死神と初恋2
死神は黒い影となって、ヴィオレッタの部屋の扉の隙間からするりと入り込む。彼女は明るい窓辺を背にして、硬い椅子の上に腰かけ、レースを編んでいた。幼い頃から何度も見て来た光景だ。手を動かさなければ落ち着かないの、と言う彼女の手には、いつもかも作りかけのレースがあった。彼女がラヴァン家から得たものがあるとすれば、それはレースの技術だった。彼女の妹はすぐに飽きて習得を諦めたと聞くが、姉の方は根気強く工房に通った。居心地の悪い本邸にいるよりその方が気楽だったこともあるが、幼いなりに将来に期待していなかったヴィオレッタは、レース職人として身を立てようと懸命だったのだ。本邸で召使いのように扱われようとも、大切なものを妹にいくつも奪われようとも、無実の罪で極寒の牢獄で凍えようとも――絶望を味わいながらもレースを編む手は止めなかった。
死神はレースを編むヴィオレッタを目にするたびに、彼女の『魔法』に魅入られてしまう。ひたむきに薄闇の中をひた走る小さな命は、眩いほどに尊い。
「どうしたの。何かあった?」
周囲にはだれもいなかったため、ヴィオレッタは貴族の姿になった死神と視線を合わせる。
『ヴィオレッタ……』
死神はとうに忘れていたはずの喉の渇きを覚えた。ラザロを離れて数年。ようやく彼女が望む舞台の用意が整ったというのに、彼はさらなる絶望をヴィオレッタに与えようとしている。
『厄介なことになりそうだ。――ヨハンがあのカルロッタに魅入られた』
彼女は編みかけのレースを針ごと膝の上から取り落とした。気の毒なほどにその身体が震えている。彼女と死神が互いの間を埋めるように近づいた。
「見たの?」
『ああ、二人は庭園で出会ったのだ』
「どうして止めてくれなかったの!」
ヴィオレッタの両拳が、死神の胸を叩く。
死神は彼女の怒りを静かに受け止めた。
『カルロッタの運命に死神が手を出すことはできない。彼女は、神に愛されている。あれは王を産む運命を持つ者だ』
カルロッタは神に祝福されている。『祝福』は善人のみに与えられるわけではないのだろう。
ヨハンとカルロッタが結ばれる。カルロッタはヨハンの子を生む。ヨハンは大公の後継者だ。そしてこの公国では、庶子が君主となることが禁じられていない……。
「本当に笑ってしまうほど、馬鹿馬鹿しい話ね。けれど、あり得ることだわ」
目を閉じた彼女は、何事かを思案しているようだった。
顔と顔が至近距離で近づいているから、彼女の呼吸音までわかった。死神は目が眩む思いだった。
「……たとえば仮に、私が大公陛下の子どもを身籠って、それが男の子だったら運命は変わるのかしら」
『ヴィオレッタ。それは君の運命ではない』
唐突な思いつきに思えた。未来が不確実でありながら、決断するには重い選択肢だ。彼はやんわりと否定しようとしたが、ヴィオレッタは食い下がった。
「でも、考える余地はあるわ。この公国で、カルロッタに力を持たせるわけにはいかない。だったら私が今以上に宮廷で存在感を示す必要があるでしょう? 駄目かもしれないけれど、大公陛下には包み隠さずお話ししてみても……」
『だめだっ!』
彼女の身体が硬直する。死神は内心、慌てた。我を忘れるなど、数百年ぶりのことだった。
『すまない……』
狼狽した死神はうろうろと漆黒の瞳を彷徨わせる。
そうね、とややあって、俯いたヴィオレッタがかすれた声で呟く。
「考えなしだった。自分の子どもを復讐の道具にするなんて。その子が可哀そうよね。ごめんなさい、死神」
ヴィオレッタは自分の顔を死神の肩にうずめた。
「子どもを都合よく扱いたくないの。お母さまと同じにはなりたくない……」
踊り子だったラヴァンの愛人は、ヴィオレッタをたてにラヴァン家から援助を引き出していた。それでいて、生まれた直後に正妻の子と実の子を取り換えたために、ヴィオレッタに冷たく当たっていたようだった。
ヴィオレッタは母親の醜い姿を幼いながらに覚えており、それだけに己と同じ境遇のような子が生まれるのを極端に恐れている。
死神はどうにかしてヴィオレッタを慰めてやりたかった。彼から見れば、あの母親とヴィオレッタはまったく違うのだ。彼の胸に当てたまま震えている彼女の拳をひとつひとつ解いてやって、温かく包み込んでやれたらどんなによいか。
けれども、死神には温もりがなく、寒々しい死を与える両手しか持っていない。彼女が欲している愛情を、死神では何一つ与えてやれないのだ。
「大丈夫よ、死神。今だけ。……今だけだから」
ヴィオレッタは嵐のような激情が収まるまで、死神に縋りついていた。
次の日。ヴィオレッタの足はラザロからの客人の滞在する部屋へ向いていた。
先触れはすでに昨日のうちに出してある。出した使いは「お待ちしております」という伝言を預かってきた。
宮殿内の廊下をしっかりとした足取りで進む彼女の背後には、つかず離れず、重々しい靴音も同じように響いていた。死神が彼女にだけわかるように知らせているのだ。
――きっと大丈夫。
数年ぶりにカルロッタに会っても、ヴィオレッタには何も変わるところはないのだ。気持ちから負けてどうするのだ。ここで怯んでいるようでは復讐を成し遂げられない。
今のヴィオレッタはいわば、宮廷の女主人だ。大公がその地位を与えてくれたから。
女主人として滞在中の外国の客人の相手をする。今まで何度かしてきたことであるのに、口の中が乾いて仕方ないほどに緊張するのは初めてのことだった。
蔦薔薇の重厚な彫刻が施された扉の前に立ち、震える目蓋を無理やり閉じて、また開く。震えなど気にしないふりをした。
「――扉を開けなさい」
傍らの侍女は速やかに命に従った。
陽光が指し込む明るく広い部屋の内部。その中央に、彼女が夫とともに立っていた。
彼女は、胸の前で祈るように手を組んでいる。綺麗に編み込まれた金色の髪。しっかり結い上げた髪型は既婚女性がするものだった。
ラザロの海のような青の瞳と視線がかち合う。
「おねえさま!」
ヴィオレッタは動けなかった。
あいもかわらず、彼女は圧倒的に美しかった。この宮廷でも彼女に懸想する男は後を絶たないと聞く。悪魔的な内面をすっかり覆い隠せてしまう、天使の美貌だった。
天使がぱっと顔を輝かせ、ヴィオレッタの元へぱたぱたと寄ってくる。人によっては子どもっぽいと言われる仕草だが、この異母妹のそれは「愛らしく可憐だ」と言われる。カルロッタのすることは何でも好意的にとられるのだ。ラヴァン夫妻がすっかりカルロッタに骨抜きにされたように。
無邪気にカルロッタは「異母姉」に抱き着いた。何も知らない者が見れば、数年ぶりの姉妹の再会だと思っただろう。
しかし、カルロッタはヴィオレッタの耳元に唇をそっと寄せて。
「おかえりなさい。わたくしのおもちゃ。やっと帰ってきてくれてうれしいわ」
カルロッタが一瞬、鬱蒼とした笑みを見せる。牢獄から出たヴィオレッタを待ち受けていた時と同じだ。
抱きすくめられたヴィオレッタは頭が真っ白になる思いだった。カルロッタに奪われたひとつひとつのものが脳裏をよぎり、絶望の影が心を覆い尽くすばかりに広がる。
思い切り叫んでしまいたかった。小柄な身体を突き飛ばし、逃げ出してしまいたかった。
けれどその時、パリン、と部屋の奥で大きな音が響いた。ヴィオレッタはカルロッタの魔法から解き放たれる。
サイドテーブルにあったガラスのペーパーウェイトが落ちた音だった。どこの客室にも置かれている繊細な作りのそれが、絨毯の上で粉々に割れたのだ。
「不思議ね。近くにだれもいないのに落ちるなんて。不吉だわ」
ちっともそうと思っていない声音でカルロッタは呟く。
だれが命じなくとも、宮廷の侍女たちは破片の片付けに動き出す。
ヴィオレッタは視界の端で死神の影が動いたことに気付いた。これはきっと死神の仕業だ。飲まれそうになる彼女を助けるために。
ヴィオレッタはカルロッタを振りほどくのをやめ、抱きしめ返した。
「カルロッタ。会えてうれしい! ああ、かわいい私の妹!」
あくまでもうれしそうな弾んだ声を出した。
「おねえさま……?」
さすがのカルロッタも戸惑っていたようだが、すぐにいつもの調子に戻り、「おねえさま、震えているではありませんか……。わたくしが怖いですか?」と微笑みながら訊ねてくる。
ヴィオレッタは、ええ、怖いわ、と素直に肯定した。
「けれど、怖いのが戦わない理由にはならないでしょう? ……カルロッタ、今度は私があなたの『運命』を奪ってやる番だから。覚悟なさい」
――ヴィオレッタは自分のものを奪ってきた妹へ宣戦布告をした。
死神は二人の姉妹が愛憎を激しく絡み合わせながら抱擁を交わすのを眺めている。死神の眼は、普通の人間とは違うものも見えていた。
彼女たち。父を同じくした姉妹の背中にはそれぞれ、うっすらと蝋燭が見えている。
人の寿命を示す、命の蝋燭だ。燃え尽きれば死ぬ。
カルロッタの蝋燭は細く長く、火の形もいっそ優美なぐらいであった。しかし、ヴィオレッタの蝋燭は、醜く溶けかけ、もう原形も留めていない。しかし、蝋燭の炎だけは赤々と激しく燃えているのだった。