紙と、レオナールからの伝言。嬉しさに舞い上がっていたエマは、ラザフォードとの出来事をすっかり頭の隅に追いやっていた。
***
その日の夕方、小屋へ帰ったエマはさっそくミリアの手紙に目を通していた。
女性らしい文字が、長々と便箋に綴られている。
―――『エマ、元気?侍女の試験を受けるって言ってたけど、もう終わった?無事受かったのかな?エマなら大丈夫だと思うけどね!あ、こっちはみんな元気だよ。そうだ、この前面白いことがあって―――…』
手紙を読みながら、エマは自然と笑っていた。家族の日常や、村での出来事を頭の中で想像しては、自分もそこに混ざっている感覚になる。
少しだけ寂しい気分にもなるが、今エマが王都にいるのは、エマ自身が選んだ道だ。
返事に何を書こうかと読み進めていると、最後の一文に目が止まった。
―――『実はね、来週セインと王都に遊びに行く予定なのよ!日程が確定したらすぐ手紙を送るね。早くエマに会いたいわ―――』
「え……本当に?」
エマは思わず声が漏れ、それからじわじわと嬉しさが込み上がってくる。すぐに便箋を取り出すと、口元に笑みを浮かべたまま返事を書き始めた。
そして翌日、王都で買ったお気に入りの封筒を鞄に入れ、仕事の前に配達の依頼をしようと小屋を出た。
橋を渡る途中で、王都の入口がざわついていることにエマは気付く。
眉をひそめながら近付いていくと、騒ぎの中心にいた人物はすぐに分かった。
―――笑顔で輝きを振り撒くラザフォードが、そこにいた。




