汝、死神と契約せし乙女1
鉄格子の向こうには灰色の空が見えていて、白いものがちらついている。道理で寒いはずだと己の両手を見れば、細かに震えていて、吐く息も白かった。息を吹きかけたところで冷たい足先まで温まらない。寒い、とぽつりとこぼしたらとてつもなく寂しい気持ちになった。
『ヴィオレッタ』
骨の手が、毛布を差し出してくれた。彼はいつの間に側に来ていたのだろう。
「ありがとう」
ヴィオレッタは毛布を受け取って己の身体をくるむと、隣で立ったままの男を見上げた。
骸骨に黒い外套を纏った彼は、死神だ。人に死を運ぶ存在で、人々から怖がられている。だがヴィオレッタにとっては、幼い頃から共にいてくれる唯一の家族のような存在だった。家族。ヴィオレッタは苦いものを思い出して、浮かんだ考えを振り払う。
死神は普通の人には視えないらしい。なぜか、ヴィオレッタには昔から視えていたけれど。
視えていてよかったと思う。ラザロの牢獄はあまりにも寒いから、たとえ死神でも隣にだれかがいるぬくもりを感じられるから。
ヴィオレッタは、今日の日付を思い出し、あとどのくらいで牢獄から出られるかを数えた。
「あと、一年と三月と五日……」
もう少しで終わると思い直し、ヴィオレッタは足元で転がる編み棒を手に取り、かじかむ指でゆっくりと白い糸を編んでいく。死神は彼女の手元を覗いていた。彼はどうしてか、ヴィオレッタがレースを編んでいるのを見るのが好きらしい。
「いつか、牢獄から出られたら……お父様は褒めてくださるのかしら」
悲しげに呟く彼女の声に、死神は何も言わなかった。
本来、ヴィオレッタにも血を分けたという意味で家族がいた。実の父と母、そして異母妹。
ヴィオレッタ・アマレーロ・ラヴァン。それが彼女の名だ。
海上に浮かぶ都市国家ラザロに住む者であれば、ラヴァンの名はだれもが知っている。
ラザロの名産品のラザロ・レース。その中でも最高級品を誇る「ラヴァンレース」を生産する工房を持つ、名門貴族の名前として。ヴィオレッタはラヴァン家の当主の庶子として生まれた。母はラザロに流れて来た妖艶な踊り子で、ラヴァン家の愛人だった。幼いころは母とともに別邸にいたが、早くに母を亡くしたため、実父の元に引き取られた。
実父には正式な妻と娘がいた。正妻からしたらヴィオレッタは目に入れたくない存在であったし、実父もヴィオレッタに興味を示さなかったので、本邸に引き取られたと言ってもほとんと使用人と同じような扱いでヴィオレッタは育てられた。
彼女の異母妹はカルロッタという名で、奇しくもヴィオレッタと同年同日に生まれた。地味な容姿のヴィオレッタと違い、カルロッタは幼い頃から眩しいほどの美少女だった。金色の髪にラザロの海のような深い青をした瞳。ラヴァンの当主夫妻はカルロッタにはとことん甘く、欲しいものは何でも買い与え、彼女の邪魔になりそうなものはとことん排除した。周囲も幼いカルロッタの可愛らしさをこれでもかと賛美した。
その頃のヴィオレッタは騒ぐ使用人たちの隙間から遠目で異母妹を見るばかりだったが、輝くばかりの少女と比べて、己の惨めさに情けなくなる思いだった。どうしてあんなに違うのだろう、私も彼女のような美しさが欲しかった、同じ血が流れているのに、と。
みんながカルロッタに夢中になっていたから、だれもその内面に気付くのが遅れた。その悪魔のような内面に。
六歳の頃、興味本位で道端にあった手押し車から赤ん坊を落とし、赤ん坊を殺しかけた。
七歳の頃、下女に老婆の頭を何度も殴らせた。理由は自分に意地悪だったからだという。
この頃からカルロッタはヴィオレッタの大事なものをなぜか執拗に奪い続けた。ヴィオレッタに懐いてくれたウサギは取り上げられて、二度と触らせてもらえなかった。自分に親切にしてくれた針子の女性も、カルロッタが指さして「あの子、顔が気に入らない。見たくないわ」と両親に告げたらすぐに屋敷を追い出された。
奪われたヴィオレッタが庭の片隅でひとり泣いていると、そこへカルロッタとその侍女たちの行列と出くわしたことがあった。カルロッタは侍女たちには鷹揚な態度を見せていたが、ひとりでヴィオレッタのところに来て、蹲るヴィオレッタを見下ろした。
「お姉さまは、ずっとずっとわたくしの日陰にいてください。ずっとずっと不幸でいて、私を喜ばせてください」
楽しそうなカルロッタ。外見だけはその時も天使のように愛らしかった。
それからまもなくのこと。カルロッタの悪行を両親が隠しきれなくなった。よりにもよってカルロッタは同じ貴族の子に犬をけしかけ、一生残る傷をつけた。ラヴァン家はその家から訴えられたのである。裁判ともなれば、かわいい娘が囚人となるかもしれない。当主夫妻はそれに耐えられそうになかった。幸いにも、犬をけしかけたカルロッタの顔は相手の子に見られていなかった。身代わりを立てればよいのだ。
そこで同じ「娘」であるヴィオレッタが罪をかぶることになった。
『これも我が家の名誉のためだ。引き受けてくれるな』
急に本邸に呼び出された当時のヴィオレッタは、わけわからなかったものの、「お父様」の役に立てるのなら、と了承した。父親が「娘」であるヴィオレッタを求めていたから。そのころの彼女は、自分が牢獄に入ること自体、よく理解していなかった。
投獄の日。ヴィオレッタは本邸から馬車に乗せられた。遠ざかる本邸を目で追う彼女は、二階の窓辺にカルロッタが幽霊のように佇んでいたことに気付いた。ヴィオレッタと束の間目が合うと、ふいと逸らされ、ぴしゃりとカーテンが締まる。十歳の、雪がちらつく日の出来事だった。
一度目の投獄は数か月で終わった。晴れて自由の身になったヴィオレッタは再び屋敷に戻り、使用人としての仕事に戻った。
二度目の投獄は十五の時だった。理由は一度目と似たようなものだ。囚人の期間は三年以上にも及んだ。貴族の娘であるヴィオレッタは比較的広い独房が与えられたものの、辛いことには変わりなかった。特に冬になると牢獄では悪い風邪が流行り、ぱたぱたと人が死んでいく。ヴィオレッタに親しげに話しかける者も牢獄にはいるはずもなく。手慰みにと与えられたレース糸を編みながら、月日を数えた。
再び牢獄から出られた時、ヴィオレッタは疲れ切った十八歳になっていた。髪はぼさぼさ、肌艶もなくガサガサで、目元には濃いくまが残る。暗い牢獄にいたから、ヴィオレッタは久々の日向が眩しくて仕方なかった。
ラヴァン家からの迎えはなかった。しかし、それでも他に行くところなどないのだ。よたよたと荷物を抱えて歩き始めた彼女の前に、ふと黒い影が差した。
見上げると、金髪の、それはそれは天使のように美しい女性が、白いレースのパラソルを差して立っていた。目が醒めるような青いドレスをまとって。
ヴィオレッタは、一瞬、あれが三年ぶりに会うカルロッタとは思わなかった。どこかの令嬢がたまたま道端を通りかかっただけなのだと思った。けれど、すれ違う間際。
「痛いっ!」
右腕をきつくつねられた。女性はヴィオレッタの悲鳴に口角をあげた。
「おまえは一生、わたくしの身代わりなのよ」
その冷たい声音にぶるりと背筋が震えた。一生? 一生、同じことをするの?
ヴィオレッタは「家族」のためにと我慢してきたのだ。二度も投獄されたのだって、そうしたら「家族」が喜ぶから。ヴィオレッタのことを「家族」だと認めてくれるかもしれないと思ったからだ。しかし、結局のところ、カルロッタには「身代わり」でしかなく。
『おお、なんとかわいそうに。かわいそうな子だ……』
耳元で、牢獄にいた老婆の声が蘇る。その老婆は、昔、ヴィオレッタとカルロッタ、それぞれのお産に関わった産婆だと名乗った。老年に入ると貧困にあえぎ、盗みを働いて捕まったのだと。
『やはり、血は争えぬ。男を虜にする卑しい血があの娘には流れておるのであろう。そのために、本物の嫡子が牢獄に入るなど!』
老婆は嗤っていた。ヴィオレッタを見ながら。
『おまえさんこそ、本当のラヴァンの子。しかし、あの踊り子が我が子を取り換えるようにわしに金を握らせたのさ。正妻のことを心底恨んでおったからのう……』
にんまりとする老婆は醜悪だった。憐れむふりをしているだけで、ヴィオレッタに遅効性の毒を飲ませた。
ヴィオレッタは、三年ぶりにカルロッタと対面して、この毒が全身に回っていたことを知った。本当のところ、わかっていたのだ。何年も前から徐々に澱んだ感情が胸の奥底に堆積していたことは。
――本来、私が持っているべきものをカルロッタが奪っていたのなら。
「ラヴァンの娘」、「ウサギ」、「針子の女性」、「自由」……。カルロッタに奪われ続けてきた人生を、やめにする。次は奪う。カルロッタの輝かしいだろう今後の人生すべてを。
――今度は私が……すべてを、奪ってやりたい。
明るい陽射しの下、すれ違ったばかりのカルロッタは陽炎のように消えていた。
死神。死神、死神……。
「死神!」
足元から伸びる濃い影。影が地面からせりあがり、人を形づくった。骸骨に、黒い外套をまとった人でないものが顕われる。
彼は幼いころから気づけば傍らにいた。骸骨でもわかる、陰鬱そうな表情で。死神だろうが、知ったものか。死神以上にヴィオレッタに優しい人はいなかった。
『ヴィオレッタ……』
死神は躊躇いがちに名前を呼ぶ。彼女の心の動きなど、死神には筒抜けだ。それだけ長い時間、共にいたのだから。
――死神は、ヴィオレッタの願いを喜んでいない。
それでも彼女は死神に縋った。
「叶えたい願いができたわ、死神。カルロッタに復讐したい。あの子の全部を奪いたいの。協力して」
『だめだ、ヴィオレッタ……。死神と契約してはいけない。契約したところで、カルロッタは神に愛されている。神相手には手が出せない』
「なら、死神と契約した人間は……?」
ややあってから、「できなくもないだろう」と彼は渋々認めた。
あのカルロッタが、神に愛されている?
「ふざけていると思うわ。……あのカルロッタが、王の母になる運命だなんて」
カルロッタには王の母になる運命がある。死神からはそう聞かされていた。
当時は半信半疑だったが、最近、噂でラザロの最高権力者、元首の息子との縁談が持ち上がっていると聞いたので、あながち間違いとも言えないだろう。
『強い運命を持つ者は時々、あらわれる。それを曲げるのは、死神にさえ難しい』
「いいわ。運命を曲げるのは私だから」
『だが、ヴィオレッタ』
「『契約すれば、死後、死神へ魂を差し出すことになる。元々持っていた寿命は短くなり、願いがかなえられた瞬間に、魂を奪われる。天国への道は閉ざされ、永遠に孤独の荒野を彷徨う』。……ちゃんと覚えているわ。それでもいいの。それぐらいしないと、カルロッタには勝てないでしょう?」
死神の沈黙は、肯定と同じだった。
「契約して、死神。わかっているでしょう? このままラヴァンに戻ったところで、私は死ぬまでラヴァンに飼い殺し。そのうち、カルロッタに間接的に殺される運命が待っている。逃げたところで、ラザロとその近辺でラヴァン家の干渉なしに生きられるわけがない。……逃げるのはいや。私は戦いたい。戦う理由があるの」
本当は、ヴィオレッタも家族から愛されたかった。父と母がいて、妹がいて、単純なことで笑い合えるような家族がほしかった。……だが、彼らは何も与えてくれず、ヴィオレッタから何もかもを奪ってきた。
二度の投獄で、ヴィオレッタは幸せな幻想を静かに諦めた。決してもう何かを奪わせはしない。奪い返す。たとえ地獄の果てに行くことになろうとも。
死神の手が、懐へ伸びる。
『……契約しよう』
青白い炎を薄くまとった羊皮紙がヴィオレッタの前に浮かんでいた。死神の骨の手が羽ペンを差し出す。
『名を書くといい』
「ええ」
不可思議な光景に驚きつつも、ヴィオレッタは羽ペンを手に取った。人差し指の先がちくりと痛む。インクをつけずとも、羽ペンから赤いインクが滴っていく。……ヴィオレッタ自身の血だ。
白紙の羊皮紙に羽ペンの先をつけ、ヴィオレッタ自身の名を書いた。「ヴィオレッタ・アマレーロ・ラヴァン」。羊皮紙を包んでいた青い炎が赤色に変化する。死神は羊皮紙を手に取り、書かれた名をじっと見つめ、羊皮紙を元のように仕舞いこんだ。
『契約が成立した。ヴィオレッタ、これで君は死神が持つ大いなる叡智と、類まれなる幸運を手に入れた。これからどうしたい』
「カルロッタに対抗するだけの力が欲しいわ。……北に行くわ。ラザロの影響力が及ばない地域に。来てくれるでしょう?」
『わかった』
骸骨はヴィオレッタに近づくと、深くかぶっていたフードを取り払う。躊躇いがちに骨の口元がヴィオレッタの額へ。
抵抗しなかった。これまでも寝る時にたまにされてきたことだったからだ。相手は骨だったから、いつも硬い感触が額に触れて。
ただ。
「え?」
柔らかな感触が額に降ってきたので驚いた。大人しく瞑っていた目を見開けば、そこには、見知らぬ男がいた。
血の気のない、黒髪で灰色の目をした男。きりりとした眉毛が印象的な麗しい人だった。
「死神……?」
「ああ」
声は死神のものと同じ。その声の出所が、骸骨からでなく、薄い唇からなのが、心底不思議に思えた。
「女ひとりで旅するのは難しい。私も人の形を取ることにした」
「夫婦のふりをするのね。わかったわ」
死神から差し出された手を取る。その手もやはり、普通の人間の手だった。ただ触れるとあまりにも冷たかったが。ヴィオレッタは死神の手を握りこむ。彼女の手の熱が伝わって、死神の手が温まっていく。
今までもよりも表情がわかりやすくなった死神は、居心地が悪そうだったが、嫌がりはしなかった。
「死神、行きましょう」
こうして、ヴィオレッタ・アマレーロ・ラヴァンは、ラザロの町から姿を消す。次にその名が響くのは、五年後。彼女は、北の大公国の君主の愛妾となっていた――。