銀の指輪の少女2
ロレンツォがサロンから出ていった後、彼女はひたすらにレースを編んでいた。黄昏から夜色に染め上がる室内には気づきもしなかった。
『ヴィオレッタ。もう暗い。目を悪くするぞ』
ひんやりとした手がレース針を彼女の手から引き離す。
彼女は少し驚いた。ロレンツォとの会談にもひそかに同席していたことは気配でわかっていたのだが、終わってからもヴィオレッタの傍らから離れなかったことが、意外だったのだ。
空っぽの両手が何とも落ち着かず、死神に半ば当てつけのように文句を言った。
「あなたなら、もっと早くに止めるかと思ったのに」
『何と声をかけたらよいのかわからなかった。ロレンツォに渡した指輪は大切な思い出だっただろう』
「おおげさだわ」
座っているソファーに深く沈みこんだ。ドレスがくしゃくしゃになるからと侍女に怒られるだろうが、今は許してほしかった。
「ようやく返せたから、それでいいの。私にとって、あれはもうただの指輪。それ以上でも以下でもないわ」
『……そうか』
「あの指輪を返した理由。なぜ私が指輪を持っていたのか。……今の彼ならば、理解できるでしょうね。カルロッタのかけた『恋の魔法』が解けた今だからこそ、私の言葉が彼に届くの」
昔のヴィオレッタが泣いて真実を叫んでも、誰も耳を貸さなかっただろう。
ヨハンが真実よりも、甘い夢を信じたように、ロレンツォにもそんな時期があったはずだ。
もしも死神や大公がいなければ、ヴィオレッタは世の中すべての男が嫌いになっていただろう。だれもかれもころりとカルロッタに騙されているから。
「ロレンツォ様とカルロッタは、部屋が別れているらしいの。ヨハン様がそう命じたんですって。案の定、あの子は自分の部屋には帰らない。今も、ヨハン様のお部屋にいるのでしょうね」
『……ああ。いるよ』
「カルロッタが、ヨハン様と結婚できたなら。王の母になる、という神様が決めた運命が成就するわね。でも、私がロレンツォ様を通して介入できたのなら、運命は変わるはず……よね?」
死神と契約していなければ、ヴィオレッタの命はとうになかっただろう。だが生きて、大公の愛妾となり、カルロッタに相対できるようになった。カルロッタの運命にだって介入できるはずだ。死神には手出しできずとも、ヴィオレッタ自身は普通の人間なのだから。
『ヴィオレッタ。人の心は本来、たやすく動かせないものだ。彼の決断を待とう』
死神は彼女にはいつも優しかった。事実を口にすることはあっても、彼女を絶望させることは言わない。
凍える瞳の中にひそむ柔らかな感情は彼特有のもの。だが、どうしようもなく寂しさを感じる目つきを見て、ふと、
「ねえ、死神。ロレンツォ様の傍にいた従者って、どうしてかわからないけれど、不思議と、あなたと似た雰囲気をしていたわ」
ロレンツォが去る際にも、くるっと振り返って、にやりとしてみせた彼。その肌は絶望的なほどに蒼褪めていて……自然と死神を思い出したのだ。
『気にするな』
死神は短く言った。
ロレンツォは、寝室で指輪を眺めていた。大公の愛妾から手渡された銀の指輪だ。物思いにふける彼を止める者はだれもいなかった。彼の世話をする者はみな遠ざけている。
本来は二人で寝るはずの寝台だが、ここしばらくは一人用となっていた。
掌で転がし、ランプの火に照らしてみたり、時に目を瞑って指輪を胸の上で握りこむ。それだけで、ロレンツォの記憶はたやすく過去へと遡ることができたのだ。
――かつて、この指輪は彼の母が身に付けていたものだった。
ロレンツォはこれを母の形見の品として大切に持っていたが、ある少女へ贈ったのだ。
祭日に出会った少女との結婚の約束の証として。初恋だった。
ラザロで盛大に行われるカルナヴァルでは、期間中、仮装の人びとで溢れかえる。仮面は祭りの一時だけでも己の身分を忘れるための道具だ。ロレンツォと少女も、互いに目元を覆う仮面をかぶった姿で出会った。人気の少ない水路の傍で彼女が何かに追われているように大きく息をあげていたから、声をかけたのだ。
『君、だいじょうぶ?』
そう声をかけたのがきっかけ。彼女はびっくりしたようにこちらを振り返り……スカートを翻し、駆け出した。ロレンツォはあっけにとられたが、少女の背後からひらりと白い布が落ちたのに気づき、とっさにそれを拾い上げると、少女を追いかけた。
疲れ切った少女の足とは違い、ロレンツォは元々健脚だったから、すぐに彼女を捕まえた。
『追いかけてごめんね。君、これを落としたみたいだから』
白い布を差し出してからやっとロレンツォは気づいた。
『このレースのハンカチ、素敵だね』
素直な感想を口にしたのがよかったのだろう、仮面の下の彼女がふわりと微笑んだ気配がして、心の扉が少し開いたような気がした。
少女は胸にハンカチを押し抱く。
『わ、わたしが編んだの……。拾ってくれてありがとう』
互いに名前は名乗らなかったが、不思議と話が弾んだ。いつしか、ゴンドラ乗り場の端っこで話に夢中になっていた。少女は少し遠慮がちだが礼儀正しく、優しいところが好ましかった。次の日も会う約束をして、別れた。
翌日も、その翌日も。その年のカルナヴァルの間は毎日のように会っていた。
『ねえ、僕たち、結婚した方がいいと思うんだ。こんなに気が合う女の人ははじめてだよ!』
そう言って、不思議そうな顔になる少女に銀の指輪をはめた。
『お母様の形見なのに……代わりにならないとは思うけれど、これ』
彼女はレースでできた小さな指輪を見せた。
『ありがとう。そうだ、君の手で嵌めてみせてよ』
『うん』
カルナヴァルの最終日。互いの「指輪」を交換して別れた。
ロレンツォはすでに彼女の正体に気付いていた。話のはずみで、彼女は自らがラヴァン家の人間だと口を滑らせたことがあったから。
彼はすでに女性たちからの人気を集めていたから、彼が正体を明かして彼女に正式に求婚したら、さぞや喜ぶだろうと思っていた。この小さな企みは、実際に実行されたし、ラヴァンの『彼女』は大層喜んでいた。想定外に美しい少女が目の前に現れたものだから、ロレンツォも浮かれた。
『まさか、あの方がロレンツォ様だったなんて……』
求婚当初は話がかみ合わないところもあったが、彼女はすぐにロレンツォを「思い出した」。求婚も受け入れてくれた。結婚話はとんとん拍子で進んだ。ラザロ中で、ロレンツォの結婚話を世紀のロマンスとして語られた。
ただ、彼女は母の形見である銀の指輪をなくしてしまっていて、レース編みもそこまでうまくなかったのは残念だったけれど。
彼女が落としたハンカチは大層、美しい意匠をしていたから。
「今」のロレンツォは上着の内側のポケットからシルクのハンカチに包んだ「それ」を取り出した。少し褪色していて、もう今のロレンツォの指には合わなくなってしまっている、彼女からの贈り物。
――ラヴァン家には、カルロッタのほかに、妾腹の娘もひとりいる。
この事実は知っていたが、たいして気にも留めていなかった。
今ならば、どうして疑わなかったのだろうと思っている。結婚してから数年だ……大切な人生が、音を立てて崩れていくようだった。
ロレンツォは求婚相手を間違えたどころか、ラヴァン家――最愛だったはずの妻にも騙されていた!
本当に……真にロレンツォが見初め、結婚の約束を交わしたのは。
現在では、大公の愛妾となり、北の公国の宮廷で美しく変貌したヴィオレッタ……。
「ヴィオレッタ、か。ヴィオレッタ、ヴィオレッタ、ヴィオレッタ……」
ああ、妻は自分を嘲笑っていたのだろう。馬鹿な男だ、間違えた相手に求婚して、と。
だが自分は妻を「愛さなければならない」。神の前で誓ったのだ。
――おまえの妻は浮気をしているのに?
自分の中の悪魔が今も囁いている。
――おまえも、真の愛を求めてもよいはずだ。
ヴィオレッタという女性は美しかった。カルロッタの輝くような美とは違うが、佇まいだけで積み重ねて来た教養が花開いたような重厚な美がある。この女性は年月を経るごとに美しさが増していくだろう。
昼間見たヴィオレッタの面影が離れてくれない……。
『これは、これは。面白いじゃねえか。人が思い悩む姿は御馳走だねえ』
背中を丸めて、涙を流すロレンツォを、部屋の隅から眺める黒い影。ヴィオレッタの死神と似てはいるが、別の存在だ。
『あの女の近くには「兄弟」がいるから近寄れねえが、こいつならどう動いてくれるかな』
ヴィオレッタの死神は、彼女以外に関心がない。
現に、昼間、俺が近くにいても何も言わなかったからなぁ、ともうひとりの死神がぼやく。
『よし、決めた。やろう』
彼はポケットに両手を突っ込みながらがにまたでロレンツォに近づいていく。歩きながら人の姿を取る。少し底意地の悪い笑みを浮かべた若い男である。
『やあ、こんにちは、坊ちゃん』
「は……? お、おまえはだれだ!」
『俺様のことはいいさ。それよりもあんた、大変なことになっているなあ。なあ、俺に詳しいことを話してみろよ。……これからどうしたい? 女が欲しいなら手伝ってやるぜ?』
当初、ロレンツォは混乱したものの、だんだんと状況を飲み込んだ。
「いいだろう。おまえと契約する。僕が望むのは……」
彼は死神との契約書にサインをした。




