三度目の偶然は運命2
数日後、ヴィオレッタはラザロのレース工房の様子を見に行った。今や公国とラザロ、二つの土地に工房を持つ彼女は、手の空いた時間を見繕っては日々、レースの研究に没頭している。
新しいデザインを考案し、自分で編んで実践し、技術的なものを工房の職人たちを共有する。
かつてラヴァン家の持ち物だった時は職人たちへの待遇が劣悪だったが、今は適度な休憩時間を設け、休日を増やしたり、職人たちを取り巻く環境を改善するようにいろいろと働きかけていた。すべては良質なレース生産と、技術力の高い職人を確保するために。
そのため、新しい経営主であるヴィオレッタに対し、彼女たちは好意的に接してくれる。
特にラザロの職人たちは、ラヴァンに虐げられていた頃のヴィオレッタを覚えている者も多い。再会した時には、目を丸くされた。どこかで死んだと思われていた時には笑ってしまったけれど。
思えば、彼女たちの手ほどきによって、レース職人としてのヴィオレッタは磨かれてきたといっても間違いない。
この日、ヴィオレッタは工房に新しいレースのデザイン画を持ち込んだところだった。
現場を取り仕切るベテラン職人たちがスケッチブックを覗き込んで唸る。
「なるほど、蝶をモチーフにしたデザインですか。しかもなかなか複雑ですね」
「今回は昆虫がテーマですか。あまり見ないものですが、宝飾品でも取り上げられておりますし、エキゾチックな風味を感じられます。輸出向けには向いていますね」
「これは襟飾りやショールなど、上半身に使う方が目立ってよいでしょうね」
いつものようにヴィオレッタのアイディアを受けた彼女たちが生き生きと話している。その最中、
「そういえば、私が持っているスケッチはこれでもう最後なんです」
彼女がさらりと告げると、彼女たちはヴィオレッタの顔を不思議そうに眺める。
「どういうことです?」
「今まで、私は書き溜めてきたスケッチブックを、折を見てみなさんに見せてきました。それがこの工房の商品となり、大陸で人気になっていましたが……もう、私にはこれほどのアイディアを生み出す力がないんです。だから打ち止めなんですよ、これで」
「そ、そうなんですか……」
一同が押し黙ってしまったものだから、ヴィオレッタは焦った。
「ごめんなさいね。急にこんなことを言われて困るでしょうね。でも、急にこの工房が傾くことなんてさせないから、そこは安心して……」
「なんだ、そんなことですか。いいんですよ、ヴィオレッタ様。あたしたちには十分です」
最古参のレース職人がきっぱりと声を上げた。
「あたしたちがあなたについていったのは、新しいレースのデザインに釣られたからじゃないから。ラヴァンに見捨てられたあたしたちを救いあげてくれたからだ。新しいアイディアを持っていなくたって、あんたは御主人さまだし、これからもそこは変わらないんだ。……不安そうな顔をするんじゃないよ、お嬢ちゃん。あんたは、本当に立派にやっているよ」
幼い頃のヴィオレッタを知る彼女がにやっと笑えば、他の職人たちも首肯した。
「デザインは模倣される。それは間違いないことだ。……でも、負けないだけの高い技術力を持っている集団はそうそうないだろう。腕を磨けばいいだけの話さ。客はそれについてくる。偽物が出たってね……本物はわかるやつにはわかるもんさ。『本物』の方がふさわしいって言わせてやるだけだ。どうせ、特許はもう取っているんだろう?」
「もちろんですよ。粗悪な偽物が出てこようものなら、法的な措置をします」
「あんたに守られているなら、安心して仕事に励めるよ」
気風のいい彼女は、この話は終わりだ、とばかりに、ヴィオレッタの新しいデザインをどうレースに落とし込んでいくのかを話し合いはじめた。
これにはヴィオレッタも一職人として参加する。彼女は自分で持ち出した試作品を手に、どのようにこのデザインを生かしていくか、工房内でどう作業分担をするのか、案を出した。
結局、今回は若い職人たちに大部分の工程を任せることとした。できるだけ若手にも経験を積ませたいという古株たちの総意があったためだ。
「新奇なものは、若い感性の方が柔軟に考えられるものさ。技術面はあたしらでカバーするしね」
ヴィオレッタも若手の職人とともに作業に加わることにした。発案者でもあり、ヴィオレッタ自身も若手の一人だからというのがその理由だ。
若手であっても職人気質でもある彼女たちは、工房の主に臆することなく、黙々と作業に没頭している。ヴィオレッタは新鮮な気持ちで、彼女たちの輪に入った。
カラカラ、と木製のボビンがぶつかりあう軽い音が心地よく響く。
ラヴァン・レースは本来、レース針で編むニードルレースであるが、最近は木製のボビンを使って編むボビンレースの技法も取り入れていた。北の公国で発展していたのをヴィオレッタが見つけ、ラザロにも持ち込んだのだ。ボビンを用いることで、レースでまた違った表現ができるのではないかと考えたのだ。
道具の使い方は違うとはいえ、元々がレース職人だった彼女たちは、比較的スムーズにボビンレースにも馴染んだ。特に若い職人たちの呑みこみが早い。
ヴィオレッタも、手に馴染んできたボビンを手に取り、いくつもいくつも交差させていく。ボビンから伸びたレース糸が編まれていき、文様が浮かび上がっていく。彼女はニードルレースを好んでいたが、ボビンが転がる音も好きだった。
ヴィオレッタが夢中になってレースを編んでいると、職人たちが息抜きにするおしゃべりとともに雨音が聞こえてきた。屋根に雨粒が落ちる音を耳にする。
ヴィオレッタの視界の外で、何やら騒がしくなる。
「……申し訳ない、急に降られてしまったものだから」
「そうかい。まあ、しょうがいないね。ほら、拭くものだ。今日は手伝っていくかい? ちょうどうちの主人も来ているから、挨拶しておいた方がいいだろうね」
「そうか、わかった。失礼のないようにしよう」
男性と、最年長の職人の声がした。別の部屋にいた足音が近づき、開いていた扉から、ヴィオレッタのすぐ前にまでやってきた。
「ヴィオレッタ様、ご挨拶させておきたい者がいます。男ですが手先が器用なので、たまに工房を手伝ってくれるゴンドラ乗りです。ほら、ご挨拶!」
真っ黒な靴が目に入り、ヴィオレッタはようやくボビンを手繰る手を止めて、正面に立つ男を見上げた。
「……アルトゥル、さん」
「はい」
まだ水気の残る髪が印象的だった。彼はなぜか、泣きそうな顔をしている。
ヴィオレッタは息を詰めた。思いがけない再会だった。言葉が出てこない。
「三度目、ですね」
彼の方からそう言った。彼から視線を外し、彼女は、ええ、と頷いた。
「三度目、です」
ボビンを持つ手が震えた。
「話を……しましょう?」
ヴィオレッタが囁くと、ああ、と彼も観念した。
「私も、同じことを考えていました」
なんだい、もう知り合っていたのかい……。年配の職人の呆れたような声が遠くで聞こえた。
ヴィオレッタは彼を自分の邸宅まで連れて帰った。着替えを貸すため、と言ったが、一度乾きかけた服をさらに濡らしてまで着替えを取りに行く必要もない。必要はないが、彼は何も言わなかった。
邸宅に着くと、彼には客人用に用意していた新しい服に着替えてもらった。
上等な布を使っている服だ。彼が着るとまるで貴族然として見えて……「死神伯爵」として振る舞っていた頃の死神そのものだった。
客間に通し、温かい飲み物を用意した。向かい合わせで椅子に腰かける。彼もヴィオレッタも互いに緊張しているのが見て取れた。あの、と言葉に出すタイミングがぴったりとそろってしまい、互いに気まずくなる。
「ごめんなさい」
彼女がついに口火を切った。
「突然で、本当に困惑してもおかしくないと思っています。けれど、どうしても話をしてみたかったのです。アルトゥルさんは……死神を知っていますか?」
ヴィオレッタは彼の変化をつぶさに逃すまいと観察したが、すぐに落胆した。
彼がすぐに、知らない、と告げたからだ。
仕方ない。彼が死神でなかったとしても仕方ない……。
「私がお話ししたいのは、死神のことです。長い話になります……聞いていただけますか」
「大丈夫だ。話してほしい。夜までかかっても構わない」
アルトゥルがどんな感情でヴィオレッタの言葉を受け入れたのかわからない。だがヴィオレッタは、彼にすべてを話そうと思った。
死神とのことを話そうとすれば、それはすなわち、彼女自身の人生そのものを語ることになる。
彼女は意を決した。夜になり、明け方になるまで彼に死神のことを語った。
空が白み始め、窓際からほの白い明かりがさしてくる。
ヴィオレッタの話を根気強く聞いていた彼は、重々しく、「……不思議な話だ。にわかには信じられない」と告げた。
彼は自分の中で言葉を探しているようだった。
「その死神と、私が似ているのですね。かつて、あなたが愛した人と、私が」
「愛した」と言われて、ヴィオレッタは怖気づいた気持ちになるが、ええ、と肯定した。
他人から指摘されてはじめて気づいた。
彼女は家族としてだけではなく、恋人同士や夫婦同士が互いに抱く感情をも含んでいたのだと。
「残念ながら、私はあなたの愛した人とは違うと思います。あなたとの記憶はありませんし……ただ」
「ただ?」
「いえ、少し気になることがあるのですが、確信は持っていないのでここでお話しできません」
「わかりました。……戸惑われたのも仕方ないと思います。ごめんなさい。話を聞いてくださってありがとう、アルトゥルさん。すっかりこちらに引き留めてしまいましたね」
青年は死神とは別人なのだ。ヴィオレッタは己に言い聞かせた。勝手に期待するのはもうやめよう。彼を解放するのだ。それから何も知らなかったふりをして、生きていく……。
「玄関先まで送ります。どうぞこちらに……」
扉を開けて、彼を先導した時に、「待ってくれ!」と腕を引かれた。
すぐ傍らに、真剣な顔をしたアルトゥルの顔があった。
「どうか、待ってくれ! 私は、私は……あなたに」
彼が何かを言い出そうとしたその時に。
「ヴィオレッタ様! 大変! 大変でございます!」
普段は冷静な使用人の少女が慌てた様子で駆け込んできて、「大公陛下がお見えでございます」と告げた。
「大公陛下……? なにを、言っているの。お見えになるはずが」
「お見えなのです! 今、玄関にいらっしゃっております!」
ヴィオレッタは、茫然とするアルトゥルの顔を見た。泣きそうな気持ちで、彼女の腕を掴む手をほどいた。
「ごめんなさい。お話はまた後にいたしましょう。お疲れでしょうから、お部屋でお休みください」
黙りこくった彼を置いていくのは後ろ髪が引かれる思いだった。
彼は、ヴィオレッタに何を告げたかったのだろう。
気を利かせた別の使用人が大公を大きな客間に案内していた。客間に入った途端、客用の椅子に腰かけた大公ハインリヒが喜色を浮かべて立ち上がる。
「ヴィオレッタ!」
「大公陛下……。大変ご無沙汰しております」
数年ぶりに会う大公は、以前となにひとつ変わっていなかった。
作法通りの礼を取り、向かい合わせに座る。緊張した面持ちの使用人がカップに紅茶を注いだ。
「陛下がお元気そうで安心しました」
彼と最後に会ったのは、息子のヨハンが死んだ後のことだ。カルロッタへの愛が叶わないことに絶望し、凶行に走ったヨハン。本当の息子ではないと打ち明けた大公を思い出す。
「そうでもない。君も知っての通り、周囲に勧められた二度目の結婚もうまくいかなかったよ。近頃は疲れを感じることも多くてね。君が近くにいた頃が恋しく感じることもある」
ジャンは以前、カルロッタに代わってヴィオレッタに「王の母になる運命」があると言った。もし、そんなものがあったとしたらそれは……大公の元に行くことを意味しているのではないだろうか。ふと、そんなことを思うのだった。




