汝、死神と契約せし乙女2
北の大公国は都市国家ラザロと同じように海に囲まれ、貿易を要に発展してきた国だ。ラザロは大陸東世界への入り口であるのに対し、大公国は大陸内部と大陸西世界の心臓とも言える。二つの国家は広くは同じ海に属しているために、以前から衝突を繰り返していたが、実際に戦争に突入したのが、二年前のこと。初めはラザロ側の使者が大公国側の高官に無礼を働いただとか、そんなくだらない理由だったのだが、様々な利権を絡んでいた両国は武力でもって争う展開となった。ラザロ側は、近隣都市国家と同盟を組み、大公国に対抗した。
膠着状態のまま一年半過ぎた頃、ラザロの同盟は大公国側の謀略により瓦解し、戦争の勝敗もまもなく決した。
大公国は勝利した。君主の大公ハインリヒは戦争勝利を記念し、夜会を催すこととした。
大公ハインリヒは経済、軍事、政治のどれをとっても剛腕で知られる。彼は周辺諸国の知識人を招いて、講義を願うほどの勉強家でもあり、チェスの名手でもある。哲学書を執筆していたことから「国を持った哲学者」とも呼ばれている。
普段は贅沢を好まない彼だが、戦勝記念の時は例外のようで、大きな夜会を計画した。国内の貴族が大勢招かれ、宮殿の使用人たちは準備に追われた。
招待客の中には、大公が先妻に死に別れて長いのをいいことに、我が娘を大公に近づかせたいと思う者もいた。こうした者は娘を連れて、田舎からいそいそと宮殿に参上し、大広間で大公がやってくるのを今か今かと待っていた。
「大公陛下のおなりでございます」
会場にいた侍従が声を張る方向に目が動いた彼は、堂々とした美丈夫の大公に自然と敬意を覚えたものだが、大公の隣を見て、ああ、と落胆する。
大公の傍らには、ひとりの女性がいたのだ。光に透かしたオリーブ色の髪をした、うら若き女性が、目を瞠るほど繊細なレースがふんだんに施された深い青のドレスをまとい、大公の横をゆったりとした足取りで歩いてくる。
「あれが、例の……」
「ええ、《死神伯爵》の妻……」
「大公の愛妾だ」
大公は先妻を亡くして以降、ほとんど浮いた噂がなく、男色ではないかという噂があるほどだった。実父である先代大公が実母に殺されてから、女を信用できなくなったとも。
大公が先妻以外を夜会の相手に連れて来たことはない。それだけに、この場に現れた女性の意味もまた重い。
あわよくば、という程度の野心はするすると萎んだ彼は、隣で不安そうにしている娘を慰めた。
「今晩は宮廷の美味しい食事を楽しむことにしようか」
隣で腕を組んで歩くハインリヒが「大丈夫かい」とヴィオレッタに囁いた。落ち着き払った声音はいかにも彼が場慣れしていることを表していた。
「緊張しているね。腕が震えているよ」
「人生でこんな華やかな場に出ることなんてありませんから。もし変なことをしでかしそうになっていたらどうか止めてください」
口元に微笑を浮かべているハインリヒが少しばかり憎らしい。
「しっかり止めてあげる。それに夜会は、この先、いくらでも機会があるよ。あなたはたったひとりの愛妾だ」
不幸な生い立ちから女を寄せ付けず、心を許すことのなかった大公だ。その大公の愛妾の椅子にまさか自分が座るとは。
死神との契約で得た「強運」がなければ為せなかったに違いない。
「ええ、ありがとうございます」
「――せっかくだ。存分に利用するといい。あなたの目的のために」
ヴィオレッタは大公の顔を伺おうとしたが、心の内面までは読み取れなかった。
やがて、楽団の演奏が始まり、大公と愛妾はワルツを踊り始める。彼らを囲む招待客の輪ができて、二人は注目の的だった。しかし、彼らは気に留めた様子もなく、正確無比なリズムを身体で取る。まるで二人が一つに溶け合うかのように。
大公は踊りながら息も乱さず、自分の愛妾の晴れ姿をこう評した。
「うまいよ。上手だ。……練習の成果が出ているね。夜な夜な寝不足で踊り続けた意味があったよ」
「からかわないでください。舞踏の先生が他にいても、毎回のように理由をつけて、パートナーを買って出たのは陛下ではありませんか。そこまでしなくともよかったのです」
「私の愛妾ともなれば、舞踏のひとつぐらいは優雅に踊りこなせてほしかったからね。実はこれでも昔から、教え方が上手だと言われていてね」
「……たしかに、陛下は素晴らしい練習相手です」
渋々認めると、大公は喉の奥から笑った。
この二人のやりとりは、遠巻きで眺める周囲には聞こえるはずもなく。二人が微笑みながら視線を交わし、仲睦まじく何事かを語り合っているようにしか見えなかった。
――どうして、あそこにいるのがわたくしでないのかしら。おかしいわ、こんなこと。
招待客のマリアは視線の先にいる「愛妾」に嫉妬と苛立ちを隠せなかった。彼女は、ヴィオレッタと同じく大公の愛妾を目指していた夫人である。彼女はヴィオレッタよりも豊満で艶美な肉体を持ち、自分の美しさに絶対の自信を持っていた。ヴィオレッタよりも早くから大公の愛妾の座を狙い、周りを巻き込んで色々と画策していたが、横からぬるっと現れた身元も知れぬ女にその座を奪われたのだった。
自分はまったく大公に相手にされなかったのに、どんな色目を使ったらああなるのだ。ずるいではないか。
マリアは大公と愛妾が躍り終わって、離れるのを待った。狙った瞬間が訪れると、すすすっと愛妾の近くへより、手に持っていたワインのグラスを、いかにもあちら側がぶつかってきたから、落としてしまいました、と言い訳するような形で傾ける。
ワインは愛妾のドレスを赤く染め上げる――はずだった。
愛妾は何も気づかない様子でマリアの脇をすり抜けていく。手元を見た。ワインのグラスは確かに傾けたはずだったのに、グラスは元のように赤い液体がなみなみと入っている。
――わたくしったら、何か記憶違いでもしていたのかしら。でも、さっきは。
マリアがきょろきょろと周りを見ると、自分からふいと目を背け、愛妾の元へ歩み寄る男がいた。その男の正体に気付いた時、心底、ぞっとした。
――《死神伯爵》!
あの愛妾、ヴィオレッタの夫だ。どこかの国の貴族ということだが、あまりにも陰気な顔と暗い服装をしていることから《死神伯爵》とみんなが呼ぶ。たしかに全身に闇を背負っているような男で気味が悪い。
遠目では《死神伯爵》が自らの妻と踊り始めていた。
ヴィオレッタに、《死神伯爵》。どこか得体のしれない夫婦だ。
「ラザロはこの国に負けた。じきにラザロの使者が来るそうよ」
ヴィオレッタの言葉に、死神は軽やかなステップを踏むのをやめた。
「待ちかねた機会がやってくるかもしれない。死神のおかげでやっとここまで来られたわ」
「それでいいのか、ヴィオレッタ……」
彼はさりげなく踊りの輪からヴィオレッタを連れ出し、彼特有の重く寂しげな声音で短く問う。
「復讐こそが、君の幸せか?」
ヴィオレッタは次に話しかける言葉を失った。心を落ち着け、わずかに息を吸う。
「……死神と踊るのは楽しいわ。もう少し踊りましょうよ」
にこりと笑ってみせて、死神の腕を引けば、彼は何も言わずにまた一緒に踊ってくれた。
――復讐は必要なことだわ。そうしなくては、生きていられないから。
死神は名残惜しげにしながらも去った。用事を済ませるためにしばらく離れていた大公が戻ってくる気配を察したからだ。
大公にはどこか気弱な少年が付き従っていた。大公の前妻の息子、ヨハンだ。年はまだ十六ほどで、大陸周遊の遊学から帰ったばかりだと聞く。大公が堂々たる美丈夫であるのに対して、ヨハンは線が細く虚弱な印象を与えた。大公と並ぶと、親子というより主君と家臣の関係だ。ヴィオレッタが見る限り、ヨハンは父親に気後れしているように見えた。
ヴィオレッタはドレスの裾を摘まみ、大公の嫡子に挨拶を取る。
「ヨハン様、ご機嫌うるわしゅう……」
少年はヴィオレッタを見ないようにした。彼女にとってはいつものことなので、ため息をつきたいような顔をする大公に目くばせで「大丈夫です」と伝える。
「待たせたね。そろそろ寝室に行こうか」
「はい」
少年の纏う空気感が凍えたようだった。彼は父親に非難の眼差しを送り、唇を強く噛みしめている。
だが大公は気に留めずに自分の愛妾に手を差し出したし、ヴィオレッタは逆らうことなく、大公と腕を組む。彼女は自分の周囲の不協和音にはいやでも気づいている。彼女の存在をよく思わないのは、ヨハン以外にもたくさんいるのだ。
むしろ、父親の愛人を嫌がらない息子などいないだろう。ただ、ヴィオレッタは今後のためにも、当たり障りのない距離感で付き合っていきたいとは考えている。
――それに、陛下との関係は他の人が思っているよりもずっと……。
こちらを睨む少年をひとり残し、彼らは会場を後にした。
夜会から離れれば、宮廷にも静かな夜が訪れている。
大公の寝室のベッドでは、蝋燭の火に照らされた大公とヴィオレッタが顔を寄せあっていた。彼らの視線の先で、ことん、ことん、とチェスの駒が動く。
「なるほど、こう来たか」
大公の手が止まる。ベッドの上で胡坐を掻いた彼は身体を伸ばし、天井を仰いだ。少し考えた後、ビショップの駒を動かした。すると迷わず彼女の手がクイーンの駒で彼のビショップを倒した。
「チェックメイトです、陛下」
「ああ。負けた。完敗だよ」
「ふふ。子どものように悔しがらなくても」
「君には勝てた試しがないよ。その割に毎回、いい勝負になるから悔しくて仕方がない」
「陛下は十分強いですよ。私は少しズルをしていますから。死神に……」
「魅入られた女だから?」
大公は片眉を上げた。はい、とヴィオレッタは微笑む。「死神に魅入られた女だから」は彼女が己の能力を示した時に使いがちな表現ではあるが、大公が本気で受け止めているかはわからない。
ヴィオレッタは自身の目的のために大公ハインリヒに近づいた。打算はしっかりある。しかし、それ以外の部分では彼には誠実でありたいと思っている。彼女が感じているちょっとした後ろめたさのために。
「今日はもう終わりだ。寝ようか」
「はい」
ヴィオレッタは大公の寝台から下りた。彼女自身の寝室に戻るためだ。
大公と彼女は真実、清い関係だった。ヴィオレッタも愛妾になってみて驚いたけれども、大公は女嫌いでもあるし、身体に触れたくないのも理解できた。
息子がひとりいるとはいえ、大公は独身であり、臣下たちからはしきりに結婚を勧められている。ヴィオレッタのような愛妾は、周囲からの圧力からの防波堤だ。大公は愛妾にうつつを抜かしている。結婚したがらないのは愛妾が悪いのだ……というふうに。実際に二人がうつつを抜かしているのは、チェスや読書、乗馬なのでいたって健全だけれども。
ヴィオレッタはいわば「仮面」愛妾だ。彼女にとってこれほど都合のよい立場はなかった。
「夜会ではあまりヨハン様に挨拶できませんでした。嫌われているのは仕方ないことですが……」
「あれは反抗期だ。そのうち成長を見せるだろう」
ハインリヒはそっけなくそう言い、彼は「死神伯爵と踊っていたね」と話題を変える。
「彼と踊っている時のあなたは……」
そう言いかけてはやめ、
「どうもあなたから不吉な死の匂いがするように思うよ。秘密がありそうだね」
「私からすれば、大公陛下が私のどこがお気に召したのかがわかりかねます」
わざと問いには答えず、ヴィオレッタは返した。
「あなたの行く末が気になるからだ。どこから来て、どこに去っていくのだろうとね」
ハインリヒは寝間着のままヴィオレッタに近づき、その耳元に囁いた。
「今朝報告が上がってきた。今度来るラザロの使者の中に、君の実の父上も混ざっているようだ」
「えっ……」
彼女が狼狽えるのを眺めたハインリヒは口角を上げた。
――数日後。ラザロからの使節団がやってきて、大公との謁見が行われた。ハインリヒが告げたとおり、使節団の中にはヴィオレッタの父マルコがいた。
使節団の代表としていかめしく挨拶を述べている父を、ヴィオレッタは大公の椅子の背後にある隠し窓からそっと見下ろしていた。
少し、老けたかもしれない――そんなことを思いながら。