噂の二人1
死神に眠りはない。昼間にはヴィオレッタの『耳』として、人に気付かれないように、あるいは人の姿を取って人々の話を集めているが、人の寝静まる夜半過ぎになると、彼は彼自身のために外を彷徨う。夜はじっと蹲って過ごすには長すぎるので。
闇よりもさらに濃い闇が宮殿を闊歩する。稀に人ならざる者の気配に敏感な者が死神を亡霊と間違えて、悲鳴を上げることもある。――亡霊ならば、すでに宮殿のそこかしこにいるのに。
死神は生者に死を与える存在であり、死を与えた後の魂の行方など知らない。ただ、魂が天に召されず、地上に留まることがあるのは知っている。何十年かのち、その魂はどこへともなく去っていくのだ。
死神の影は鏡張りの廊下へ辿り着く。そこかしこに何十もの鏡を取り付けた廊下で、昼間には大勢の人々がにぎわい、会談する華やかな場所でもあった。深夜には照明の蝋燭も落とされて、しっかり磨かれた鏡たちが不気味に光っている。
ここで彼は立ち止まった。傍らには、柱についた大きな姿見がある。コツコツ、と鏡面をノックする。
『ちっ、もうばれちまったか……』
もうひとつ、影が鏡から顕われた。影は形を変え、死神よりも若い青年の姿をとる。口元が楽しそうに歪んでいるが、やはり顔色が青白く、生気の感じられない青年だった。
『やあ、兄弟。前会ってから、太陽と月は何万回と天を巡ったのだろうねえ。久しぶりに公国まで来てみたら、こんなところで兄弟と出会えるとは幸運だね』
彼は別の死神だった。どこから来て、いつから死神をしているのかはわからない。死神として地上を彷徨ううちに、何度かかち合うことがあった。それ以上でも以下でもない。彼はいつも死神のことを「兄弟」と呼び、馴れ馴れしい態度を取るが、死神自身は彼を好ましく思わなかった。
『……宮殿にいた亡霊が姿を隠している。おまえを怯えてのことだ。必要もないのに、亡者をいたぶっていたのだろう』
『違うぜ? だれにも相手にされていなかったから、俺様が遊んでやっているんだよ。むしゃくしゃした時に殴ってやると爽快だしな』
くくっ、ともう一人の死神は悪びれもせずに笑い、次に死神の顔をにやにやと眺めながら、
『兄弟が受肉するのを見るのは初めてだなあ。ええ? えらい男前じゃないかよ。むかつくお貴族様の顔をなさっておられる。おお、怖い。睨むな睨むな……』
相手はおどけてみせる。
『何をしに来た。……宮廷で何かするつもりか』
『そんなもの。元々、この辺は俺様の縄張りだぜ? よその死神が来たら気になっちまうだろう。とはいえ、他のやつならともかく、あんたは別に許してやってもいい。だって、面白いだろう、公国の宮廷に貴族として死神が紛れているなんてさ……。今晩は先輩への挨拶さ』
死神が黙っていると、相手はそれをつまらないと思ったのか。
『ヴィオレッタ』
そう、呟く。けけけ、と嘲笑った。
『なるほど、あんたの弱みはそれか! 淡々と死を刈り取ってきた冷酷な死神は、大公の愛妾の奴隷に成り下がったのだな! 様子を見ていて、すぐにわかったぜ! 『お気に入り』だってな! ああ、すばらしい! まるで本物の人間みたいに怒るあんたを見られるなんて。俄然、興味が湧いてきたぞ』
それで、と青年は表情をかき消した。
『いつ、狩るんだい? 契約したんだろう? 早く魂ごと食っちまえばいいのに。……あれは美味そうだ』
舌なめずりをする青年。彼は、本来、天に召されるはずの魂も、神の御許へ旅立つ前に掴んでむしゃむしゃと食う。腹が満たされるわけでもない、単に野蛮なだけの娯楽だ。
『俺様にも端っこぐらいは食わせてくれないかなあ。いいだろう? ええ?』
『……去れ』
死神が指を鳴らせば、相手は石のように固まった。くそっ、と彼が毒づく。
『足から動けねえや。あいかわらず神に愛されてやがる。……放してくれよお。頼むよお。あんたの邪魔なんてしないからさ』
青年はさも哀れそうに手をすり合わせて懇願する。死神としても、これ以上、彼をどうこうするつもりはなかった。そもそも死神が死神を罰することなどできないのだ。できるのは神のみである。
もう一度、指を鳴らした。相手はたたらを踏み、こらえきれずに尻餅をつく。死神を見上げる目は悔しさに溢れている。
死神は彼を見下ろし、念押しをする。
『あの子の邪魔をするようであれば、容赦しない……』
返事の代わりに、ちっ、という舌打ちが廊下に残った。
青年の姿は跡形もなく消えていた。
ヴィオレッタはコホン、と咳をした。近頃、咳が癖になっているらしく、蜂蜜を舐めてみたりしても効果はない。胸を少し押さえてから、気を取り直して作業に戻る。
ガチョウの羽ペンが紙の上を滑り、彼女が思い描くものを寸分違わず再現する。
彼女が描いているのは、陶磁器工房に提供するデザインのパターン帳だ。
最近、ヴィオレッタは大公がもらう年金を使い、小さな陶磁器工房を買収した。大公国は陶磁器の一大産地であるため、美しい陶磁器が宮廷でも数多くある。それらを眺めるうちに、ヴィオレッタも己で作ってみたくなったのだ。
「熱心だね」
傍らから声がかかったので、ヴィオレッタは飛び上がった。大公が部屋に入ってきたことにも気づかずに熱中していたのだ。
「少し見てもいいかね?」
「はい」
ヴィオレッタが紙の束を大公に差し出すと、彼はそれらをめくって丹念に観察した。
彼女が考えていたのは、レースのデザインを陶磁器に描く模様にも生かせないかということだった。ここ十年ほどで発明された白い陶磁器が世間を席捲し、大きな話題となっていたのだが、この白を生かす洗練されたデザインはそう多くないと、ヴィオレッタは常々思っていた。
そんな関心があったところに、廃業寸前の陶磁器工房の主が買収の話を持ちかけてきたのをきっかけにとんとん拍子に物事が決まり、公国の片隅にある小さな陶磁器工房がヴィオレッタ所有となり、彼女の実験の場となったのだった。
「モチーフがレースだから、繊細で緻密なデザインとなっているね。絵付けにも相当な技術が必要だろうが、人材はいるのかね」
「はい。あそこは元々、老練された職人が集まっております。以前に視察した際も確認しましたが、技術は見事なものでした。あと彼らに必要なものは、人から長く愛されるデザインだけなのです。……そちらはいかがでしょうか」
「素晴らしいよ」
大公ハインリヒは手放しで褒めた。
「今までにはない、新しいデザインだと思う。それに……あなたがどれだけレースと真剣に向き合っているかよくわかるよ」
「恐縮です。レースは、私の原点ですから」
幼い頃から、身近にレースがあった。レース職人たちが当然のようにたくさんいて、薄暗い部屋でレースを編む。作業場が薄暗いのは、レース糸が絹でできているため、褪色させないようにするためだ。レース職人は目を悪くする者が多かったが、達人と呼ばれる者たちは手先の感覚だけでも器用にレースの模様を作り出してみせたものだった。
幼いヴィオレッタは、滑らかに動く彼らの手先の器用さが不思議で仕方なく、邪険にされながらもよく眺めていたものだ。
自分自身でレース針を持ってからは、たとえ牢獄にあろうともレースを編んでいた。死神も、隣でよくヴィオレッタの手元を見ていた気もする。
手習いではなく、だれかのために初めてレースを編んだのは、その頃だ。死神のため、レースで作った腕輪を作った。あげる、とうきうきしながら死神の反応を待っていたのだが、死神の反応は薄いものだった。ああ、と頷いたきり、じっとレースの腕輪を見つめているだけだったから。じれったくなったヴィオレッタは、勝手に死神の腕に腕輪を巻き付けてやったけれど。
あれは今も死神は持っているのだろうか。
そう考えるヴィオレッタの心に隙間風が吹く。牢獄にいた頃の、気の置けない友人や家族のような関係も過去のことだ。大公の愛妾になると決めてから死神は大公に遠慮するようにヴィオレッタの傍を離れることも多くなっている。仕方のないことだと思う。けれども――。
「心配かね」
だしぬけにハインリヒが尋ねてきたので、ヴィオレッタは呆けた。とっさに「どのことでしょう」と言っていた。
「君の妹のことだよ」
「あ……」
ヴィオレッタの気分が沈む。たしかに、今思う最大の心配ごとはそのことだ。
宮廷では今、カルロッタが時の人になっている。カルロッタ夫婦は異国からの美しい客人として宮廷人の中でも到着当初から噂になっていたが、カルロッタが大公の愛妾ヴィオレッタの異母妹であったことがわかり、さらに耳目を集めていた。そのために今回の「事件」が予想よりも早く明るみになったと言える。
「私の耳にも入ってくるよ。こちらが聞かずとも勝手に臣下たちが話していく。あなたのところにも来るだろう」
ヴィオレッタは止まっていたレースを編む手を再開させてから小さく、はい、と答えた。
二人は毎日のように会うばかりでなく、親密そうに言葉を交わし、べったりとくっついている。庭園のガゼポで大っぴらに口づけを交わし、昼夜問わずに部屋に閉じこもって出てこないことも頻繁にあるという。
「噂があくまで噂であればよかったのですが。ヨハン様とカルロッタは極めて親密な仲にあるようです」
「勉学を放り出すほどに夢中になっているのはヨハンの方だね。初めての恋なのだろう」
大公はレースのデザイン図の束をきれいに整えてから机の上に戻した。手つきの丁寧さとは対照的に声に感情は籠っていない。彼は実の息子に対して冷淡だった。
「あれぐらいの年齢の恋はとても危うい。周囲が見えていない。きっとあれはそのうちカルロッタを娶りたいと言い出す」
「そんなまさか。カルロッタには夫のロレンツォ様がいるのに、ヨハン様と結婚することなどできません。いくらヨハン様でも常識外れな振る舞いはなさらないはず」
「あれは愚かだよ」
ハインリヒは皮肉めいた笑みを浮かべた。
「甘い逃げ道に飛び込むのが本性だ。自ら気づかないのであればどうしようもない」
「……ヨハン様を止めないのですか。閣下が諭してくださったら」
「逆効果だろうね。あなたならどうする?」
ヨハンはヴィオレッタを嫌っている。
とはいえ、放っておくこともできないのだった。
「カルロッタに関わることです。耳を傾けてくださらないとしても、あの方に警告だけはしなければならないと思っています」
大公は止めなかった。ただヴィオレッタを優しい眼で見つめたのだった。