三度目の偶然は運命1
ヴィオレッタは今でも死神の気配を感じることがあった。たとえば、邸宅の自室の暗がりや、庭園の日陰、町の路地裏から。そのたびに足を止め、周囲を見渡し、彼のいそうな闇をのぞきこむ。もちろんそこに死神はいないのだけれど。
気のせいなのだろうとは思う。死神なら、すぐに彼女に会いに来てくれるし、話しかけてくれるはずだ。
しかし、もしも今もどこかで自分を見ているとしたら……。そう考えてしまうことも事実なのだった。
『そりゃあ、勘違いだなァ。あんたの期待がそうさせているんだよ。残念だったな。けっけっけ』
だらしなくソファーに横たわったジャンに聞いても、笑われるばかり。
『同じ死神の俺様がいうから間違いない。それとも、俺のいうことは信じられないか?』
「ジャン、そういうことではないのだけれど……」
『あんたは俺を死神とは呼ばないだろ。納得してないってこった。あの兄弟のことはさっさと忘れちまえ』
それよりも、とジャンはにやにやと身体を起こし、人差し指と中指で挟んだものを見せてくる。
いつのまにかくすねたのだろう。大公から届いた手紙だった。
「ジャン、返して」
『けけけ。まあ、待てよ、ヴィオレッタ』
血の気のない手が大公の手紙を弄んだ。
『これを読む限り、大公ハインリヒはいまだにあんたにご執心だ……。そして、ロレンツォもいまだに諦めていないだろう。カルナヴァルで会ったんだろ? どうするんだよ、あんた』
「人の手紙を勝手に読まないで」
『反応するところはそこじゃねえ。あんた、妹の蝋燭をもらって生き長らえているんだぜ? それってさ、妹の運命も引き受けたのと同じだ……。あんたには王の母になる運命がある。我らが万能の神に愛されているんだぜ? 早くどっちか選べよ。、ま、あのハインリヒの方が分がよさそうだがな』
「それは、死神として私の未来を視たってこと?」
『いや。あの兄弟は神様に愛された特別製だからそのあたりがわかっていただけさ。詳しいところは知らんが、蝋燭が変わったならそういうこともあるだろうさ』
聞いていられず、ヴィオレッタは席を立った。
『どこに行くんだよ』
「大聖堂に行ってくるわ。ひとりで考え事をしたいから」
『……神に聞いたところで、何も返事はしてくれないがねえ』
ジャンは初めて、忌々しげな顔になった。
彼女が大聖堂に辿り着く頃には、大聖堂広場の朝市はすで終わっていたため、人が閑散としていた。カルナヴァルが終わった平常時は静かなものだ。
しかし、鉄の扉を押し開けた先の聖堂内部は、それ以上の静寂に包まれている。人もまばらで、薄暗い。ひとりで考えごとをするのにちょうどよかった。
ヴィオレッタは安心して、信者席に腰かけた。祭壇に掲げられた十字架をぼうっと眺める。聖堂に来るたびにそうしている。
――死神が救われますように。死神の望みが叶いますように。
祈ることも、以前と変わらない。神へ熱心に祈っていた死神を思い出しては、彼の願いが叶うように心に思う。
死神がいるのなら、「神様」もきっといるはずだから、いつかは聞き届けられるかもしれないとわずかな希望を抱いていた。
そして、この日はほんの少しだけ、別のことも考えた。
――死神に、会えますように。
胸に思い描くのは、「アルトゥル」と名乗った青年のことだ。
彼には彼の人生があるのだろう。恋人だっているかもしれない。
ヴィオレッタも、彼を前にして何を望めばいいのかわからない。それでも、会いたいと思ってしまう。死神とうり二つの彼。ヴィオレッタを歌で慰めたあの声をまた聞きたくてたまらない。
雑念だらけの己が嫌になる。
ふと、近くで気配が動いたのに気づき、右に視線を向けた。別の信者が、ヴィオレッタと同じように信者席に腰かけたのが見える。
どれほど薄暗くても、彼女にはすぐわかった。心臓が鋼を打つ。
――アルトゥルだわ。
真摯に祭壇を見つめる横顔が凛々しい。両手を組み、目を閉じる。その音さえも聞こえてきそうなほどにヴィオレッタは彼に集中した。祈りどころではなくなってしまう。
彼はひとりでいるようだ。一心に祈りを捧げている。その姿は本当に死神がそうしていたさまとよく似ていて……。本当に、彼ではないかと思ってしまう。
とはいえ、彼がヴィオレッタを覚えていないはずがないだろうが。
死神は自分のことをあまり語りたがらなかった。彼が真実、どんな人だったのか、彼女は何ひとつ知らなかったかもしれない。彼女が自分自身のことで精いっぱいだったから、彼のことを思いやれていなかった。
――でも、「大好き」だと、「愛しているわ」と告げていたら……あなたはどこかに行ってしまうでしょう?
心のどこかで思っていたから、口には出せなかった。
口に出していたらよかったと後悔している。彼がこうして消えてしまったのを知った今なら。
アルトゥルという青年にも人生があるだろう。隣に立つ女性もいるかもしれない。
しかし、後悔はもうしたくなかった。
ヴィオレッタは彼が祈りを終えて立ち上がるのを待った。大聖堂の扉近くで彼に声をかける。
「こんにちは」
「あなたは……」
驚いたように目を見開く彼の顔に、戸惑いの感情から嫌悪の色に移り変わる前に、
「今日は偶然です。この大聖堂に行くと落ち着くので。だから拒絶しないで」
早口で言う。
「これで、偶然は二度目です。ラザロも大勢の人が行き交う交易の街です。短い期間に二度も同じ人と会うこともなかなかありません。……だから、もう一度。もう一度、偶然に出会えたなら、私の話を聞いてもらえませんか?」
ヴィオレッタを見下ろす彼の瞳が揺れている。彼女の懇願の意思が伝わったのか、青年は言葉もなく、ただ頷いた。
ただ、それだけのやり取りでヴィオレッタは彼と聖堂前で別れた。
彼女は肩にかけたレースのショールを掻き合わせ、歓喜の波が胸中を満たしていくのを感じていた。
これほどうれしいと思ったのはずいぶんと久しぶりのことだった。
『……随分と楽しそうだねえ。あんたが楽しそうにしていると腹が立つよ』
大聖堂の広場の端で、死神のジャンが死神伯爵の姿で待っていた。
『あの男に惚れた? ああ、ずいぶんと尻軽な女だなァ。あいつは他人の空似というやつだろうに。強国の大公も、故郷の貴公子も袖にして、しがないゴンドラ乗りの男を選ぶ意味はないじゃないかよ』
彼はアルトゥルとの一部始終を見ていたのだろう。
「……帰りましょう」
高揚した気持ちに水を差されたヴィオレッタは、ただそれだけを言う。
帰ろうと歩き出す彼女の後ろをジャンはついてきた。
『うちの女王様はご機嫌ななめだなあ』
この期に及んで背中越しに煽ってくる。
『なあ、俺様のためにもレースを編んでくれよ。あいつにはやったんだろ。もう長くない付き合いじゃねえか……』
「突然、変なことを言うのね。死神は特別だったの。仕事でもないのにどうして」
『いいじゃねえかよ。あんた、本当に死神に対してまったく怖がらねえなァ』
路地裏ですねた声が響く。
「それこそ、死神と一緒にいた時間が長いから。ジャン、そんなにレースがほしいなら、私が練習で山ほど編んだものがあるから少し分けてあげる」
『そういうことじゃねえんだよなァ』
横に並んだジャンがやれやれとばかりに首を横に振る。腹が立ったので、レースをあげるのをやめようかと思った。
『俺様にも、人のぬくもりが恋しい時があるさ』
言い方があまりにも真に迫っていたものだからヴィオレッタは声をかけようか迷った。
『死神ってやつはなあ、神からの罰なんだぜ? 俺たちは罪人で、罪を償いつづけている。心から自分を愛してくれる乙女が現われたら、救われるっつーんだけれどな、俺様はそんなこと信じていない。だって、俺たちが視える人間すらごく一握りなんだからな! はっはっは』
ジャンが笑い飛ばしたから、話はそのまま終わった。
どうにもジャンは何かに苛立っているようだった。




