夜の礼拝堂2
ヴィオレッタは逃げるようにして、庭園に出て来た。ロレンツォとハインリヒの前で涙を流してしまったことで、気まずくなってしまったのだ。背後から死神が追ってくる気配がする。
「死神。私は大丈夫だから」
『……そうか』
「昔のことだもの。忘れたわ」
『うん』
「さっきは動揺しただけ。きっと次会う時には何食わぬ顔をする」
『ああ。君ならできる。君は強い子だから』
目元が熱くなったヴィオレッタは勢いよく後ろを振り向いた。普通の人には見えないが、青白い顔をした青年が立っている。
「……私を泣かせに来ているの?」
『……違う』
青年はいつにもまして仏頂面になるので、ヴィオレッタは急に可笑しい気持ちになった。
死神は昔からそうだった。不器用なりにヴィオレッタを慰めようとしてくれる。家族で、師匠で、友のような存在だ。彼女の人生の中で一番大切な人だ。
人生で唯一と言っていい、幸福な出逢いだったと思う。彼がいなければ、彼女はとうにラヴァンに押しつぶされてどこかで死んでいた。
ヴィオレッタは死神と庭園を散歩することにした。傍目にはひとりでいるように見えるが、それは以前から同じだったので、特別気に留める者もいなかった。
ただ――。
「おねえさま!」
一時の平穏をかき乱すのは、いつだってカルロッタだ。
眩しいほどの金の髪。まるで絹糸のようなそれをたなびかせ、青い瞳は生き生きとしたラザロの海。艶やかなサクランボの唇で、男たちを誘惑する。
「おねえさま! お会いできてうれしいわ!」
金の妖精が駆け寄ってきた。ああ、たしかに彼女は美しい。それは認めている。悪魔的なまでの美しさ。神様が与えた魅了の力だ。
けれど。
「やめて」
抱き着こうとした両手を引きはがす。どうして、とカルロッタが笑顔のままで言うものだから、腹立たしくて仕方がなかった。
「ラザロに帰るそうね。父親と母親を放り出したまま」
「あら。もうロレンツォはそんな話をしていたのね。ええ、彼はそのつもりみたい」
「他人事ね。あなたの話でしょう?」
カルロッタは青い眼をしきりに瞬かせ、小首を傾げた。
「いいえ? わたくしは帰らないわ。ロレンツォがひとりで帰るだけ。ああ、でも心配なさらないで。わたくし、元からお父様とお母さまのことなんてどうでもいいの」
「……何言っているの。ロレンツォ様があなたを連れて帰ると」
太陽のような笑顔が不気味だった。……カルロッタは伴侶の言うことを聞くつもりはないようだ。
「ねえ、おねえさま。ロレンツォは本当のことを知ったみたいね。よかったわね、おねえさま。求婚した相手がおねえさまだってロレンツォに気付いてもらえて。今、しあわせ?」
ふふふ、とカルロッタは笑みを深めた。
しかし、これは予想の範囲内だ。真実を知ったロレンツォが妻への態度が変わってもおかしくない。
「ロレンツォ様はあなたの夫でしょう。ロレンツォ様がこの国を離れるというのなら、あなたがこの国に留まる理由もない。……これからは、ラザロでも居心地が悪くなるでしょうね。ラヴァン家の衰退は避けられないでしょうし」
「そんなこと?」
頭がお花畑になっているのか、カルロッタはまるで動じていない。
ヴィオレッタはつとめて冷静になろうと思った。状況はヴィオレッタに有利だ。ヨハンのことは気になるものの、ロレンツォは真実を知り、死神と大公ハインリヒは彼女の味方となっている。そして、彼女を無尽蔵に甘やかしてきたラヴァンの夫婦はあらゆる力を失った。
――嘘よ! 嘘です! 嘘、嘘、嘘! おまえ、気に食わないからと言って、そんなウソまでつくとは! 本当に卑しい子!
幽閉中の夫婦に一度だけ訪れた時、ヴィオレッタは取り替え子の事実を離した。かつて父の愛人だった踊り子が、ほとんど同時に、同じ場所で出産した女児ふたりを取り換えたという事実を。
自分が溺愛していた子は自分の子ではなく、苛め抜いた方が実の娘だったなどとは、ラヴァンの夫人も信じたくなかったのだろう。真実を拒絶して喚き散らし、ヴィオレッタに謝罪のひとつもしなかった。父の方は黙して何も語らなかった。どうでもいいのだろう。
ヴィオレッタはこんな親の血を引いているのかと思うと、死にたくなるほど嫌だった。はじめから、ヴィオレッタには「親」などいなかった。昔と同じように思うことに決めた。
「カルロッタ。もうあなたの思い通りにはならないわ。あなたが誇れるのはその美貌だけ。美貌は期限付きのもので、今こうしているうちにも失われていくわ。美しさを失ったら、だれもあなたを相手にしない」
「カルロッタにはおねえさまがいらっしゃるわ」
なぜか異母妹はそんなことを言い出した。
「おねえさまはカルロッタを気にせずにはいられないでしょう? おねえさまは、わたくしを一番愛しているのですから。だからカルロッタはおねえさまに何をしてもいいのよ」
心底そう思っているような、軽やかな声音だ。微塵も己の言葉を疑っていなかった。そのことにヴィオレッタは強い衝撃を覚えた。
「カルロッタ……。あなた、そんなことを考えていたの」
「あら。言っていませんでしたか? おねえさまはカルロッタの一番のおもちゃですよ。わたくし、おねえさまにだけは飽きたことがありません! だからこの国に残るの。おねえさまもうれしいでしょう?」
ヴィオレッタは、カルロッタの帰国の知らせを聞き、迷っていた。カルロッタがこの国にいる今こそが、絶好の復讐の機会であるのは間違いない。ラヴァンの夫婦への復讐は終わり、次はカルロッタだった。ロレンツォに真実を明かせば、カルロッタの立場が悪くなるのは確実だった。だからそうした。では次は……? カルロッタが持っているものをすべて奪うには?
ヴィオレッタは天啓のようにひらめいた。
カルロッタという存在は普通の人間のように考えるべきではない。自分の命や身体、立場を傷つけたとしても、びくともしない子だ。今の恋人ヨハンのことさえ、自分に都合のいい道具としか思っていない。そういうふうにしか、世界が見えていない子だ。
だが、もしも……。もしも、カルロッタという世界で、唯一、歪みきりながらも、カルロッタの中で「愛」と呼べるものが存在していたとしたら。それは、ヴィオレッタからはあまりにも意外すぎるからこそ、見えていなかったとしたら……。
カルロッタがもっとも執着しているもの、カルロッタの「愛」を奪うことこそが、彼女にもっとも痛手を与えることができるのでは、と。
彼女は試してみることにした。
「あなたが残ろうと残るまいとどちらでも構いません。好きにしなさい。私にはどうでもいいことです」
果たして、カルロッタは……。
「おねえさま?」
不思議そうにヴィオレッタの顔を覗き込もうとするのを押しのけて、
「『夫人』。近づかないでください。失礼ではありませんか。人を呼びますよ」
「おねえさま」
「そうでした。純粋なヨハン様を苦しめることはおやめください」
「おねえさま?」
「『おねえさま』と金輪際呼ぶことは許しません。あなたは私の妹ではありませんし、私はあなたの姉ではありません。顔すら似ていませんし。この際ですから、縁を切りましょう。だって、本当に――あなたがどうなろうとどうでもいいのですから」
「……おねえ、さ」
「――かわいそうに」
戸惑った様子のカルロッタが、ヴィオレッタに触れようとした右手を空に浮かせたまま、固まる。
「あんなにひどいことをされていて、肉親を愛するはずがないでしょう。身内だから何でもしていいと思うなんて、かわいそうな子ね」
あくまで慈悲深い顔を装って、ヴィオレッタは囁いた。
「――ラザロにお帰りなさいな。だれからも愛されずに老いていきなさいな。さようなら、カルロッタ」
「何を言ってらっしゃるの」
異母妹の声が震えていた。初めて、動揺するカルロッタを見た気がした。
今のカルロッタは美しくなかった。光背すら見えた美貌が水気を失って力なく垂れる花のようだ。
カルロッタは、美貌を誇っていた。「おねえさま」から愛されている、という自信が、彼女を彼女たらしめていたのかもしれない。
そんな馬鹿なことがあるか、と思う。遠くから美しい異母妹を眺めているだけだった自分が、実は異母妹から一番執着されていたなどということは。カルロッタがそうなったきっかけはきっとヴィオレッタには理解できないだろうし、知る機会もないだろう。
ヴィオレッタは遠くから自分を見守っていた侍女を招き寄せると、カルロッタを部屋に連れていくように頼んだ。
「抵抗するようであれば、衛兵に取り押さえてもらいましょう」
「かしこまりました」
カルロッタはドレスの裾を皺になるぐらいに握りしめて、「おねえさま」と子どものように彼女を呼び続けていた。
「おねえさま、おねえさま、おねえさま……。カルロッタはここにいるわ。ねえ、こっちを見てよっ!」
「やはり、衛兵を呼んでもらいましょう。ごめんなさいね。手間をかけさせて」
「いいえ、とんでもございません」
「私は部屋に先に戻っているから、あとはお願いします」
「はい、お任せください」
侍女数名に取り押さえられたカルロッタに背を向け、ヴィオレッタは重苦しい気持ちでその場を後にする。
「おねえさまっ!」
カルロッタが後ろで絶叫したのが聞こえてくる。
「カルロッタは! 何をしてでも、ここに残ります! おねえさまはわたくしが一番ですからっ! 昔の哀れなおねえさまはどこに行ったのですか! ……だれが! おねえさまを変えてしまったのですか! あの大公ですか、それとも……! おねえさまの夫とかいう死神伯爵ですか!」
だんだんと、ヴィオレッタは足早になる。庭園からようやく建物に入り、カルロッタの声も聞こえなくなった。
ほっと息をついて、死神に話しかけようとした時、思わず立ち止まって、柱の影を凝視した。
ヨハンが瞬きもしないで、庭園に続く開かれた扉を見つめていたのだ。あそこからは、まだカルロッタの姿が遠目でも見えているに違いない。
妙な胸騒ぎを覚えた。
――ヨハンは最近、廃嫡されるという噂が流れていた。




