ゴンドラに乗って1
ヴィオレッタが死神と出会ったのは、踊り子だった母が亡くなった時のこと。死ぬ間際の母の足元に現れた、黒衣を着た骸骨。彼は鎌を持ち、母の心臓に向かってそれを突き立てた。母の心臓の辺りから、小さな炎がするっと抜け出て、骸骨の右手がそれを掴む。
彼女は何が起こったのかわからないまま、動く骸骨を凝視していると、「それ」と目が合ったのだ。目、というものは実際にはあるかわからないが、そう思ったのだ。
『子どもか……。私が視えているな?』
「う、うん……」
ヴィオレッタはつい先ほどまで寝入っていたから、夢だと思い込んでいた。だからだろうか、ちっとも怖くはなかったし、話しかけられても驚くより先に素直に返事をした。
『今見たものは人に言ってはいけない。君のためだ』
「わ、わかった。……ねえ、もしかして、母様は死んじゃったの?」
『ああ』
骸骨は少女から顔を逸らすようにして肯定した。
「よかったぁ……」
『よかった?』
「だって、もう、イライラして怒鳴ったり、叩いてこないってことでしょう? 痛いのはつらいもん」
骸骨は何かに気付いたように、幼いヴィオレッタを見下ろして、ああ、と今度は呻いた。
当時の彼女は傷だらけだった。母はヴィオレッタによく当たり散らしていたし、平然と手をあげることもしばしばあったから。死神がこうしてできた痛ましい傷を見つけたのだ。
『そうか。君にとってこの女の死は祝福であったのか……』
骨の手がするりと幼い頭を撫でる。
『死神が視えてしまう君。どうか、この先の人生が幸福でありますように』
そう言いながら、祈りの文句を軽く唱えた彼。ヴィオレッタはびっくりした。今まで彼女のために祈ってくれた人などいなかったから。
「ね、ねえ」
去ろうとする黒衣の裾を掴んだのは、彼がヴィオレッタの人生で初めて差した光だったから。ヴィオレッタには彼しか縋れる相手がいなかったから。
「また来て。また来てね、約束よ」
彼女が無理やりに約束させたためか、死神が時々やってくるようになった。初めは様子を伺うように遠目からこっそりと。毎回のようにヴィオレッタが見つけてしまうために様子見を諦めてからは、時折訪問する親戚のように。ふらりとやってきては彼女と話をするようになった。ヴィオレッタは外の話を好んだから、だんだんと話の内容は高度で複雑なものになっていく。彼女に一通りの文字や教養を与えることになったのも必然だった。
いつしか、彼女が手元でレースを編みながら、死神と話をするのが当たり前になっていた。死神は、ラヴァン家にいようと牢獄にいようと会いにきてくれたから、どれだけの慰めになったことか。
彼は父であり、兄であり、師でもあり……唯一、家族と言える存在だった。
死神。
またも無意識に口に出していたらしい。物思いから醒め、ひじ掛け椅子での姿勢を正した。だれかに聞かれていたら、また誤魔化さなくてはいけなくなるところだった。
「奥様。失礼いたします」
簡素なお仕着せを着た少女が銀のプレートを持ちながら部屋に入ってくる。真面目そうで少し神経質さが混じった顔立ちの彼女は、見た目通りの仕草でヴィオレッタにプレートを見せた。
「大公陛下より手紙が届いています」
「ありがとう」
ペーパーナイフで封を切った。使い終わったナイフをプレートに戻せば、少女は部屋から出ていった。
ヴィオレッタは、手紙の本文に目を落とす。
――カルロッタが死んで、三年が経つ。
あれから、大公とは逢っていない。こうして手紙を交わすだけ。静養中とは言うものの、実質的に彼女は、大公の愛妾の地位を投げうった。このことに後悔はない。元々、不相応な地位だったのだから。
彼女が予想した通り、この三年の間に大公ハインリヒは他国の王女と二度目の婚姻をした。ぜひお世継ぎを、という議会からの再三の要請に応えた形になる。当時すでに宮廷を去っていたヴィオレッタは人からそのことを聞かされた。
ただ、大公の結婚は続かなかった。王女は結婚から数か月で自国へ逃げ帰るという前代未聞の珍事件が起こしたのだ。年若い王女はわがままで、年上の大公に我慢ならなかったのだという噂が流れた。世間では大公に同情が集まり、王女に遠慮して身を引いたとされたヴィオレッタの株がなぜか上がった。
結婚の期間中は大公からの手紙はあまり来なかったが、離婚後はまた頻繁に来るようになった。しかもかなりの長文だ。直接は書いてこないものの、ヴィオレッタに戻ってきてほしいのだろう。
大公はとても良い人だ。ありがたい申し出だと思う、きっと悪いようにはしない。
……しかし、それでもヴィオレッタは公国に戻ろうという決心がつかなかった。
ヴィオレッタは窓の外を見る。晴れ晴れとした空と、その下の懐かしい建物たち。建物の間を、網目のように張り巡らされた水路が通い、ゴンドラがゆったりと流れていく……。
東西交易の中心として栄える国際都市ラザロ。死神と出逢い、異母妹への復讐を誓って旅立った町。
まだ、ラザロ《思い出》から離れる気にならなかった。
今、ヴィオレッタはラザロに滞在している。
公国で立ち上げたレース工房と陶器工房をそれぞれ成功させた彼女は、いくつかの邸宅を持つようになっていたのだが、それはラザロにあるラヴァンの邸宅も例外ではなかった。
カルロッタが死に、当主夫妻が公国で軟禁されたことにより、ラヴァン家は衰退をよぎなくされていた。わざわざ泥船に乗る輩もいるはずもない。
二年ほど前に大公からの恩赦により夫妻はやっとラザロに帰ってこられたのだが、もはや沈みゆくラヴァンをどうにかする力など残っておらず、ラヴァン家は破産寸前まで追い込まれた。
そこで売りに出されたラザロのレース工房の権利をヴィオレッタは匿名で買い取った。彼女が行ったのは、ラヴァンに愛想が尽きて辞めた熟練のレース職人たちを呼び戻し、彼女がデザインした意匠のレースを作り出す工房へと生まれ変わらせることだった。
今やヴィオレッタのレースは大陸中を席捲している。その「最新作」が手に入るとあって、ラザロのレース工房は見事な復活を遂げた。
さらにヴィオレッタは工房と同様に売り払われたラヴァンの邸宅も買い取った。当座の大金が手に入ったと喜ぶラヴァン夫婦の前にヴィオレッタは姿を現わし、ラヴァン家のすべての権利を自分に譲るように交渉した。
『ラヴァンの工房を買い、再生させたのはこの私です。もう、あなたがたの財産を受け継ぐ権利を持つのは私だけですよ。もちろん悪いようにはいたしません』
ヴィオレッタの巧みな説得に、まず父が陥落した。つぎに、母が。
彼女はラヴァンのすべてを巻き上げると、ふたりをそれぞれ別の修道院に送った。
死んでしまったカルロッタのために、と言えば、彼らは喜んで祈りを捧げた。
あの夫妻にとって、カルロッタは死んでもラヴァンの娘なのだろう。ヴィオレッタとは違い、無償の愛を捧げる対象だ。
あの家族を思い出すたびに、死神のことも考える。ラザロでの嫌な思い出の中で、真実、彼だけはヴィオレッタを大事にしてくれたから。
ラザロにあるラヴァンの邸宅に住まうのは、つまらない感傷のためだとはわかっていた。空っぽになったラヴァン家に君臨したところで留飲が下がるわけがない。そもそも復讐が空しいものとはわかっていても、止められなかった。止めたら、ヴィオレッタ自身の「何か」が消えると思った。しかし、復讐を為したところで、何かが生まれるわけもなく、とりとめのない時間が流れていくだけ。ヴィオレッタが死神から与えられたのは、どう使っていいのかわからない「余生」だった。
――だって、死神がいないもの。
ヴィオレッタはため息をついて、テーブルに用意した仮面をかぶり、黒いマントを身に付けた。
ラザロでは、今年のカルナヴァルがすでにはじまっていた。昔、ロレンツィオに銀の指輪をもらったのも、カルナヴァルでの出来事だった。華麗なる都市国家ラザロの、さらに華やかなハレの日だった。
気分は鬱々としているが、祭りの明るい雰囲気に触れれば、少しは楽しい気持ちになるかもしれない。
今のヴィオレッタを見たら、死神が心配するだろう。幸せになってほしい、と死神はことあるごとに彼女に言っていたから。だから少しぐらいは無理をしよう。
彼女は黒いマントを身に付け、部屋を出る時、振り返って戸棚の陰を確認した。これは癖のようなものだった。
今でも、死神がそこにいないかとわずかばかりでも思ってしまう。
「少し外に出てきますね」
使用人に一言告げてから、彼女はひとりで邸宅を出た。
町に出た。しばらくは時に人混みに紛れながら、気ままに網のように張り巡らされた水路の脇を歩いていたのだが、だれかが尾行していることに気が付いた。もちろん死神ではない。彼の気配はもっと優しくて大きかった。
彼女は、今、カルナヴァルの習慣に従って仮装をしているし、ラザロの社交界で積極的に交流を重ねているわけでもない。顔を隠した彼女を「ヴィオレッタ」とわかってつけているのか。それとも。
――思い切って人混みを抜けたら、後ろを振り返ってみる?
しかし、ヴィオレッタは非力だ。相手が剛腕だったら抵抗できない。
彼女は混雑する通りをわざと歩くことにした。相手の気配が読み取りにくくなるが、それはあちらも同じだ。地元の人間でないなら撒いてしまえるだろう。
しばらく通りを歩いた後、通りにある細い脇道にするりと入り込む。重いマントを脱ぎすて、一目散に走り出す。
ラザロを初めて訪問した者であればまず驚くだろう、複雑に交差する道を走り抜ける。
息が切れた。ひさしぶりに外出した途端、全力疾走するとは思わなかった。顔の仮面も息苦しいので、外して手に持った。これで相手の目を誤魔化せただろうかと思うのだが、静かな小道でこそ足音がひどく目立った。後ろから追ってくる。息遣いが、聞こえてくる。近づいてくる。おそらく男だ。
自分の運の悪さを呪った。全力で走るのにも限界がある。
――どうしよう。どうする、どうする?
ヴィオレッタは走りながら光明を見出そうと、前方の景色に目をこらす。
彼女はまた、大きな水路の傍を通っていたのだが、ちょうど大きく湾曲した石橋とその下に漂う、黒いゴンドラがあった。カルナヴァルのために花で飾り立てているが、市民の足ともなっている一般的な作りのゴンドラだ。
漕ぎ手の男がひとりいるようだが、他に客が乗っている様子もない。
遠目で男が顔を上げたのがわかった。
「乗って!」
状況がわかったのだろう、漕ぎ手の男が手招きする。
ヴィオレッタはとっさに、橋へ向かって駆け出した。気配も追ってくるが、まだ彼女の意図は把握していないだろう。
橋に辿り着く。真ん中まで行く。欄干に手をかけた。
「ごめんなさい、乗せてもらいます!」
叫んで、橋から飛び降りる。ゴンドラが大きく揺れる。
「突然で、本当にごめんなさい。話は後でするので、ひとまず出してもらえますか。尾行されているんです!」
「わかった」
事情を察したのか、漕ぎ手の男はすばやくゴンドラを発進させた。橋の上では大男が悔しそうにヴィオレッタを睨んでいた。見覚えがない男だった。
ゴンドラはラザロの水路を優雅に進む。熱を持った身体は水上を走る風により徐々に冷えてくる。荒れた息も整ってきた。
彼女は改めて、漕ぎ手にお礼を言おうと思った。先ほどまで必死すぎて、顔すらまともに見てなかった。
男は顎まで覆う簡素な白い仮面をつけていた。ヴィオレッタと目が合うと、慌てたように視線を外し、ごほん、と咳払いすると、歌いだす。
ゴンドラ乗りならだれもが歌う、定番の曲だった。
――《ラザロの空はどこまでも青く》。
男の声は深みがあって、よく通る。
――《ラザロの海は澄んでいて》。
伸びやかな高音、優しい低音が耳朶を打つ。……ヴィオレッタはゴンドラを漕ぐ男を見上げた。知った面影を探して。
――《おお、麗しのあの娘が見ているよ》
また、視線が交差する。彼の方もヴィオレッタの顔から何かを読み取ろうとしているみたいだ。
彼の歌い方は、一般的なラザロのゴンドラ乗りのように、極端なまでに誇張された情感というものがない。観光客向けに脚色するわけでもなく、素朴かつ繊細に歌い上げる。
ヴィオレッタはこの歌が好きだった。幼い日のヴィオレッタの子守歌だった。せがむと時々、聞かせてくれたから。
――《どうか、私が来るまで待っていておくれ》
ああ、この声を知っている。この、歌い方。
大きな水路に出て、他のゴンドラも忙しなく行き交う中、一艘のゴンドラが乗り場につけた。ゴンドラ乗りの男がヴィオレッタに手を差し伸べた。
ヴィオレッタは、仮面を見つめたまま、動けなかった。
震える指先が、彼の手ではなく、その上へ伸びる。少し指をひっかけるだけで、仮面はあっけなく外れた。
現れた顔は。その顔は。
逢いたかった。逢いたかった。寂しかった……。
言いたい言葉が口の中で消え、気持ちが涙となって零れていく。
「死神……?」
ヴィオレッタの死神が、そこにいたのだ。




