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疑惑の手紙3

 大公国とラザロの交渉は始終大公国のペースで進み、ラザロは大公国側に多額の賠償金を支払うほか、不利な条件をのまざるを得なかった。ヴィオレッタとラヴァン夫妻との面会のせいではないだろうが、ラザロを代表する使節団の代表があの父であるから、ラザロの交渉力も低いものだったのだろう。

 まったくもってひどかったのは、交渉が大詰めを迎えた頃合いにラザロの使節団が大公とヴィオレッタの元に直談判した時のことだ。

ヴィオレッタの自室で大公とくつろいでいたところ、使者の一人が約束もなしに尋ねてきた。彼はヴィオレッタとは面識がなく、初め、ヴィオレッタも怒りに燃えた相手がだれなのか知らなかった。大公が彼の名前を呼んだから彼女も彼がラザロの使節団でもっとも若い貴族の青年だということがわかったのだ。

彼は大公がいることに怯んだものの、ヴィオレッタに窮状を訴える唯一の機会と捉えたようだ。彼は本音をぶちまけることにしたようだ。


「アンクーウェイン夫人はラザロのご出身でしょう。なぜラザロのために動いてくださらないのですか。この講和条件ではラザロは虫の息になる。我が国が誇るラヴァン・レースに代表されたラザロ・レースも生産できなくなりますよ!」 

「なるほど。ラザロ・レースは大陸中のどこにいってももてはやされる。しかもその製法はラザロの工房で厳重に秘され、ラザロの保護下にある。ラザロの国力が下がれば、レースの質も落ちる、とそう言いたいのだね」


 大公が口を挟めば、若者は意気軒昂に頷く。彼は過去の輝かしいラザロしか見えていないのだろう。交易品に恵まれ、レース生産で巨万の富を築いた海洋国家都市ラザロ……。今、状況は変わりつつあるのに。


「レースの質が落ちるのは残念なことだ。しかし、仕方のないことだね。進歩を忘れた者はいずれ世の中にも置いて行かれるものだから」


 違う言葉を期待していた若者はむっとした顔をする。

 ヴィオレッタは手に持っていた扇子をぱらりと広げて、彼に見せた。


「これはラヴァン・レースではありませんか! やはり夫人も愛用されているのではございませんか……」


 彼の期待の目がヴィオレッタに向くが。


「これはラヴァン・レースではございません。ラヴァン・レースをもとに、わたくし自身の工房で制作されたものです」

「なんですと……! まさか、ラザロ以外にこれほど精緻な細工のレースが作れるはずがありません!」

「できますよ。わたくしは幼い頃にラヴァンの工房に出入りし、職人たちに混じってレースづくりを学びました。その製法をもとに新しいレースを作り上げたのです」

「彼女のレースは、ヴィオレッタ・レースと呼ばれている。素晴らしい出来であるから、公国でも積極的に売り出そうとしているところだ。いずれラザロ・レースで独占された市場にも新しい風が吹く」


 今度こそ、ラザロの使者の顔が蒼白になる。彼は恨みのこもった眼を大公の愛妾に向けた。


「あなたはラザロを裏切られたのですね! 秘された製法を持ち出し、公国に開示した! そればかりでなく、ラヴァン夫妻はあなたのせいで今も囚われている! あなたは売国奴だ! 地獄に堕ちるべきだ!」


 大公が労わるようにヴィオレッタの肩をそっと抱いた。心配しすぎだろう。これぐらいのことで動じるようでは復讐など成し遂げられるわけがない。


「……ラヴァンに頼らなければ成り立たない国家など滅ぶべきでしょう」


 ヴィオレッタはそれだけを言った。――ヴィオレッタの魂はとうに死神アンクーに売り払った。地獄に堕ちるのは、覚悟の上だ。

 この出来事の二日後、ラザロの使節団は国へ引き上げていった。ラヴァンの父と母はそのまま人質として宮廷に留め置かれた。彼らは宮廷の一室で軟禁された。敗戦国でありながら公国で非礼を行ったため、ラザロ側も何も言えなかったのだ。彼ら夫婦もいつかラザロへ帰れる機会があるだろうが、ヴィオレッタの知るところではない。



 夜、自室で少しだけ酒を嗜むうちに身体が熱くなってきた。バルコニーに出た。雲がかからない空に不吉な月が鮮やかに輝く。夜風に涼んでいるうちに、夜闇に紛れて自分の名を呼ばれた気がして振り返った。月の光も届かない暗がりに死神アンクーが立っていた。血の気のない顔が青白く浮かんでいる。

 彼はゆっくりとヴィオレッタに歩み寄ると、「どうする」と低い声で尋ねた。


「どうするって、なに?」

「復讐のことだ。おまえの父母はもう再起できまい。これで復讐を終えるか」

「まさか。まだカルロッタがいるじゃない」


 手すりに置いた葡萄酒のグラスを死神アンクーへ押しやった。


「あなたも呑む? これ、案外美味しいの」

「いただこう」


 彼はグラスを手に取り、葡萄酒を嚥下した。しばらく飲まないうちにずいぶんと味が進歩したようだ、などと感想を述べる彼は、一体、いつの時代の葡萄酒と比較したのだろうか。


「……ヴィオレッタ。君はまだやるんだな」

「わかっていたでしょう? 私の目的はカルロッタなの。ラヴァンの父と母のことも恨めしいけれど、あの子は特別。ラヴァン家で一番の悪意を持っていたのがあの子で、私のものをたくさん奪ってきたのもあの子だから。今度はあの子のすべてを奪うの」


 死神アンクーはそっとグラスを手すりに戻した。

昔から、彼の仕草にはどこか気品が漂っていた。死神アンクーとしての長い生の中では、王侯貴族として生活していた時期もあったのかもしれない。彼はヴィオレッタが思うよりも多くのものを目にしているはずだ。

彼はため息とともに薄い唇を開く。


「復讐しても、得るものはないぞ。ただ空しくなるだけだ。ヴィオレッタ、君の若く輝かしい時間を、もっと別のことに費やすべきではないか。今からでもいい。大公は君にもよくしてくれている」

「ええ。大公の温情はとてもありがたいものだわ。こんな私でも大事にしてくださるから、感謝しているの」

「大公は君を愛しているよ」

「わかっているわ。仮面愛妾として、与えられた役割はまっとうする」


 そう言うと、彼は困った顔になる。骸骨の頃と違い、今の方が表情豊かだ。宮廷の人は彼の陰気な顔を嫌っているが、彼女はむしろ彼が人の姿を取ってから人間らしくなったと思う。


「幸せになるんだ、ヴィオレッタ」

「私の死後に魂を奪う死神アンクーが、そんなことを言っていいの? 死神アンクーは本当に昔から私に甘いわね……」


 少し微笑んでから、闇に沈む庭園を見下ろした。


「使節団が来てから、ラザロの情報も得られたの。知ってる? カルロッタはラヴァン家を出たの。ラザロの元首ドージェの跡取りと結婚したんですって。たしか名前は……ロレンツォ。そんな名前だったわ」


 ラザロにいた同世代の少女で彼に夢中にならない子はいなかった。容姿端麗で礼儀正しく、学問も優秀な少年だった。女性にも優しかった。彼と道で出くわした少女は、その日の幸運を神に感謝し、胸をときめかせていたことだろう。


『君の名前を教えてくれないか。その仮面を取ってみせてくれ』


 少女たちの憧れだった少年とカルロッタが結婚したのだ。縁談が持ち上がっていたことは知っていたから、ごく自然な流れになっただけのことだ。


「……彼はきっといい人すぎるから、本当のカルロッタが見えていないのね」


 ヴィオレッタの皮肉は夜風に溶けていった。




 ラザロにある海辺の瀟洒な館にて。窓辺の椅子に腰かけて、白魚のような手で手紙を読む女がいた。ゆるやかに波打つ金髪を結い上げて、真珠と珊瑚の髪飾りをまぶした、まだ若く美しい女だ。彼女に微笑まれたら、胸を高鳴らす者は老若男女問わないだろう。

 その彼女の微笑みは、今、公国からの手紙に向けられていた。一通り読み終えると、彼女は小さなガラス製ボウルに手紙を放り込み、火打ち石でさっと火種を落とした。めらめらと紙は容易く燃えていく。


「お父様もお母様も失敗したのね。あのマリアさんに引き続いて……。お姉さまも手ごわくなったのかしら……?」


 炎を見つめながら呟いていると、閉じた扉の向こうでノックの音がした。「入るよ」と優しい声が響く。


「どうぞ」


 中身が燃え尽きたガラス製ボウルをさりげなく脇に避けているうちに、夫が慌てたように部屋に入ってきた。


「あらかた出立の準備が終わったようだよ。君も父上と母上が心配だろうが、もう少しの我慢だよ。きっとラザロへ連れて帰れるようにするから」

「ええ、ありがとう、ロレンツォ」


 いいんだ、と彼は妻を気遣うように首を振る。妻の頬を軽く撫でた。


「落ち込む顔を見せないでおくれ。僕は君の方が心配だ」

「ロレンツォ……」


 女は目を潤ませて、夫を見上げる。軽く口づけを交わした後、彼女は心細そうに笑う。


「少しやることを済ませてから参りますから、少しだけ待っていてください」

「わかったよ」


 夫が出ていった扉が閉まると、彼女はさりげなくハンカチーフで唇を拭い、紺碧の空を眺めていた。

窓辺でにゃあ、と鳴き声がしたものだから、彼女は窓を開け放つ。白い猫がするりと部屋に入り込み、やがて彼女の膝の上に陣取った。喉の下をくすぐってやると気持ちよさそうに喉を鳴らす。最近、館に出入りする子猫だった。おそらく野良猫。やせ細っていたところに餌をやったものだから、味を占めたのか、彼女の元へやってくるようになった。


「おまえはずいぶんとわたくしに懐いたわね。簡単に気を許してしまっていいのかしら? そのうち、だれかに騙されてしまうわね……」


 蜂蜜のように甘い声で囁きながら、彼女は笑みを深め、引き出しからクッキーを出してきて、子猫に差し出した。何の疑いを持つこともなく、子猫はクッキーを齧る。

 そのうち子猫の身体は震えだし、舌をだらりと出したまま動かなくなった。

 カルロッタは、白い毛並みを撫でながらも笑顔だった。


「猫は本当にかわいいわね。お姉さまもこんな単純だったらいいのに」


 部屋は海に面している。子猫の死骸は窓辺から投げ捨てた。

 そのまま何食わぬ顔で、待ちかねていた夫とともに館を出ていった。


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