銀の指輪の少女1
異母妹カルロッタの夫、ロレンツォは、ラザロの元首の惣領息子として生まれ、ラザロ中の女性たちの憧れの的だった。
しかし、彼は今、異国の地という肩身の狭い場所で、最愛の妻の不倫という出来事に直面し、大層気落ちしていることだろう。
この公国では君主の愛妾というものが公的な地位として認められ、大公妃のいない今の王宮ではまさに大公妃に準ずる扱いを受ける。その夫ともなれば、妻を通じてかなりの利益がもたらされるが、ロレンツォはそのような野心を抱いていないはずだからだ。
商談をしたいという名目でロレンツォを自らのサロンに招いたヴィオレッタは、まさに「やつれた」との形容がふさわしい風貌の彼と対面した。陰鬱な雰囲気はさすがに死神には負けるものの、「きらきらしい貴公子」というかつての面影はかなり薄れていた。十歳以上は老けこんでいるように見える。
従者をひとり連れてやってきたロレンツォは「初めて対面する大公の愛妾」にうやうやしく礼を取る。手をとられて、形ばかりの口づけを落とされた時には不思議な気持ちになった。
昔のヴィオレッタは、まさかこのような形で彼と再会するとは思っていなかっただろう。
「お見掛けしたことは何度かございますが、こうして目の前でお話しするのははじめてですね、ロレンツォ様。ヴィオレッタと申します」
「お会いできて光栄です、ヴィオレッタ様」
声はベルベットのようなテノールで若々しく、柔らかだ。生来の人の良さも伺えた。
ヴィオレッタは彼が何も気づいていないことを確信する。
「こちらこそ。ロレンツォ様には一度お会いしてみたいと思っておりました。商売のお話のこともありますが、同じラザロの出でもありますから。こちらの宮廷はいかがでしょうか? ラザロの元首の宮殿とはまた趣きが異なるでしょう」
「皆さま、とてもよくしてくださいます。これも同じ故郷を持つヴィオレッタ様がこの宮廷にいらっしゃったからかと存じます」
ロレンツォの言葉には裏表がないように聞こえた。気の毒だ、とヴィオレッタは思う。この優しい青年がカルロッタさえ選ばなければ……まだ心優しい普通の女性と結婚できていたのなら、今ここまで苦しむことはなかっただろうに。
彼もまた、カルロッタの被害者なのだ。
「ロレンツォ様にお褒めいただけるとは思いませんでした。ラザロの華のような方ですから」
「いいえ、僕などは……」
言い淀む彼は、話題を変えるように、ヴィオレッタのサロンを眺めて、
「ところで、あなたのサロンはラザロ風にされているのですね」
「ええ。故郷ですから」
壁紙や窓の意匠、花瓶や燭台といった調度品に至るまですべてラザロを意識して作り上げたヴィオレッタのサロンは、ラザロの北方に位置するこの国の人びとからしたら、異国情緒にあふれているように見えるだろう。公国の民は古くから栄え、文化的にも富んだラザロに憧れている。公国ではヴィオレッタの出身地は有利に働く。これはそのための演出のようなものだ。
「故郷にお戻りになりたいとは思われないのですか」
ロレンツォの顔には、自分こそが故郷に戻りたいのだという寂寥感があった。しかし、軟禁された妻の両親――すなわち、ラヴァンの夫婦を取り戻すための交渉はいっこうに進まない。なにせ、大公側からすればラザロ側の主張を聞く理由がないのだから、交渉は難航するしかないのだ。彼はもしかしたら妻を一刻も早くこの国から引き離すために、ヴィオレッタの手を借りたい心境なのかもしれない。
「私は今、大公陛下によくしていただいている身です。……それに、今はもうラザロで私を待つ者はおりません。こちらにいらっしゃってから、少しは噂を耳にされたのでは?」
ヴィオレッタの言わんことを察し、ロレンツォは紅茶の入ったカップに視線を注ぐ。膝の上で組んだ両手が動揺するように身じろいだ。
彼はヴィオレッタの生い立ちを思い出したのだろう。
「私はカルロッタの母違いの姉に当たります。ラザロでは罪人として収監されました。罪を犯した覚えはございません。しかし、ラヴァン家のいるあの場所で生きていくことなど、もうとうていできませんでした」
ラザロにいたら同じことが繰り返されたのだろう。カルロッタの尻ぬぐいで投獄され……果てには、絞首台にのぼるか、幽閉されて殺されるか。華麗なる世界で繰り広げられる蝶の舞いの舞台裏で、暗闇の中でひっそりと埃まみれで朽ち果てる。ヴィオレッタの運命はそんなものだった。同じ血を引いているのになぜ。……答えを求めてラザロを去った。
死神と契約し、ヴィオレッタは運命に抗うことを決め、今はそのとおりに、カルロッタに負けない地位を築いた。
「幸いにも公国ではよくしていただいています。私の過去など、遠く隔たったこの地では意味も薄れます」
「……あなたはご自分が冤罪であったと」
ロレンツォが言葉を絞り出す。ヴィオレッタには、彼の心が激しく揺れ動いているのがわかった。
公国に来るまでのカルロッタはロレンツォにとって熱烈な愛を持って勝ち取った自慢の、美しい妻だった。宝物のように大切にしていたのは想像に難くない。カルロッタも、夫にそう思われている方が、都合がよかったから、求められる姿でいたのだ。
しかし、公国で事情が変わった。彼女は何を思ったのか、ロレンツォを捨て、ヨハンに乗り換えた。妻の本性を知った夫が驚き、混乱するのは無理もない。
この状況はヴィオレッタには有利だった。……カルロッタがいらないと捨てたのならば、ヴィオレッタが拾ってもいいはずだ。彼はまだカルロッタの夫だ。ラザロの味方を得られる機会を逃すはずがない。
「ラヴァンには生贄が必要だったのです。自分たちにとって大事な「娘」を生かすために差し出す生贄です。ロレンツォ様も最近の出来事でうすうす感じていらっしゃるのでは? だからこそ私の誘いに乗ってこちらにお越しになられたはず」
「あ、ああ……。だが、そんな……。妻も、知っていたのだろうか」
「知らないわけがございません」
ヴィオレッタは冷たく言い放つ。
男たちはみな、カルロッタに幻想や夢を見ている。それにたやすく騙される彼らはとても愚かだ。圧倒的な美しさに目が眩み、大切なものを見逃している。
ヨハンのように女性慣れしておらず、鬱屈したものを抱えている男性にとって、あの甘い誘惑に耐えることなど不可能なのだろう。目の前のロレンツォでさえできなかったことなのだから。
「あの子は遅効性の毒です。すべての人間を自分の願望のための道具と思っているのです。たくさんの人びとに愛される才能はあっても、あの子は誰も愛しません。愛せないのです。残念ながら、ロレンツォ様もカルロッタという魔性に魅入られたおひとりです」
ロレンツォは額に手を当てて、考え込んでいた。
「妻は、優しくて、健気で、僕をいつも気遣ってくれていたのだが、それも嘘だと……?」
「そうすれば、ロレンツォ様は、カルロッタを愛するでしょう?」
かみ砕くように、ゆっくりと告げる。言わんとした意味がわかったのか、ロレンツォは眉間に深い皺を刻んだ。
「ロレンツォ様はご結婚前、ラザロ中の女性の憧れでした。ロレンツォ様に純粋に恋い焦がれる令嬢たちを押しのけて、妻の地位に座る。あの子にとってとても愉快な戯れ《ゲーム》になったのでしょうね」
「ヴィオレッタ様」
ロレンツォは呻いた。悲壮感に満ちた目が、ヴィオレッタに向けられた。焦燥と懇願の色が混じっていた。
「あなたは、この話をするために僕を……?」
「ロレンツォ様が、私と同じようにカルロッタによって苦しめられているようでしたから」
ロレンツォは元来、優しいのだろう。カルロッタが彼のようだったら、今、ヴィオレッタは公国にいなかったに違いない。
「私の言葉を信じるか、信じないかはお任せいたします。ただ、私は今、カルロッタに対抗するための味方を求めていることを覚えていただければ、十分です。このことは、公国の意思とは関係なく、あくまで私自身の問題だとご理解ください」
ヴィオレッタは、首元から指輪の鎖を引っ張り出し、ロレンツォに手渡した。
「こちらもお返しいたします。本来ならばもっと早くお返しできればよかったものの、遅くなり申し訳ありませんでした」
一瞬、不審そうに銀の指輪を眺めたロレンツォだが、急に眼を見開き、ヴィオレッタの顔を食い入るように見つめた。
「ど、ど、どうして……! どうして! これをあなたが持っているんだ! これは、妻がなくしたと……!」
ロレンツォの動揺を前にしたヴィオレッタはたまらずため息をついた。
彼の動揺は予期していた。そして、予期の先にある、ひとつの推測が、ヴィオレッタを気鬱にさせたのだ。
彼女は今、ロレンツォに、彼自身の選択の誤りを突きつけたのと同じだ。
「そうですか。あの子はなくしたと言ったのですね。……申し上げておきますが、これは、カルロッタから盗んだものではありません」




