9.小さな決意
宣言通り、レオナールはエマを決して逃がしてくれようとはしなかった。
どこへ行こうとしてもついてくる。
それも、うざったいほどに話し掛けながらついてくる。
畑仕事をしようとエマが外へ出れば、やはり汚れるのもお構いなしにレオナールはついてきた。
「エマ、この葉は何の野菜なんだ?」
「……それは芋です」
「へえ、これが。野菜にとても詳しくなりましたねエマリスさま。苦手なものが多かったのに……」
「そ、それは前世の話です。というか……」
楽しそうに芋の葉っぱを触るレオナールを見ながら、エマはどうしても気になったことを口にした。
「……先ほどから、エマとエマリス、敬語のあるなしが混ざってますけど」
「はは、バレました?……俺にとってはやはり、あなたは前世でお仕えしていたエマリスさまなんですよね」
「こんなに……見た目が違うのに?」
じっと目を見てエマがそう訊けば、レオナールは瞬きを繰り返す。
「ああ、見た目……そうですね。でも、根っこの部分は何も変わらない、俺の敬愛するエマリスさまですよ」
「……」
優しく笑いかけられ、エマの心臓が大きく跳ねる。
パッと視線を逸らし、畑の雑草をしゃがんで抜き始めたエマの隣に、レオナールが何の躊躇いもなく座った。
「ちょっ……殿下?お召し物が……」
「懐かしいですね。よくエマリスさまが落ち込んでしゃがみこんでいるとき、俺はこうやって隣に座るんです」
「……っ」
「それで、“大丈夫になる呪文”を唱える」
レオナールの手のひらが、そっとエマの背中に触れた。そこから伝わってくる熱に、涙腺が緩みそうになってしまう。
護衛騎士の“レオ”はいつだって、しゃがみこむ“エマリス”を心から丸ごとすくい上げてくれていた。
「……王女のときに必死に身につけていた完璧な所作も。美しく力強い舞も。ただでは諦めないと、相手に向かい合う勇気も。昨日俺の目に映ったあなたは、紛れもなくエマリスさまでした」
だから、とレオナールが続ける。
「無理やり前世の自分を、閉じ込めようとしないでください。俺との思い出を……無かったことに、しないでください」
「そんなことっ……!」
エマは思わず顔を上げ、大きな声を出していた。自分自身の声に驚きながらも、レオナールの目を見て訴える。
「そんなこと、私だってしたくない!レオとの思い出を、エマリスとして過ごした日々を、無かったことになんて……!でもっ……、こんなっ……」
「……はい」
「……こんな……、どうして……」
昨夜散々泣き、もう枯れてしまったかと思っていた涙は、再び簡単に溢れ出した。
もうこれ以上、レオナールの前で不細工な顔を晒したくなかったはずなのに。
それでも、止められない。
レオナールの隣にいるだけで、エマは嫌というほど前世の思い出が蘇ってくるのだ。
それが楽しい思い出ほど、苦しくて悲しい気持ちになってしまう。
―――“エマリス”を庇って命を落とした“レオ”の、最後の姿を思い出してしまう。
言葉にできずに嗚咽を漏らすエマの背中を、レオナールはずっと擦ってくれている。
「……エマリスさま」
「……」
「エマ」
エマは自分の名前を呼ぶ声に、どう返事をすればいいのか分からなかった。
「なんですか?」なのか、「なに?」なのか。
エマは村娘であり“王女エマリス”で、レオナールは第二王子であり“護衛騎士レオ”でもある。
前世の記憶が残っているせいで、いろいろな思考が混ざり合ってぐちゃぐちゃになってしまう。
「……あなたがエマでありたいと、俺にレオナールであって欲しいと願うなら……俺はあなたの生活を、これ以上乱すのはやめよう」
「……え……、」
突然そう言ってレオナールは立ち上がった。
見上げれば、切なげに揺れる瞳がエマに向けられている。
「あなたが、俺との思い出を大切にしてくれるなら、それだけで嬉しい。……第二王子として、あなたにこの国に生まれて良かったと思ってもらえるように……全力を尽くすから、遠くから見守っていて欲しい」
「で……ん、か……?」
突き放すような言葉に、エマは分かりやすく動揺を滲ませた声を出す。
最初に突き放そうとしたのは自分のくせに、レオナールから離れて行こうとされると寂しいと感じてしまっていた。
レオナールは微笑んでから、躊躇いなくエマに背を向ける。あれほどつきまとっていたくせに、やけにアッサリとした別れだった。
「……」
これでいいんだと、エマは自分に言い聞かせる。
ただの平民の娘である自分。加えて黒に近い髪色では、本来ならレオナールに近付くことさえ許されない。
けれど、そこでふと気付いてしまった。
(でも……でも。レオナール殿下は……レオは一度だって、髪色を理由に私を遠ざけようとした?)
「―――待って!」
エマは叫ぶようにレオナールを呼び止めていた。その足がピタリと止まる。
これが、最後のチャンスだった。
前世で素直になれなかった後悔を、やり直すチャンスだ。
「私は……私は一度だって、あなたを忘れたことはないわ。護衛騎士レオ。あなたの隣が、私の居場所だった」
庶民くさいと笑われた、第三王女エマリス。
両親から見放され、兄弟たちからバカにされていたエマリスは、護衛騎士であるレオの存在に救われていた。
「あなたが私を庇い、命を落とした姿を思い出す度に、心が痛むの。……こうしてまた、導かれるようにあなたに会えたことは嬉しい。でも、同時にとても怖いの」
平民のエマがそばにいたいと願えば、周囲はそれを絶対に許さない。
エマ自身に矛先が向かうなら別にいい。けれど、その矛先はきっとレオナールにも向けられてしまう。
そこでまた、前世のように謀反が起きてしまったら。
また同じように、レオナールを喪ってしまったら。
そう考えるだけで、エマは動けなくなってしまうのだ。
「……私はもう、あなたと引き裂かれるのは嫌。でも、このままもう二度と会えないのも嫌。どうしたらいいのか分からないのーーーレオ」
エマはスカートの裾をぎゅっと掴み、心の内を言葉にして投げ掛けた。
このまま何も答えてもらえなかったら、本当にこれで終わりにしなくてはと、エマはそう思った。
けれど、レオナールは振り返ってくれる。
そして、その悪戯な笑顔を見た瞬間、エマは全てを悟った。
(―――やられた……!!)
固まるエマに向かって、レオナールが近付いてくる。いや、レオナールではなく、この笑みは間違いなく“レオ”のものだった。
目の前で立ち止まったレオナールは、エマの鼻先をぐにっと摘んだ。
「ようやく本音を話してくれましたね、エマリスさま?」
「……ハメたわねっ……」
「ははっ。俺は知ってるんですよ、エマリスさま。あなたは頑固だけど、俺に弱い。俺が諦めるフリをして去ろうとすれば……あなたは絶対、引き止めてくれるんです」
自信満々に、どこか嬉しそうに、レオナールがそう言った。エマの鼻から手を離すと、その手でサラリと髪を掬う。
「この髪色は、前世の俺のものと似ていますね。……そして、そのせいで疎まれていた俺を、あなたはいつも庇ってくれていた」
「……それ、は……」
「俺はそれが、とても嬉しかった。だから今度は、俺の番ですよ」
レオナールが、掬ったエマの髪にそっとキスを落とす。
碧い瞳に見つめられ、やはりこの男からは逃れられないのだと、エマはそう思った。
「あなたの全てを、俺が護りましょう。前世で護ることができなかったエマリスさまも、こうして出逢うことができた―――エマ、あなたも」
いつだって、そうだった。
“レオ”は“エマリス”の一歩後ろを歩きながら、常に一歩前を見てくれている、そんな人だった。
どんなときも味方で、背中を押してくれた優しい人だ。
(そんなあなただから、私は信じられた。……そんなあなただから、私は―――恋をした)
エマは深く息を吐き出してから、ちら、と視線を腰の辺りへ移す。
「……レオ、刺された傷はどう?」
「え?ああ……動くと痛むくらいです」
「そう……じゃあ今度は、私があなたを護る盾となるわ」
目を見開いたレオナールに向かって、エマは微笑んだ。
「前世でも、今世でも、私を庇って……護ってくれて、ありがとう。これからはエマとして……レオナール殿下のそばにいられる道を、私なりに目指してもいいですか?」
“エマリス”としてではなく、エマとして。
今世でも、レオナールと共に歩むことができる道を、エマは目指すことに決めた。
追い掛けて伸ばしてくれた手を、掴むことに決めたのた。
「……エマ!ははっ、もちろんだ!」
レオナールは満面の笑みでエマをぎゅうぎゅうと抱きしめてきた。
エマは慌ててその背中をバシバシと叩く。少しだけ力が強くなったかもしれないが、それくらいでないときっと伝わらない。
「ちょっと!これは誰かに見られたら一大事ですから!早く離れて!」
「だって、前世だとただの騎士が王女を抱きしめたら首が飛ぶだろ?でも王子が平民の女性を抱きしめても、首は飛ばない」
「首は飛ばないだろうけど王子としての尊厳が飛ぶと思いますので!」
「―――全くもってその通りですね、殿下」
突然、誰かの冷ややかな声が聞こえてきた。
え、と思ったエマの耳元で、レオナールが「うわ、アンリ」と嫌そうに名前を呼ぶ。
アンリは、レオナールの側近の一人だ。
エマが慌てて突き飛ばすように離れると、レオナールから名残惜しそうな目を向けられる。
「……タイミング悪すぎだろ」
「この時間に迎えに来るよう仰ったのは殿下ですので。……それで、どうやら話はまとまったようですが」
「ああ、もちろん最初に俺が言った通りだ」
ん?と眉を寄せるエマに向かって、レオナールはまた悪戯に笑う。
「タイムリミットは、アンリが迎えに来るまでの半日。それまでに俺は、あなたを……絶対に王都へ連れて行ける状態にすると、宣言していたんだ」
「……な……」
「逃がしませんよ、って言ったろ?」
何度も思ったことだった。エマは結局、この男から逃れることはできないのだ。
けれどもう、自分からは逃げないとエマはそう決めた。
「望むところです。レオナール殿下」
負けるものか、と挑戦的に笑ってみせれば、レオナールはどこか嬉しそうにしている。
エマは久しぶりに晴れ晴れとした気持ちで、自然と笑うことができていた。




