18.野良猫
二人分の足音が、ゆっくりと近付いてくる。
咄嗟に茂みに隠れていたエマは、身動きしないように体を固くした。少しでも動けば、葉が音を立てて揺れてしまうのだ。
「……アンリ、さっきしていた変な動きは何だ?」
「変な動きとは何でしょう?全く身に覚えがありません」
「振り子のように顔を動かしていると思ったら、手で何かを追い払っていたじゃないか」
アンリの下手な嘘は、すぐレオナールに見破られてしまったようだ。
エマは久しぶりのレオナールの声を、じっと耳を澄まして聞いていた。
(……レオより、ちょっと高めの声。でも、楽しそうに笑う声は変わらないように聞こえる……)
「それはアレですよ殿下、アレ。そう野良猫がいたので、俺は追い払ったのです」
相変わらず、アンリは嘘を吐くのが下手なようだ。本人はこれだ!と思ったのか、声に喜びが滲み出てしまっている。エマは必死に笑いを堪えた。
「野良猫……。まぁいい、俺は今、謎の珍妙な女性に興味を唆られているからな」
「……っ、」
危うく声が出てしまいそうになり、エマは慌てて口元を押さえた。“珍妙な女性”という言葉が、確かに聞こえた。
「……おや殿下、それはあの村娘より興味がある、ということですか?」
エマのすぐ近くで、意地の悪いアンリの言葉が響く。すると、レオナールが短く笑った。
「はは、まさか。俺の興味は前世からずっと、彼女にしか向かないよ。珍妙な女性は、ただ単にウェスが気にかけている、という点に興味があるだけだ」
「……ウェスのことです。その辺で捕まえた人間に、仮面をつけて騎士と戦ってみろと言っただけじゃないですか?名前も覚えていないようですしね」
「んん、否定は出来ないな。ウェスなら笑顔で言いそうだ」
レオナールとアンリの声が、徐々に遠ざかっていく。
足音が聞こえなくなってしばらく経っても、エマは茂みの中から動けなかった。
(……前世からずっと……興味が向くのは、私だけ……?)
レオナールの言葉が、エマの中にずっと響いている。嬉しくて嬉しくて、何度も頭の中でその言葉を繰り返していた。
知らずに口元がニヤけながらも、エマは自分が仕事中だと言うことにハッと気付く。
早く終わらせなければと、その場で立ち上がったところで固まった。
エマから少し離れた先で、三人の騎士たちが立ち止まっている。
そして、その騎士たちの目は、間違いなくエマに注がれていた。
「「…………」」
お互いに見つめ合ったまま、無言の時間が過ぎる。
(えっ……と……?もしかして休憩のタイミングだったり……?)
エマは冷や汗を流しながら、頭の中で必死の言い訳を考えていた。
茂みの中から突然現れた口元の緩んだ使用人なんて、とても怪しすぎる。
三人のうち一人の騎士がエマに向かって近付いて来た。その騎士の顔に見覚えがあることに気付き、エマは思わず体を強張らせる。
仮面をつけたエマと戦った騎士、シルヴァンだった。
「……あの、すみません」
話し掛けられ、エマはビクッと肩を震わせる。けれど、あのときは素顔も声も晒さなかったので、エマの正体がバレることは今のところないのだと気付いた。
「は……はい、なんでしょうか」
エマが努めて冷静な声でそう答えると、シルヴァンは言いにくそうに口を開く。
「その……野良猫がこの辺りに迷い込んでいるとの情報を得まして。姿を見ませんでしたか?」
「……野良猫?」
どこかで聞いたな、と首を傾げたエマは、すぐに思い当たった。つい先ほど、アンリがレオナールを誤魔化すために吐いた嘘だ。
(もしかして、アンリさまの嘘を本気にしたレオナール殿下が、騎士に捜索しておくように言った……とか?)
アンリの嘘が、ややこしい事態を引き起こしていることは間違いない。
野良猫として誤魔化されたのはこの私です、と言うわけにもいかず、エマはにこりと微笑んだ。
「いえ、見ていません」
「そうですか。……失礼ですが、使用人の方ですよね?何かあったんですか?」
シルヴァンが探るようにエマを見ている。騎士として、怪しい人物を疑うのは真っ当な行動だ。
少しでも動揺を見せれば見抜かれてしまう。そう判断したエマは、王女のときに身に付けたスキルを余すことなく発揮した。
「はい。私はこの渡り廊下の掃除をしていたのですが……強風で布巾を飛ばされてしまいまして。茂みに落ちたので、探しておりました」
「……そうなんですね」
「もし疑われるようでしたら、こちらを」
微笑みながら、エマは胸元のネームプレートを外して手渡す。
出来ればシルヴァンに名前を知られたくはなかったが、この場で怪しい使用人と断定されることは避けたかった。
プレートを受け取ったシルヴァンは、一瞥だけするとすぐにエマに返してきた。
「疑ってなどいませんよ。もしあなたが仮に……使用人のフリをしている怪しい者だとすれば、俺たち騎士を見た瞬間に逃げ出すか、こちらから問う前にペラペラと言い訳を話し出すかですので」
「……そう、なんですか?」
「ええ。……極稀に、堂々としながら真実のような嘘を吐く者もいますけどね」
シルヴァンは紫の瞳を細めながら、にこりと笑う。
エマはギクリとしたが、口元に手を添えて「騎士の皆さまは大変ですね」と眉を下げて微笑んだ。
これ以上シルヴァンと話すのは危険だと判断する。
「……では、驚かせてしまいすみませんでした。私は仕事に戻ります」
「はい。野良猫を見かけたら、近くの騎士に教えて下さいね」
そう言って、シルヴァンが背を向ける。立ち止まったままの二人の騎士の元へ戻る様子を見て、エマもくるりと背を向けた。
咄嗟に隠れた時と同じように、塀をひらりと飛び越えてから渡り廊下へ戻る。
立て掛けたままの箒を再び手に取りながら、そう言えば、と思いエマは動きを止めた。
(……あの人、私に対する態度がずっと丁寧だった。黒髪の使用人なんて、騎士に比べたらずっと低い立場なのに)
エマのシルヴァンに対する印象は、“実力を隠す気の抜けない人”だったが、そこに“良い人かも”が加わる。
けれど、また会いたいとは思えなかった。
レオナールに加えて、シルヴァンも避けなくてはと思いながら、エマは猛スピードで掃除を終わらせた。
***
本日の全ての仕事を終えたエマは、やたらと疲れていた。
着替える気力も無く、ルシアが心配そうに声を掛けてくる。
「……エマ、大丈夫?今日ってそんなにキツイ場所だったの?」
「ううん、なんていうか……心労というか……」
「心労?……もしかして、嫌がらせとか?」
嫌がらせという言葉に、エマは今朝の門番の態度を思い出す。門番にはよくああいう態度を取られるが、城内でまだそこまでの被害に遭ったことはない。
「ルシアもそうだけど、この城で働く人たちって、髪色の違いに寛大よね?」
「え?……あ、そっかエマは知らないのね。それはレオナール殿下のおかげなのよ」
「……レオナール殿下の?」
エプロンを外しながらエマは目を瞬く。既に着替え終えたルシアは、髪を解きながら頷いた。
「そうそう。レオナール殿下は髪色で差別はしないで、城のみんなに平等に仕事を与えてくれるの。殿下の態度のおかげで、城の中は外よりも圧倒的に差別はないわ。……もちろん、殿下の考えに反発する人もいるけどね」
「だから……面接のとき、私は髪色に対して何も言われなかったのね」
エマは一つの疑問が解決すると共に、言い表せない感情の波に襲われていた。
髪色の差別の撤廃。それは、エマが前世で目指していたことだった。
志半ばで終わってしまったことを、レオナールが引き続き働きかけてくれていることがとても嬉しかった。
(……やっぱり、会いたいな)
一度姿を見てしまったことで、レオナールに会いたいというエマの想いが増す。
そのためには早く次の計画段階に移りたいのだが、まずは使用人の中での立場を確立させなければならない。
まだまだ遠い道のりにため息を漏らしながら、エマはルシアと少し話をして城を出た。
そして城門へ向かう途中、背後から声を掛けられる。
「―――よお。待ってたぜ」
振り返ったエマは、そこに立っていた朝の門番の男を見た瞬間、思い切り顔を歪ませたのだった。




