疑惑の手紙2
ひそやかな噂話が聞こえてくる。ヴィオレッタにはすべて聞き取れないが、何かを話している。唇から悪意が漏れ出るのは、遠目からもわかりやすい。
彼らはヴィオレッタを見た途端に口を引き締め、回廊、庭、サロンを歩くヴィオレッタを観察していた。ヴィオレッタに関する何か悪い噂がばらまかれているのだとすぐに気づいた。それからは意識して『耳』を澄ませていた。どのような噂があるのだろうかと。
「内容を聞きたいか」
彼女の『耳』となっていた死神が尋ねてきたので、ヴィオレッタは頷いた。死神は人間の姿を取らない時、彼女のために宮廷内で情報収集をしていた。公国からすればよそ者の二人が宮廷でうまく立ち回れるための処世術だった。そのため大公の愛妾の夫、死神伯爵は神出鬼没で気味が悪いという噂もある。
死神は人々からは姿を隠したまま、廊下を歩く彼女にぴったりとついて話を続けた。
「君の過去のことだ……。ラザロの牢獄にいたことも広まっている」
「この国の貴族の方々からしたら言語道断でしょうね。投獄された理由についても噂になっているの?」
「……何か、恐ろしい罪をおかした、とだけ」
例のごとく陰鬱な雰囲気の死神だが、言葉の端々に憤りが垣間見えた。
人は「恐ろしい罪」を聞いただけで、それぞれの「恐ろしい罪」を思い浮かべ、身震いをするだろう。事実ではなく、勝手な想像が大きく膨らんでいく。
「人間はいつもそうだな。己に都合の良い事実しか見ない……」
「あの投獄は『冤罪』だとはされていないもの。傍から見たら私は前科者には違いないわ」
この先の人生、その烙印はいつもついて回る。すでに冤罪だと証明する手立ては失われていた。カルロッタが傷つけた人々は、ラヴァン家の力で綺麗に処理されているのだ。特に、ヴィオレッタが罪に問われた事件については念入りだ。死神の力でもってしても、とうに死んだ者は呼び戻せない。
「噂は急に広まったのよね。だれからはじまったのかしら。死神は知っている?」
死神が隣で頷く。
「誰かわかったから、君に噂の内容を知りたいかと尋ねたのだ。ほら、あの庭園をそぞろ歩く一団がいるだろう? 中心にいる女がそれだ」
死神が指さした先に五人の女性が集まっている。うち四人はかなり控えめな恰好をしているが、最後の一人はとても派手だ。袖口のレースは下品なぐらいに大きいし、髪飾りにしても、服装に合わないほどに華美だ。目元に付けほくろをつけていて、いかにも色っぽい女性を演出しようとしている。元の容姿は抜きんでているかもしれないが、大公の愛妾を目指していたのならもっとやりようはあっただろう。大公がもっとも苦手とする女性のタイプで迫ったところで気に入られるわけがない。大公が憎んでやまない、彼の母親がそういう人物だったから。
しかも彼女は自分ひとりを目立たせるために取り巻きの女性を地味に装わせているか、地味な女性を取り揃えていた。大公なら「小賢しいね」と笑顔で切り捨てていただろう。
「マリア・ローゼンタール夫人ね。彼女ならやりかねないわ。この間もわざと通路を塞いで私が通れないようにしていたもの。話しかけても知らんふりをするし。よほど私が気に入らないみたい」
先日、ラヴァン夫妻と対面した。これを聞きつけた彼女はヴィオレッタの身元を調べようと言う気になったのだろう。掘り返してみたら、思いも寄らない弱みを見つけ、さっそくつけ込んだのだろうと想像がつく。
「どうする?」
「これから陛下と本を読む約束があって。彼女たちのいる道を突っ切らないといけないから、あそこを通り過ぎるしかないわ。大丈夫でしょう、さすがに人前で手を出すような愚かな真似はしないでしょうし、噂ぐらいは気にしない」
「ヴィオレッタ……」
それは本当か、と顔を覗き込まれ、彼女は閉口した。……噂を気にしない、というのは嘘かもしれない。
「本当に大丈夫よ」
彼女は死神の腕を優しく叩き、庭園に出た。花と木が綺麗に刈り込まれた庭園には、薔薇のトンネルがある。そこをくぐっていくと、例のローゼンタール夫人とかちあった。傍らをすり抜ける際に、ちらっとローゼンタール夫人たちを見ると、ヴィオレッタの一挙手一投足を不愉快そうに眺めている。彼女はローゼンタール夫人を見返しながら(睨んではいない)あることに気付いて、足を止めた。
「ローゼンタール夫人」
「な、なによ」
話しかけられるとは思っていなかった夫人はとっさのことに喧嘩腰である。
ヴィオレッタは気にせずに夫人に近寄り、彼女の右袖を見た。
「袖のレースが少し破れていますね。このボビン・レースはイザク製のものでしょうが、ドレスにつけるには少々自己主張が激しすぎますから、使用されるのであれば、もう少し控えめの方がよろしいかと。私であれば少し手直しすることもできますが」
少々触らせていただいても、と言ってヴィオレッタは手を伸ばそうとすると、しばらく呆然としていたローゼンタール夫人がはっと気づいて彼女の手を払い、そのまま手をあげようとした。
「どうしたのかね」
凍り付いた空気を溶かせる清涼な風が吹く。ヴィオレッタの肩が何かにぶつかる。
死神はいつの間にか消え、代わりに大公ハインリヒが衛兵を連れて立っている。後ろには、なぜかラヴァン家の夫婦が衛兵に囲まれて青い顔をしていた。
ヴィオレッタの肩が、大公のたくましい身体に触れていた。
「へ、陛下……」
ローゼンタール夫人が慌ててヴィオレッタへ振り上げた手を背後へ隠し、すっとんきょうな声をあげる。取り巻きにしても同じようなものだった。
ヴィオレッタは大公に丁重な礼をして尋ねた。
「陛下はどうされましたか」
「宮廷であまり品のないことが起きたので、客人に特別なおもてなしをしているところだよ」
ヴィオレッタの両親が大公の言葉に震え上がる。大公はヴィオレッタの肩を抱き、優しく囁いた。
「そろそろ約束の時刻だから、もう少しで行けるから。待っていて」
「はい。お待ちしております」
ヴィオレッタは微笑んだ。ハインリヒは女嫌いであるが、仮面愛妾を仮面愛妾らしく、公の場では愛情たっぷりに接してくれる。うっかりすれば「愛されている」と勘違いしてしまうほどだ。
「陛下! その者は愛妾にふさわしくありませんわ! 牢獄に繋がれていた方ではありませんかっ!」
ローゼンタール夫人が真っ赤な顔で叫ぶ。我を忘れたらしい。
ヴィオレッタはハインリヒがどういう反応をするのか、黙って見守る。
「……詳しい事情はすでに知っていてね」
彼は冷静に返した。
「そこにはあなた方の知らない事情もあるのだ。それに愛妾選びはあくまで私の意思によるものだ。正式な妃でないのだから、だれを選ぼうが私の裁量の内だとは思わないのかね。私は、彼女をとても気に入っているよ」
大公は近衛の一人に、ローゼンタール夫人を丁重にお見送りしろ、と命じた。その意味するところは、宮廷への出入り禁止である。
どうして、と泣き叫ぶローゼンタール夫人が遠ざかる。ヴィオレッタはため息をついた。イザク製のレースをもっと近くで観察したかったと少し思ってしまった。
後にローゼンタール夫人は夫に連れ出され、夫の領地に閉じこもり、二度と宮廷には現れなかった。
またこの一件によりヴィオレッタに関する噂も鳴りを潜めたのである。大公の「お気に入り」を悪く言えない。