死神と初恋1
その噂を耳にした時、ヴィオレッタは一瞬、己の耳が遠くなったかと思った。彼女は大公の仕事がひと段落した頃合いを見計らって、彼の執務室を訪れた。
「あの子が……ラザロから、カルロッタが来るのは本当なのですか」
「本当だ。耳が早いね」
ハインリヒは書類から目を上げると、あっけなく肯定した。彼に促されるがまま、応接用のソファーに腰かける。気の利いた侍従が紅茶と焼き菓子を用意し、別室に姿を消した。
部屋はハインリヒとヴィオレッタの二人きりになった。ハインリヒは彼女と差し向かいの席に腰を下ろした。
「ラザロの外交筋から正式な打診があった。公国の宮廷に滞在したいとのことだ。部屋はすでに用意させてある。彼らの目的は囚われのラヴァン夫妻を解放することだろう」
カルロッタが、公国へ来る。すなわちそれは……復讐の機会が訪れたということだ。想定よりも早く。
ヴィオレッタは不安だった。数年ぶりのカルロッタを前にして、自分は動じずにいられるだろうか。いいえ、できるはず……。私は、もう、奪われ続けた可哀そうな「ヴィオレッタ」ではない……。
ハインリヒは紅茶を口にしながらさりげなく、
「あなたの事情は以前にも聞いたが、あまり詳しく話したがらなかったね。あなたの姉妹はどういう人なんだい?」
ヴィオレッタは膝に視線を落とし、極力感情の籠もらない声を心がけた。
「昔、私は使用人の子を世話していたことがありました。母の使用人が忙しく、代わりに年の近かった私が面倒を見ていて……その子も私を慕ってくれていました。ただ、あの子は私が収監された後、井戸に落ちて死んだそうです。カルロッタが戯れにその子を井戸の傍で遊ばせるようにしていたとか。あの子は私に優しくしてくれる人、大事にしているものを奪ってきました。そういうことを好む子です」
「ヴィオレッタ……」
ハインリヒは彼女の手を取り、優しく握った。
「すまない。辛い話をさせてしまったね。あなたの気持ちはわかるつもりだ。私にも同じように思った者がいる。だからこそあなたの味方でいられると思う。協力できることは協力しよう」
「大公ハインリヒの復讐」。宮廷では有名な話だ。有名すぎて、もはや誰も彼には問いたださない。けれど、若いころの大公は肉親を激しく憎悪する出来事に直面し、その相手を――。
「どうか、カルロッタには気をつけてください。あの子に微笑まれた男性は、みんなあの子を好きになる」
「忠告は受け取ろう」
大公は穏やかに応じた。
公国の謁見の間。赤い絨毯とシャンデリアに彩られた重厚な空間で、ラザロの若夫婦が大公ハインリヒと謁見を果たした。ラヴァン・レースをふんだんに使ったピンクのドレスを身に纏ったカルロッタは、表向きは淑やかな妻として夫と大公の話に耳を傾け、微笑んでいる。カルロッタは、公国の宮廷にいてもなお、抜きんでて美しい大輪の花だった。
夫の方も美形で物腰も柔らかだ。妻を時折見つめる表情は、彼が心から伴侶を愛していることが伝わってくる。
ラザロの輝く海を引き連れてやってきたような夫婦だった。将来に一点の曇りもなく、幸福な人生を約束されていると見る者がみな思ったことだろう。
ロレンツォは公国の歓迎を感謝するとともに、遠回しにラヴァン夫妻の無事を確認する。大公は引き渡しの約束をしなかったものの、扱いを熟慮する素振りを見せた。
いつかのラヴァン夫妻の会見の際と同じように、謁見の間についたのぞき窓から若い夫妻を眺めていた。背後には死神が佇んでいた。
「昔と同じね」
ヴィオレッタは自嘲した。
「私はいつだって影からあの子を見てきた。同じ父を持ち、同じ日、同じラザロで生まれたのに」
「ヴィオレッタ、それは……」
死神が言いかけた言葉を手で制する。
「今は立場が変わったから。大丈夫よ、死神。そう簡単にやられたりしない。でしょう?」
「ああ。そうだな」
ヴィオレッタの瞳は、カルロッタの姿を捕らえて放さなかった。
謁見の後に大公に会いに行った。書類に目を通すハインリヒの表情をつぶさに観察するが、カルロッタに心奪われた様子もなく、ヴィオレッタへの態度にも変わったところはない。
「あの二人を見てどう思われましたか?」
ふむ、と大公は書類を机に置いて両手を組む。
「夫の方が人の好さそうな感じはあるね。生まれてから苦労を知らない、恵まれた境遇なのは推察できる。あなたの姉妹は愛らしいと思うよ。ああ、誤解しないでもらいたいのだが、客観的な話だ。私自身からしたら警戒すべき相手ではある。この間のローゼンタール夫人とはタイプが違うが、あれも母と同じ類の人間だ。深く付き合うのはごめんこうむる」
「そうでしたか。安心いたしました」
大公の目がちらりと彼女へ向き、「妹に会うか?」とおもむろに告げられた。
とっさのことに答えられなかった。
大公は頬杖をついて、ヴィオレッタを見上げた。
「あなたはよほど妹を恐れているようだね。私という人間をもう少し信用なさい。これでもあなたよりは長く生き、さまざまな人間を見て来たつもりだ。信頼できる相手は少ないが、あなたの忠告には耳を貸すよ」
大公はヴィオレッタを信用できる相手のひとりとして数えている。
彼女はハインリヒに深く感謝した。
「お言葉をありがたく受け取ります、陛下」
「なに。私も同じように家族への復讐をした身だ。後悔だけはしないように」
大公の実父、先代大公は、愛人と手を組んだ実母によって毒殺された。当時の若い大公は、初期の頃は実母の傀儡となりながらも、数年かけて執念で宿敵を追い詰めて、罪を暴いた。彼は愛人を処刑し、実母を生涯幽閉の身の上とした。実母は正気を失い、暗い小部屋で狂い死んだ。
大公とヴィオレッタ。ふたりを繋ぐのは、「身内へのほの暗い復讐心」だ。ヴィオレッタが彼に近づいたのは、似た境遇を持つ彼であれば彼女の身の上にも興味を持ち、復讐に協力してもらえるだろうと踏んだからだ。愛妾、という地位に収まったのはやや予想外だが、嬉しい誤算でもあった。彼は事情を知っている分、ヴィオレッタも気が楽だ。
「はい。私の復讐はこれからですから。……きっとうまくいくと信じていてください」
「信じよう」
大公の言葉はまるでお守りのように、ヴィオレッタの胸に響いた。
そうだ。きっとうまくいく。昔とは違うのだから。
――父は、昔から多くの学者と親交を持っていた。父自身が学問に興味を持ち、多忙な政務の合間を縫って、自ら教えを乞うていたからだ。偉大なる大公ハインリヒ。彼という人間を父に持った日から、ヨハンの苦難は始まった。ヨハンを取り巻く人間は、ヨハンに大公の面影を見出そうとしていたが、ヨハンはちっとも似ていなかったからだ。容姿も、体型も、男らしい父と比べると、病弱で痩身なヨハンは病的だと揶揄されることもあった。口さがない者は、父との血縁を疑う声を上げた。
ヨハンは母を知らない。父とは完全なる政略結婚で、他国の文化に馴染めず、ヨハンを生んですぐ故国へ去った。元から祖母が強引に勧めた縁談だった。祖父の暗殺の件で祖母を憎んでいた父は、母とも不仲だった。
ヨハンは父を尊敬している。あんなに堂々とした人間を他には知らない。あの男らしい身体は、ヨハンの憧れであり、その知性には敬服するものがあった。だが、ヨハンはこの先何十年経とうと、父のようにはなれない確信があった。そのことを思う時、ヨハンの心は暗く淀む。指先ひとつも動かせず、視線を上げるのも億劫になる。世界は暗闇の中にあるような、陰鬱な気持ちが襲ってくる。
その日もそうだった。父が寄こした学者の講義を受けたが、ちっとも理解できず、気分が悪い、頭が痛い、といつものように訴えて外に出た。
何度も同じ言い訳を聞かされてきた教師が片方の眉をあげ、呆れの色を表情に見せたのをヨハンは一生忘れないだろう。
「そこのあなた、どうかなさったのですか? 具合でも悪いのですか?」
庭園の隅の花壇でひっそりと蹲っていたヨハンに、頭上から声がかかった。
澄み切った竪琴の音色のように美しい声が、ヨハンの心の靄を吹き飛ばした気がした。彼女はヨハンを嘲ることなく、真摯に彼を心配しているように思えた。
「お医者様が必要ですか? 呼んできましょうか?」
その女性は、ヨハンの顔色を確認しようと腰を下ろす。ヨハンは視線から逃れたくて懸命に見ないようにした。彼は元々、若い女性が苦手だったからだ。父の計らいにより、ヨハンは踊りの相手にも、経験豊富な落ち着いた女性が用意されていたし、結婚相手を貪欲に品定めする視線の鋭さに耐えられなかった。
「構わないでください。私は大丈夫ですから……」
「本当にそうなのですか」
「はい」
ヨハンは女性が離れていくと思い、ほっと胸を撫でおろす。今度からはもっと違う場所に隠れていよう。
しかし。
ひやりとした感触を両頬に感じた。顔が強引に正面を向く。
「……ええ、確認しましたわ。素敵なお顔立ちを」
天使がいる。ヨハンは目が眩む思いがした。海のような瞳と、太陽を受けて輝きを放つ髪に、珊瑚の色をした小さな唇。ひとつひとつのパーツがたまらなくヨハンを魅了した。
ヨハンは何かを言いたくなって、懸命に言葉を考えた。
「はじめまして……」
ようやく出て来たのはあまりにも間抜けな台詞だが、その女性も「はじめまして」と返してくれた。
「あ、あなたは……?」
彼女はくすりと微笑んで、人差し指を唇に当てた。
「あまりにも素敵なお庭だったから内緒で来てしまって。どうかここで会ったことは御内密にお願いしますわ」
優雅なスカートの裾を摘まんで礼を取り、彼女は去った。
ヨハンは花や蝶のようにも思える彼女の後ろ姿を食い入るように見つめた。……心臓が、痛いほどに高鳴っていた。
『ああ、やはり。運命は……どうしてあの子に厳しくあるのだろうか』
庭園の木立の暗がりで、死神は小さく呟いた。