舞踏会の乳母
平民の中にも貧富の差が大きいように、貴族とひとまとめにされても千差万別。我が家のような貧乏子爵家は、底辺と言っていいだろう。領地は無く、父は、寄り親の侯爵家の事務方として王都屋敷で働いている。
家族は母と長女のわたし、弟が二人と、妹が一人。貴族と平民の住み分けるラインぎりぎりに建つ、小さな借家暮らしだ。子供が四人もいると生活費も教育費も馬鹿にならず、なかなかに慎ましい毎日。
それでは縁談もままならないだろうと、夜会に出られるようになった十五の歳、母の姉である伯母がわたしに手を差し伸べてくれた。
伯母の嫁ぎ先は裕福な伯爵家。わたしは、とにかく可能な限り伯母について歩き、貴族社会と言うものを目にし、マナーを見習い、婚活に勤しむ予定であった。
ところが、伯爵領で伯母にいろいろ教わり始めた最初のシーズン。領では悪質な風邪が流行り、王都の夜会へ行くどころの騒ぎではなくなってしまった。幸いにも罹患しなかったわたしは倒れたメイドの代わりに働いて、たいそう感謝された。
わたしとしてもタダ飯喰らいでは肩身が狭かったので、その後も淑女教育の合間にメイド仕事もさせてもらうことにした。伯爵家の使用人はレベルが高く、習うべきことがたくさんある。子爵家の令嬢がメイドになるのはおかしいことではないし、嫁ぎ先が見つからなければ、仕事先を紹介してもらえるかもしれない。
一年目は夜会に出られなかったものの、わたしは未来への手掛かりを得て、かなり安堵していたのである。
そして迎えた次のシーズン。前年のリベンジとばかり、ドレスも小物も、伯母がしっかりと揃えてくれた。しかし何の因果か、王都に出発する直前に、隣国の貴族に嫁いでいた従姉が夫が浮気したと戻ってきたのである。
従姉は華やかな美女である。隣国の侯爵家嫡男に見初められ、今では侯爵夫人。壮麗な馬車に乗り、護衛も侍女も何人も従えて、まるで凱旋の様相。
そこは流石、裕福な伯爵家。全ての人員を敷地内の離れに収容できた。だが、後はご自由にとはいかない。従姉の夫である侯爵が迎えに来てすったもんだした挙句、よりを戻すまで領地から離れるわけに行かなかった。
全てが丸く収まったのは、急いで王都へ向かっても出られる夜会はひとつくらい、というタイミング。当然、諦めるしかなく、こうして二年目も夜会に出そびれた。
これはもしや三年目も何かが起こって、結局メイドコースか、と思われた今回。わたしは何事も無く、王都の夜会に参加していた。
伯母からは社交もダンスも、しっかり教えてもらった。しかし、この二年間の経験から言って、わたしの婚活がうまく行く気はまったくしない。というわけで期待が無いので、妙な緊張はせずに済んでいた。
そんな中。
「あの、よろしかったら踊っていただけますか?」
なんということでしょう! 一人のご令息からお誘いを受けました。
「喜んで」
努めて穏やかに返事をし、エスコートを受ける。
「今日が初めての夜会で緊張してしまって……」
踊りながら令息が呟く。
「大丈夫ですよ。初めての方が多いでしょうし。
少々の失敗は、よい経験になりますでしょう?」
「……はい」
少しだけ、令息の緊張が解れたようだ。
「済みません、僕みたいなのと踊っても楽しくないですよね」
「そんなことありませんわ」
なるべく穏やかな笑顔を作る。わたしもデビューです、とは言わないでおく。
「実は、ダンスを誘いたいご令嬢がいるのですけど、どうしても言い出せなくて」
「なるほど。それで、度胸付けにわたしを選んでくださった、と」
初めて参加した夜会会場には初々しい令息と令嬢がたくさんいる。そう、初々しい皆さまが、だ。婚活周回遅れのわたしは、ギリギリ行き遅れではないというだけ。彼、彼女らと同じスタートラインに立ってる、なんて実感するほど世間知らずではない。
デビューしたての十五歳くらいから見たら、十八のわたしはずいぶん年上に見えるのではないだろうか。おそらく夜会慣れした年上のお姉さんぐらいな位置づけだろう。しかも、身分もそれほど高そうではなく、都合のいい……いや、簡単に誘えそうな? 変な意味ではないが、安心感のある存在だったのかもしれない。
舞踏会の乳母? あら、なんかぴったり来たけどなんだかな。
「わぁ、そんなつもりじゃなかったけど、気を悪くされたらごめんなさい」
このご令息は正直でいい子だ。これから社交界で揉まれても、なるべく、真っすぐでいて欲しい。
「そのご令嬢も、デビューのお年頃?」
「ええ、同い年で……幼馴染なんです」
「貴方が不安なように、その方もデビューで緊張していらっしゃるかも。
幼馴染なら、緊張を解してあげるつもりで、お誘いしたらどうでしょう?」
「彼女も……不安?」
令息はダンスしながらも思考を巡らせているようだった。
「僕は、自分のことばかりでした。
そうだ、あの子は少し気の小さい所もあるし、僕よりずっと不安なはず」
「では、この夜会で貴方が騎士になって守ってあげないと」
「本当です。自分のことを心配してる場合じゃなかった」
丁度、一曲が終わった。
「ありがとうございました。あの、お名前を伺っても?」
「いいえ、今、貴方が口にすべきなのは大切な彼女の名前でしょう?」
「はい!」
令息は元気よく、想い人のもとへ駆けて行く。たった三歳しか違わない彼だが眩しい。
「あらまあ、貴女、やるじゃない」
「はい?」
飲み物をもらって休んでいると、伯母に声をかけられた。
「今、貴女が踊った相手、侯爵家のご嫡男よ。
年下だけど、無くも無いわね」
いや、伯爵家で、やっとこマナーを教わっただけのわたしが侯爵家へ嫁ぐって、それは無いから。
「あー、でもあの方、公爵家の姫君と踊られるようね。
あちらが本命なのかしら?」
わたしもそちらを見た。初々しいカップルは二人とも、とても幸せそうに踊っている。
「貴女、ちゃんと釣り合いそうな方と踊らないと」
伯母が小言を言うが、そう簡単ではない。そもそも慣れないわたしが、知らない方をダンスに誘うなんて無理なのだ。
聞こえないふりで視線を巡らせた。丁度、入り口の扉に目を向けた時のこと。なんと、見知った顔を見つけたのである。
まさかと思いながら、心臓がドキリと跳ねた。
「あらあら、まあまあ」
同じく、彼に気付いた伯母も目を丸くする。
「ハスケル伯爵夫人、オードリー嬢、お久しぶりでございます」
「どうなさったの? どうしてここへ?」
「実は……」
彼の名はセレスタン。隣国の騎士である。実家は伯爵家と聞いていた。昨年、従姉を迎えに来た侯爵に、護衛としてついて来た。
あの時、すでに伯爵家はキャパオーバー。さすがに侯爵は本館の客間に収まったものの、その護衛たちの部屋までは用意できなかった。そこは騎士であるから、いざとなったら野営の心得がある。結果、芝生の上に幾張りかのテントが並んだ。
お客が増えれば使用人の仕事も増える。わたしも出来る限りメイドとして働いた。食事を運んだり、洗濯の手伝いをしたり。
「敵がいない戦いだな、これは」
ふと、セレスタン様が呟いたのを耳にした。
「確かに。……あ、済みません」
その時、近くにいたわたしは反射的に返事をしていた。
「いいえ、同意してもらえて、少し気が楽になりました」
手伝いに出向いた時、彼とは何気なく一言二言話すことがあった。その時はまだ、ただのメイドだと思われていたはずなのに、差別的な言葉を受けたことが無い。彼は、メイドの当たり前の仕事にも、お礼を言ってくれるような人だった。
雑談をするようになると当然、現状も話題になる。
彼の仕える侯爵夫妻は絶賛大モメ中。いつ決着がつくかなんて誰にもわからないのだ。突然、明日帰ると言い出すこともあり得る。準備を怠ることは出来ず、妙な緊張状態が続く。仕える身からすれば迷惑千万。
メイドの仕事をしていると、使用人たちの本音もたまに聞くことがあった。仲間のメイドが、以前働いていた屋敷では主人の気分次第で予定が変わってしまうので、とても困ったことがある、と言っていた。主人が曖昧なせいで使用人が困るのは当たり前のこと。わたしは、ごねまくって態度を決めない従姉に腹が立ってきた。
「伯母様、相談があるのですけれど」
わたしは周りを巻き込んで、解決を目指すことにした。首謀者がわたしなら、追い出されても大丈夫。いざとなったら、伯母に紹介状をもらおう。
離れに引きこもって、夫に会おうとしない従姉に『侯爵様はお出かけ中だ』と言って、庭の東屋へ誘う。
「離縁するの?」
お茶を飲みながら、単刀直入に訊いてみた。
「ここは逃げ場にはなるけど、帰ってくるわけにはいかないし、離縁は無理かしらね」
「じゃあ、なんでごねてるの?」
「だって、浮気よ、浮気!」
「愛してるから、許せない?」
「……その通りよ」
子供みたいに膨れる従姉。
「本当かい?」
「……あなた」
そこへタイミングよく従姉の夫、侯爵様が入って来る。後ろには、セレスタン様。もちろん、こうなるように皆で仕組んだ。
「私が軽率だった。だが、君を一番に愛しているのは本当だ。
それだけは信じてくれ」
「それは、信じてますけれど」
「帰って来てくれないだろうか?」
「……わかりました」
侯爵様は、二度と浮気はしないとは言っていない。従姉もそれを求めていない。二人には、まだ子供はいなかったし、この先、妾を迎えなければいけない可能性もある。
出来ない約束はしない。それはむしろ誠実な態度に見えた。
「気安く接して申し訳ありませんでした。お身内の方だとは思わず」
「いえ、ただの居候ですから、お気になさらず」
作戦に協力してくれたセレスタン様は、出発前に挨拶に来てくれた。
「それから感謝を。貴女がご夫妻の背中を押してくださったおかげで、我々は帰途につけます。ありがとうございました」
「道中のご無事をお祈り申し上げます」
そうして、彼とは別れた。
「……国に帰った後、年齢のこともあって、両親から結婚をせっつかれまして。いくつか釣り書きも用意されていましたが、どうにも貴女のことが思い出されて踏み切れず」
「まあまあ、細かいお話は後でも出来るでしょう。
一曲踊ってきたら?」
呆けている間に、伯母にダンスフロアへ追いやられてしまった。
「私は跡継ぎではないので婚姻したとしても、このまま侯爵家の騎士として勤めるのです」
「……わたしもメイドとして雇ってもらえないかしら?」
「侯爵夫人は侍女として雇いたいと仰っていましたよ」
「侍女が務まるかしら?」
「相談相手が欲しいのでしょうね。
高位貴族の夫人と言うのは、意外と孤独なのではないでしょうか」
「隣国は憧れの国ですし、行ってみたいとは思います」
「実は、今回のことは出張扱いにすると言っていただいていまして」
「出張?」
「もし、貴女を口説き落とせなかったら、自腹で払えと。
しばらく、タダ働きになります」
「まあ」
ダンスの最中なのに笑ってしまった。彼と話すのが楽しくて、ドキドキは鳴りを潜めたようだ。
「笑い事では無いんですが」
と言いつつ、彼も笑顔。
冷静に思い返してみれば、彼が困っているのを放っておけなくて、従姉夫婦の背中を押したようなもの。初めて彼と話した時から、どこか肩入れしていたような気もする。
三曲を踊る間に、わたしはすっかり隣国へ行く決心を固めていた。
翌日、ゆっくり話を聞いてみると、侯爵夫妻は例の騒動を大いに反省したようで、騎士や使用人たちに有休を大盤振る舞いしたのだとか。一斉に休みを取るわけにはいかず、セレスタン様の順番が来たのは今だったらしい。
……それとも、夜会シーズンに合わせて、従姉が企んだのか。
二年越しの夜会には、一度出席しただけで終わった。関係各位に連絡し、手続し、彼の帰国に合わせて一緒に隣国へ旅立つ。
わたしの両親も同意してくれて一応の体裁は整ったが、正式な婚姻は隣国に着いてからだ。彼の休みはまだ残っていたので、少し遠回りをしてハネムーンを楽しんだ。
「……申し開きのしようもございません」
「何を言っているの? お目出度いことよ!
どーんと構えて立派な赤ちゃんをお産みなさい」
なんと、婚姻前にハネムーンベビーをこさえたわたしは、しばらくすると悪阻に襲われた。働きに来たはずなのに、絶賛妊娠中のためお客様待遇となってしまったのだ。
そして、無事出産が済んだ頃、従姉にも第一子が宿った。
「しっかり子育てに慣れてね」
自分のお腹をさすりながら、わたしに命じる従姉。
「ええ、頑張ります」
子育て中は、いまだお客様待遇のわたしだが、仕事は決まった。従姉が産む子供の乳母である。舞踏会の乳母から、本物の乳母になるのだ。
幸い侯爵家はお金持ちで使用人には不自由していないから、手伝ってくれる人も沢山いる。わたしの妊娠から出産、そして乳児の世話は、従姉と生まれてくる子供のための予行演習には丁度良い。執事長にもメイド長にも、大変感謝された。
「オードリー、様子はどうだい?」
セレスタン様は休憩中にちょっとでも余裕があれば覗きに来て、うごうごする娘を、蕩けそうな顔で見つめる。
「あなた、騎士の威厳がまるでありませんわ」
「愛する君と、可愛い娘の前では許しておくれ」
「まったく、仕方のないお父様ね」
「う~」
「ほら、アリスも同意してますよ」
「いや、今のは、パパはにやけててもカッコいいって意味だろう」
夫につける薬は無いけれど、わたしは幸せだ。