疑惑の手紙1
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朝、若い下僕が遠慮がちに手紙を差し出してきた。
「若奥様にぜひお伝えしたいことがあるとのことです」
一瞬はいぶかしむも、彼女は差出人の名を見、手紙の封を切る。便箋が何枚か入っていた。読んでいくうちに、驚きと混乱と歓喜が湧き上がる。
「なんてこと。やった……! やりましたわ!」
手紙は最近できた『友人』からのものだ。とても親切で、彼女の悩みに親身になってくれた。人に紹介されたのだが、直接会ったことはない。ラザロ在住の貴族の妻だと聞くが、詳しいことは彼女も知らないし、興味もない。ただ、相手が手紙に忍ばせてくれる、ラザロの話はとても興味深かった。
そして今まさに、手紙でもたらされた情報は、彼女に都合がよかった。これで大公の愛妾に収まったあの女――ヴィオレッタを追い落とすことができるだろう。
「あの女もこれで終わりね。かわいそうに……」
大公に捨てられ、涙を流す顔を思い浮かべ、彼女は歓喜のあまり身震いをした。
ラザロと大公国の間で、戦後処理が粛々と進められていく。ヴィオレッタが大公から漏れ聞いている限り、交渉は大公国に有利に進んでいるとのことだ。
「あなたの父上は交渉ごとには向いていないね。ラザロが人選を間違えたせいで、ラザロから多額の賠償金をもらえそうだ」
大公はどことなく嬉しそうにしていた。
「あなたにとって故郷だから、内心は複雑、というところかな」
「いいえ。あそこにはもう親しい人もおりませんし、良い思い出もありませんから」
ヴィオレッタは手慰みでレースを編みながら大公に答えた。彼女の手の中で白い花が形作られていく。
「だが、ラザロにいた人のことは気になるだろう。以前、あなたが望んだとおりに場は用意しておいた。東の鷲の間に彼らがいる。ラヴァン家当主夫妻に会っておいで」
「……はい。陛下、ありがとうございます」
彼女はレースを編む手を止めた。編み棒を横にのけ、立ち上がる。今日の装いは真紅のドレスだ。戦いに赴く色、激高の色だ。
「戦乙女の参戦だ」
詩を読み上げるようにハインリヒが言えば、ヴィオレッタは微笑んだ。
「陛下。行ってまいります」
彼女は胸の轟きとともに足を踏み出した。
『ヴィオレッタ……』
背後からは別の声が響く。姿を隠した死神だ。彼は彼女に付き従う従者だから、最期まで共にいてくれるだろう。
――すべてが終わったら、寿命でも魂でもぜんぶあげる。私は、死神にそれ以上に救われているもの。
背中を安心して預けられるのは、死神以外の他にいない。
ヴィオレッタが東の鷲の間に入れば、ラヴァンの当主夫妻が笑いながら出迎えようとして――笑顔が固まった。
大公は彼らを「誰」に会わせるのか、何も告げていなかったらしい。
それでも、悪魔を見たかのような表情をされるとは思わなかった。少し大公について調べれば、最近愛妾になった女の名前ぐらいわかりそうなものなのに。
「なぜ、おまえのような者がここにいるのだ! 私は、大公陛下から大事な人に会わせたいと伺っていたというのに……!」
「そうですよ! その方の侍女にでもうまく潜り込んだのか知らないけど……! どこぞで野垂れ死んだと思っていたわ!」
父と義母が唾を飛ばしそうな勢いでまくしたてるのを聞くうち、ヴィオレッタはやるせない気持ちでいっぱいになった。
彼らはやはり消えたヴィオレッタのことをそう思っていたのかと。少しは彼らなりに心配していた……なんて都合のよい幻想をわずかだが抱いていたのだ。
「私は野垂れ死んだほうがよかったようですね。あいにく、ラヴァンの奴隷はやめましたので、お望み通りにはいたしませんが。さあ、お二人とも、お座りになって。今、侍女にお茶を用意させますから」
ただし、彼らのこういった反応自体は予期していたので、ヴィオレッタも事務的な口調を装うことはできた。
『お二人とも、お座りになって』。
『侍女にお茶を用意させますから』。
彼らの驚愕の表情は見ものだった。ヴィオレッタは「自身こそが大公の愛妾なのだ」と言外にほのめかしたから。
さらに彼女の告げたとおりに、数人の侍女たちが彼ら三人の前に紅茶を用意し、軽食を準備している。
「なんと恥知らずな……! おまえの! おまえのような者が!」
さっさと椅子に座ったヴィオレッタに対し、ラヴァン家の夫妻は立ったままだった。どうやら事実を認めたくないらしい。
父は怒りのあまり、顔を真っ赤にして体中が震え、義母は歯をむき出しにして威嚇してくる。
「何が恥知らずだというのです? 私はこれでも公的な愛妾として、大公に認められております。あなた方は何も調べないで『愛妾』に会いに来たのですか? それこそ十分な恥でしょう」
「なんだと! おまえ、親に向かってなんという口を利くのだ!」
「親らしいことを何一つしていないのに、どうして親の顔をしていられるのです」
ぴしゃりと言い放てば父は押し黙った。
「そうでした、親切心から申し上げますと、ラザロは敗戦国であることをお忘れなく。あなた方は、大公の愛妾に渡りをつけ、少しでもラザロに有利な講和条約が結ばれるように動かなければならない立場です。――どうされますか」
「どうされますか、ってどういうことなのよ!」
義母がたまらず大声を上げる。
「あなた方は当初の目的通り、この私に媚びを売りますか、ということですよ」
「はっ! 馬鹿な娘だね! そんなわけないでしょう! おまえはラザロで生まれ育った子だ! ラザロのため、ラヴァンのために働くのが当たり前!」
記憶よりも醜くなった義母はきゃんきゃんと犬のように喚き散らす。
根本的には何も変わらない二人に、ヴィオレッタは疲れを感じた。
「そうよ! そもそもおまえがここにいるのがおかしい! おまえが愛妾になぞなれるわけがない! カルロッタよりも立場が上だなんて! そうよ、譲ってやりなさい」
「は?」
「大公にカルロッタを紹介しなさい! あの子なら大公を夢中にさせられるもの! ロレンツォなんて優しいだけの小者だからあの子にはふさわしくないと前から思っていたの! 大公の愛妾になれば、ぜんぶうまくいくわよ、あなた! ラザロもラヴァンもこれで安泰です! 運が良ければ、カルロッタの生んだ子が君主になるかもしれないわよ!」
「ふむ……。たしかに良い考えかもしれぬ。ヴィオレッタ、カルロッタに譲ってやりなさい」
膝に置いた拳が震えた。二人を凝視する。
これではそのまま前と同じではないか。父に命令されるがまま、牢獄に入れられたあの時と。
背後から黒い気配が近づいた。姿を消していた死神が、彼女にしか聞き取れない言葉で囁いた。
『復讐するか』
彼女は少し考え、首を少し横に振る。
「命を奪ったらそれでおしまいだから。まだだめ」
二人は反応しないヴィオレッタに大声で「カルロッタに譲れ」と騒いでいた。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い……。
にこやかな表情を保つのも面倒になってきた頃、死神の気配が前へ跳ぶ。すると義母が突然、卒倒した。
「アデーレ! どうしたんだ! アデーレ! アデーレ!」
父は正妻のためならば必死にもなるらしい。愛だ。
倒れた妻に縋りつく父を見ながら、ヴィオレッタは側にいる侍女たちに「ラヴァン夫人を介抱してさしあげて」と命じた。
粛々と彼女たちが動き出す中、彼女は部屋を出た。
死神もしっかり後ろをついてきた。
『殺してはいない。少し黙ってもらっただけだ』
聞いてもいないのに、ぼそぼそと言い訳をしていた。