ゴンドラに乗って2
「……違う」
「え?」
ヴィオレッタは仮面を持ったまま呆けた。目の前の死神がそう告げたのだとわかるまでに相当な時間がかかった。
「君は、だれか別の人と勘違いしている」
丁寧な仕草で彼はヴィオレッタから仮面を受け取った。彼の顔にはほのかに微笑すら浮かべ、血色も良い。ヴィオレッタの知る死神は、こんな表情はしなかった。生きている人間の顔をしていた。
「……困っていたようだったから、助けたんだ。申し訳ない、君の探し人ではない」
そう言う彼だが、顔立ちは死神とそっくりだった。
ヴィオレッタは混乱した。
その間に、男は自分の仮面をつけなおすと、ヴィオレッタをゴンドラから下ろした。
「私は、アルトゥル。生まれも育ちもこのラザロだ」
「そ、そうですか……」
ヴィオレッタはこうとしか返せなかった。
死神だと思ったのに、死神ではなかった? アルトゥル? 彼はだれ?
「……助けてくれて、ありがとうございました」
彼女は辛うじてこれだけを言って、死神と似た男と別れた。
邸宅に戻ってくると、ジャンが来ていた。
自室のひとりがけの椅子にだらしなく座り、ちびちびと度数の高い酒を飲んでいたが、ヴィオレッタを見ると、片手を挙げた。
『よう、俺の奥さん』
「その言い方やめて」
周囲にはだれもいなかったので、ヴィオレッタは率直に告げた。
彼女は男と離れた椅子に腰かけると、やりかけのレースを編み始めた。ジャンはつまらなさそうな顔をしていたが、ふと鼻をうごめかせた。
『むむ? ヴィオレッタ、男の匂いがするなあ。カルナヴァルの熱にのぼせて、俺じゃない男に肌を許したのかい?』
「何を言っているの。私はあなたとは違うわ」
『ふふ、安心してくれ。『死神伯爵』の時はちゃあんとしているし、『始末』もつけているさ』
ヴィオレッタの即答に、男はけらけらと笑った。
「『始末』? まさか、あなた……」
関係を持った相手を殺しているの? 言葉を続ける前に、いやいや、と否定が入った。
『おいおい、とんでもない妄想をしているんじゃないだろうな? ただ、知らない方がいいと思うがねえ。いつもと同じさ。俺様は仕事熱心な死神なものでね。ハハハ』
ジャンの軽口にヴィオレッタは閉口する。
同じ死神でも、ジャンはヴィオレッタの死神とはまったく違う。
いつもふらふらしているし、他人を小馬鹿にすることも多い。ついでに下品だ。
――いくら空席の『死神伯爵』を埋めるためだからと言っても。
彼はヴィオレッタとの契約ではなく、ロレンツィオの契約で動いている。ロレンツィオが彼とどのような契約をしたのかは、彼女も把握できていない。
彼女にわかるのは、彼女が適当に名付けた「ジャン」という仮名を気に入って使っていることと、彼が死神を楽しんでやっていることぐらいのものだ。
苛立ちを紛らわせるように、繊細なレースが編みあがっていく。
『あんた、よくそんな細かいことできるなあ。俺は一日で飽きるね! つまらない!』
わざわざレース好きの人の前で言うことではないのだが、この若い死神は万事がこの調子なのだ。
ヴィオレッタは彼のことを時々家にやってくる気まぐれな猫ぐらいに思うようにしている。
「あっ……」
ふと、レース針が手元で狂い、できかけのレースが膝の上から零れ落ちた。ジャンはすばやくそれを拾って、ヴィオレッタに手渡すのと同時に、彼女の顔をのぞきこむと、「んん?」と首を傾げた。
『あんた、泣いただろ。様子も変だぜ? 男の匂いのことと言い、絶対、何かあっただろ』
「カルナヴァルに死神が……」
昼間の出来事ですっかり気が動転していたために、つい口を滑らせた。
『はァ? あいつはこの世から消えたんだよ。夢でも見たんじゃねえか』
「でも、本当にそっくりで……。何も知らないみたいだったけれど……私、もう一度、彼と話をしようと思う」
自分の声が泣きだしそうに聞こえた。
『やめとけやめとけ。期待するだけむださ』
「あなたに反対する権利はないはずよ」
ヴィオレッタはきっぱりと言った。目の前の男が唇を尖らせる。
「私が契約した死神はジャンではないもの。私は今でもどこかに死神がいるんじゃないかって信じているから……」
ジャンは彼女を睨んだ。
『へいへい。なんて頑固な女なんだよ、まったく。ほいほい新しい男に乗り換えればいいものを、いつまでたっても、あいつを追いかけてさ。馬鹿みてえ』
乱暴な手つきで酒瓶を開けたジャンが部屋を出ていった。あれでも他人の前ではそれなりに死神伯爵を演じてくれているのだが、やはりヴィオレッタの死神とは比べられない。
カルナヴァルは一か月続く。その間に、もう一度、「アルトゥル」と名乗った彼に逢い、詳しく話を聞きたいとヴィオレッタは願った。
カルナヴァルでヴィオレッタを尾行した大男のことを考えれば、彼女自身が探しにいくのは得策ではない。名前は知っているのだから、使用人に「アルトゥル」という名のゴンドラ乗りを探してもらうこともできただろう。
しかし、アルトゥルのことは慎重に進めたかった。彼女自身が探し出さなくてはならない気がした。
尾行された時とは違う仮装を使用人に用意してもらい、ヴィオレッタは次の日も外出した。
ラザロのゴンドラ乗りにもおおよその縄張りがある。昨日と同じ場所までいけば、きっと彼と出会えるはずだ。
昨日出会った石橋の上まで来たが、予想外の人物が佇んでいた。彼は仮面をしていなかった。
「ヴィオレッタ様。ご無沙汰しております」
胸に手を当てて、うやうやしく礼を取る男は、三年前の憔悴した姿と比べるとまるで別人のようだ。昔の輝きを取り戻し、それどころかそれ以上に落ち着いた色気が増した美男。今も昔も、彼は「ラザロ一の美男」にふさわしい。妻を亡くした後もいまだ後妻を迎えていないのも理由だろうが。
「こんにちは、ロレンツォ様。仮面をつけているのによくわかりましたね」
ヴィオレッタは自分の仮面を外した。
「仮面などなくともあなたのことならば見分けがつきますよ。ところで、どうしてこちらに?」
「カルナヴァルですから、気分転換に外出していました」
ロレンツォに事情を話すわけにもいかず、曖昧に誤魔化した。ロレンツォは心配そうに眉根を寄せると、さりげなくヴィオレッタの手を取る。
カルロッタが死んでから、ロレンツォはラザロ滞在時のヴィオレッタとは商売上の関係を築いていた。
「せっかくお会いしたのですから、僕とカルナヴァルを楽しみませんか? お誘いしてもいつもそっけないので、僕も傷ついているんですよ」
「ロレンツォ様、ありがたいお誘いですが、私は」
「たまには昔を懐かしむのもよいでしょう? 僕とヴィオレッタ様が出会ったのもカルナヴァルです。……それに今は同じ『秘密』を共有している。僕の死神は役立っていますか?」
「彼はあいかわらずふらふらとしています」
「僕のところにも同じようにしていますよ。よく酒をねだられるし、態度も悪い」
ロレンツォは微笑み、さりげなくヴィオレッタの背中に手を回す。彼の胸元では、三年前に返した銀の指輪が揺れている。
ヴィオレッタが彼を避けがちなのは、彼の距離感がおかしいと思うためだった。
彼はかつてカルロッタの夫だったが、元々はヴィオレッタと結婚したいと望んでいた。とは言いつつも、彼はヴィオレッタが真実をばらすまでは、カルロッタを溺愛していたし、カルロッタも愛されるように振る舞っていた。
カルロッタが死んだ今、ロレンツォが叶わなかった初恋を叶えようとしてもおかしくない。
しかし、ロレンツォが気に入っていた少女はもういない。今のヴィオレッタは、あの日に束の間の安息を求めてラヴァン家から逃げ出した、かわいそうな少女ではない。
――ロレンツォ様は昔の幻想を追っている。取り戻せるわけがないのに。
ロレンツォはあの日カルナヴァルで出会った少女がカルロッタではないことに気づけなかった。カルロッタはロレンツォの勘違いに便乗したが、彼自身も異母妹の美しさに目が眩んだのだ。話はそれでおしまいだ。
「ラザロの女性たちはロレンツォ様を待っていますよ。私のことはお気になさらず」
背中に添えられた手を優しく振りほどく。
「わかった。では、またの機会にしよう」
ロレンツォはヴィオレッタの手袋越しに口づけを落とすと、名残惜しげに去っていく。
一艘のゴンドラがゆっくりと水路を下ってくる。幼い子を連れた夫婦を乗せたゴンドラだ。楽しそうな談笑をする彼らを乗せていたのは、ヴィオレッタが探していた彼だ。
橋の上にいる彼女と目が合うが、男はあからさまに視線を避けた。そのやりようがあまりにもそっけなくて、ヴィオレッタは戸惑った。昨日は相手も彼女を気にしていたように思ったのに。
「あ、あの!」
「なんです?」
彼が親子連れをゴンドラから下ろした後に、話しかけるにも勇気が必要だった。彼はゴンドラの中を点検していたが、こちらをちらりと見やるが、すぐに作業に戻った。
「き、昨日はありがとうございました」
すぐに折れてしまいそうな気持ちを奮い立たせながらヴィオレッタはまずお礼を言った。
「あの時はだれかに尾行されていたようで。あなたがいたから助かりました」
「それは、よかったです」
「実は、それで。もし、よろしかったら……私に、あなたを雇わせていただけないですか? ゴンドラ乗りとして」
男の黒い瞳がついとヴィオレッタを見るにつけ、彼女はいやに落ち着かない心臓を押さえた。
一秒が万秒にも思えた。ああ、どうか。承諾してほしい。
「お断りします」
その言葉はいやにはっきりと聞こえた。体中の熱がふっと消えてしまったようだった。
「……あなたを助けることになったのは偶然です。偶然のことを気にする必要はありません」
「そ、そうですか。そ、それでは、またゴンドラに乗せてもらえますか」
「いえ、約束があるので、今日はもう終わりです」
頭をめぐらせた彼の視線があるところで止まる。
若い女性が彼のところに駆けよってきた。
「アルトゥル? もう仕事終わった? 行こう?」
彼女の手が彼の腕に回る。……ヴィオレッタは思わず目をそらしていた。
「ああ、ルーナ」
では、とほんの少しのあいさつを残し、死神とそっくりな彼は去っていく。
ヴィオレッタはひとり水路脇で取り残される。
――彼は、死神? ただの他人の空似?
どちらでもよいのだ。ヴィオレッタは彼を気にせずにはいられない。ロレンツォのように昔の幻想を追っているだけだとしても。
――もう一度、彼と話してみたい。




