第18話 生きがいのない女、死にがいのない男
1
警告音とともに駅の自動改札口の扉が閉まった。俺は一瞬ヒヤリとしたが、そんなはずはないとその扉を「すり抜け」た。後ろを振り返ると、首をかしげながらICカードを改札機に当て直している中年の男の姿があった。
そう、そんなはずはない。俺は自嘲するように苦笑を浮かべ、再び前を向いて、ホームに向かう「女」の背中を追った。
高円寺駅を降りて、乾物屋のあった商店街を通り抜け、歩くこと十分。女の一人暮らしには決して安全とは言えない木造アパートの二階部分の一番奥に女の部屋はあった。既に秋の空は暗く、風は冷たくなってきている、はずだ。
女に続き、俺は部屋の中へ入った。殺風景な八畳一間。家具と言えばベッドと、小さなテーブルと、テレビ、タンスくらいしかない。女の性格なのか、部屋は綺麗に片付いていて、それがいっそう部屋を物寂しくしている。
女はベッドに腰掛け、先ほど郵便受けから取り出した郵便物を振り分けた。殆どはゴミ箱へ向かったが、振込用紙の入った封筒は、タンスの上段の引き出しに仕舞われた。
俺はそのタンスの横、ちょうどベッドの足下にあたる「定位置」に立って、女を見つめていた。
女はスーパーで買った総菜を温め、自分で野菜炒めを作ってから、テレビの前で黙々と食べた。食事は美味しいのか不味いのか、テレビは面白いのかつまらないのか、女の表情からは分からない。いつもそうだ。その退屈な食事風景を、おそらく俺も同じような表情をしながら、定位置で眺めていた。女は食器を洗い、片付けると、シャツとスカート、ストッキングを脱ぎ、下着姿で浴室へ向かった。俺もその後を追う。
女がシャワーを浴びている間、俺は空っぽのバスタブの中に立って、女を眺めていた。軀の線は細く、胸や尻も薄い。およそ母性を感じられない。右の足首と左の鎖骨に、古い大きな傷跡がある。その女の軀を俺は決していやらしい気持ちで眺めている訳ではない。長時間の間、目を背けることはできない。そういう、ルールなのだ。
髪を乾かし終わり、顔に安物の化粧水を塗ると、これ以上自分の顔を直視したくない、とでも言うように乱暴に鏡の蓋を閉じて、再び女はテレビの前に座った。VODのモキュメンタリー番組を、能面のような顔で眺める女を、俺はタンスの横に立って眺める。一時間ほどして、女はベッドに潜り込むと、少しの間スマートフォンをいじって、照明を消し、眠りについた。
俺は女の寝姿を足下からずっと見ていた。
夜が明けるまで。
2
八年前の今頃、俺は空から落ちてきたこの女に直撃し、首の骨を折り、頭の中が出血し、死んだ。八階建てのオフィスビルから身を投げた女は、不幸にも俺のせいで死ねなかった。一瞬の出来事で、何が起こったのか俺には全く把握できていなかったが、奥深い感覚では、今ここにある深い悲しみと喪失を理解していた。
地に伏せ、消えゆく意識の中、俺の目の前には同じように地面でぐったりとしている女の顔があった。女と目が合った。女は泣いている。俺は血の溢れる目でその女を睨み付け、女を恨み続けることを誓った。
気がつくと、俺は現場である八階建てのオフィスビルの前に立っていた。人々が俺の前を往来し、俺にぶつかることなく「すり抜け」ていった。俺は地縛霊のようなものになったことを悟った。血の海だった現場は何事もなかったかのように綺麗になっていて、一時期置かれていた花やペットボトルも、二年もすればなくなっていた。
俺は往来する人々をぼんやりと眺めていた。オフィス街のため、毎日ほとんど同じ時間に、同じ人々が歩いている。俺はそんな人たちの、服とか、髪型とか、その日の細やかな表情の移ろいとか、そういったものを眺め、立っていた。唯一、心の動く時間だったのは、婚約者だった真奈を見かけるときだった。真奈とは同じ会社で働いていたので、朝と夜、ここを通るのだ。俺が死んでからまもなく、真奈は明らかに憔悴した顔でこの通りを歩いていた。彼女の姿を見るのが少しだけうれしく、そしてとても辛かった。一年ほど経つと、彼女の姿を見かけなくなった。俺は彼女の未来に思いを馳せながら、流れない涙を流した。
五年が経った。
俺は時代遅れの服を着たまま、五つ歳をとった人々の姿を眺め続けていた。感情は薄くなり、思考する時間も少なくなっていた。存在したまま消えていく感覚、しかし決してゼロにはなれない確信の狭間にいた。
ある日、俺の前にひとりの女が現れた。長い髪は水分を失い、同じように皮膚も乾いていた。春の陽気に全く似合わない女だった。その女が、俺のことが見えるはずないのに、俺の前に、いや、正確には、あの現場の前に立っていた。
女は深く頭を垂れて、俺の見る前で細い手を合わせた。どれくらいそうしていたか分からないが、女が顔を上げた。一重の薄い目、薄い唇、色素の薄い皮膚。五年の歳月が流れていたが、俺は決してその目を忘れたことはなかった。あの日、空から落ちてきた女の目だった。
女はもういちど深く頭を下げると、その場を離れた。その女を目で追った瞬間、俺の体の重力がふっと抜けるのを感じた。体を動かす。歩ける。しかし、何かおかしい。決して自由に自分の体を動かせている訳ではない。何だか、強い風が自分の背後から吹いていて、その風は、女の背中へ向かっている。歩けば、俺は女のもとへと近づいていく。俺はしばらくの間、そうやって女の背後を歩いた。当然だが、女は俺に気付かない。女がバス停の前で止まり、バスを待つ。俺も歩みを止めた。
そのとき、背後から吹いていた風がやんだ。辺りが急に暗くなり、それなのに、空だけがひときわ明るく輝いた。俺は空を見上げた。眩しい。
バスがやってきた。女がそれに乗り込もうと列に並んでいる。俺はその女の横顔を見た。虚ろに投げ出された瞳。俺はその瞳を見ながら、思い出していた。あの時の、恨みを。一瞬にして全てを奪い去られた、悲しみと怒りを。俺はもういちど輝く天を仰いだ。
俺は深い息をひとつ吐き、女と同じバスに乗り込んだ。
3
女の背後を追いかけるようになって数ヶ月。俺はこの女がなぜオフィスビルから身を投げ、そしてその後の五年間なにをしていたか、断片的に知ることができた。
当時、女は二五歳で、俺のオフィスの近くのイベント会社で働いていたこと。
上司の男といわゆる不倫の関係となり、体と金を貢いだこと。
その金のために、会社の金に手をつけたこと。その額が、もはや後戻りできないものになっていたこと。
上司の男から突然見切りをつけられたこと。
偽りの愛を失い、横領がいつ明るみにでるか分からない状況に絶望したこと。
実家の母に遺書を送り、身を投げたこと。
奇跡的に一命をとりとめたが、「事故」と「殺人」をコールする世論の的となったこと。
責任に耐えかねた女の父が自殺したこと。
「重過失致死」という罪状をうけ、五年間の服役生活を送っていたこと(そのうちの一年間は傷のリハビリ生活に費やされたこと)。
横領先の会社は、彼女に同情し、少しずつ金を返すことで罪には問わないとしたこと。
刑務所を出て、大阪から東京へやってきたこと。
東京の介護施設で事務の仕事に就いたこと。
履歴書の空白の五年間は結婚して家庭に入り、その後、離婚したと説明したこと。
4
阿佐ヶ谷駅の北口を少し歩いたところに、女の新しい職場はあった。タイムカードを入れ、フロアの職員と無機質な挨拶を交わし、女はデスクに座り、書類を作り、施設内の備品を補充し、デスクに戻ると、持参の弁当を食べた。俺の職場での「定位置」は、女のデスクの左隣にあるコーヒーメーカーの側だ。
女のランチタイムを眺める俺を「すり抜け」て、同僚の野原が女に近づいてきた。
「小牧さん、食事中にごめんね」
野原は女より三つ年上の女性だ。女が返事代わりに顔を上げる。
「来週の金曜日、介護部の人たちと阿佐ヶ谷のコトノハに行こうと思ってるんだけど、ほら、たまに雑誌にも載る中華料理屋さん。よかったら小牧さんも行かない?」
「ああ、コトノハ、有名ですよね。けど、私は、遠慮しておきます」
抑揚の薄い声で女は答えた。俺は女が誰かと食事をするのを見たことがない。
「やっぱり。そう言うと思ったけど、今日はここであきらめるわけにはいかないんだよね」
野原が顔を近づけてくると、女は少しだけ怪訝な顔をした。
「介護部の本山君が、いちど小牧さんとご飯食べたいって。本山君、知ってるでしょ?」
女はうなずいた。本山君は俺も知っている。介護部にいる、去年入職したばかりの二〇代の青年だ。そして、俺に次いでこの女の姿を探し回っていることを、知っている。
「本山君、わりと人当たりいいし、ちょっと髪薄いけど・・・、あ、ごめん。気が進まなかったら、席遠ざけるようにするから、まずは様子見って感じで、どう?」
「すみません、私は・・・」
拒否の無言を貫き、女は目を伏せた。野原は肩をすくめると、
「だよねえ、小牧さんは難攻不落だって、本山君には言ってるんだけどね」
野原が去ると、女は安堵の表情を浮かべて、再び弁当を口に運び始めた。そんな女を眺めながら、俺はこの女のどこに魅力があるのかを考えていた。色や幸の欠片もないこの女は、本山君の介護の心を沸き立たせるのだろうか、などと考えていた。
高円寺駅のスーパーで食材を買い、月に一度、それなりの金額を銀行で振り込み、家に帰って些末な食事をし、シャワーを浴び、テレビかスマートフォンを見て、寝る。暗闇の中で、死人のように寝相のよい女の寝息を聞きながら、俺はずっと立っている。
5
この日、女は大阪にいた。高槻駅を降りると女はバスに乗って郊外へ向かう。俺がいた頃に比べてすっかり垢抜けた駅前だが、少しバスで走るとまだまだ田舎の景色だ。女はいつもよりいっそう地味な服装で座り、花を膝にのせて車窓を眺めていた。
バスを降りてしばらく歩き、霊園についた。初めて女がここを訪れたときは、俺の実家に寄って俺の両親に頭を下げたのだが、包丁を持った俺の母に追いかけられてからは、直接霊園に向かうようになった。
俺の名前が堂々と彫られたお墓の前で、女は屈んで手を合わせた。その女を見下ろしながら、俺が立っている。俺だけが、この墓には何も住んでいないことを知っている。
「また、来てくれたんか」
女と俺が同時に振り向くと、手桶と柄杓を持った俺の父がいた。女は立ち上がり、黙って頭を下げた。
学生時代ラグビー選手であった俺の父だが、一年ぶりに見ると、また小さくなったように感じた。父は女の横で手桶からすくった水を俺の家にかけ、布で綺麗に拭くと、皺の増えたごつい手を合わせて目を閉じた。女も黙って手を合わせる。
「普通の、息子やったんよ」
目を開けた父がつぶやいた。女が少し驚いて、父を見た。
「普通に学校行って、普通に就職して。ほら、あるやろ、俺は音楽で一花咲かせる、とか、起業して大金持ちになってやる、とか、そういう気概を息子から感じたことがいちどもない。それがちょっと心配なくらいやった。こんなんで家庭もってたくましくやっていけるんかなと」
俺は女の後ろで、むずがゆい気持ちになった。
「けどな、それでよかったんやな。普通でない死に方するくらいなら、普通に長生きする方がええよな。多分あんたも、普通に生きてきたんやろ」
女は顔を伏せた。そんな女を知ってか知らずか、父は続けた。
「もうあんたはここに来たらあかんよ。うん、来んといて欲しい」
そう言って父は踵を返し、どこか寂しい足取りで歩き始めた。おそらくもう二度と見ることのない父の背中を、俺は女と一緒にいつまでも眺めていた。
*
「じゃあね、大将、また週末に来るよ」
「ありがとね。気をつけて」
赤ら顔をした上機嫌の常連が扉を閉めて出て行くと、店の中には静寂と洗い物の食器と、店主の甲本だけが残っていた。閉店まであと一時間といったところだ。水曜日だから、そろそろ宇都宮の爺さんが一杯やりに来て、それで今日は終わりだ。
変わらない毎日。退屈と言えばそれまでだが、甲本はこの生活が気に入っている。年々、刺激を必要としなくなっている自分がいる。
常連の皿を洗い場に放り込み、甲本はタバコに火をつけようとして、やめた。宇都宮が禁煙中だったのを思い出したのだ。明日の買い出しのメモを確認しようと厨房へ入ろうとしたとき、入り口のドアがカランと開いた。
「いらっしゃい」
甲本は出迎えることなくそう言って、厨房の冷蔵庫に貼ってあったメモをはがし、カウンターへと戻ってきた。宇都宮の姿はなかった。入り口に、女性がひとり立っていた。
「あ、いらっしゃい」
甲本は慌ててもう一度そう言った。
「ひとりなんですけど、いいですか」
「どうぞ」
その女性はカウンターを見渡し、どこに座るべきか考えあぐねていたようだったので、甲本は一番左側の席におしぼりと箸を置き、彼女を誘導した。彼女は席に座ると、静かにおしぼりで手を拭きながら、視線だけで店内を観察していた。
「何か飲みますか?」
「あ・・・ウーロン茶をお願いします」
「あいよ。メニューはそこにあるから見てね」
甲本は冷蔵庫から氷とペットボトルを取り出し、茶をグラスに注いだ。カウンターに置くと、彼女は僅かに会釈した。
年齢は三十半ばばだろうか。いや、もう少し若いのかもしれない。しかし、水分の抜けた髪と肌、化粧っ気のなさ、どことなく陰気な表情が、彼女を悪い意味でぼやかしている。
「夕飯、まだ食べてないの?」
「え?はい・・・」
「そうかい。この時間だとうちとコンビニくらいしか開いてないからね、このあたりは。ほい、突き出し」
甲本はカウンター越しに小鉢を差し出した。今日は水菜とチャーシューの辛子和えだ。
「ありがとうございます。じゃあ・・・ポテトサラダと、鰺の南蛮漬けを、ください」
「それだけでいいのかい?」
「え?」
「そんなんじゃ腹いっぱいにならんでしょ?うちの看板料理も食べてってよ。トロロ餃子」
「・・・じゃあ、それもください」
その時、入り口の扉がまたカランと開いた。今度こそ見知った好好爺がそこに立っていた。
「こんばんは」
「いらっしゃい。待ってたよ」
宇都宮は店に入るなり、見知らぬ女性の姿に目をとめた。
「おう、珍しいな、この店に一見さん。それも若い姉ちゃんとは」
彼女は二つ隣の席に座った宇都宮の方をちらりと見て、困った微笑を作りながら会釈した。甲本はいつものように宇都宮に芋焼酎のロックを差し出す。還暦をこえても現役で農家を営んでいる宇都宮の腕はまだまだ逞しかった。
「姉ちゃんのそれは、ウーロンハイかい?」
「いえ、普通の、ウーロン茶です」
「どうりでしけた面しとるわけやな。酒、飲めへんのか?」
宇都宮は焼酎を舐めながら、ずけずけと彼女のテリトリーに踏み込んでいく。
「そうでも、ないですけど」
「あいよ、ポテトサラダと南蛮漬け」
助け船のつもりで甲本は料理を彼女の前に置いた。が、既に飲んできているのか、宇都宮の調子は変わらなかった。
「こんな辺鄙なところに、何の用事があるんや?その顔見ると、あんまりおもろい用事とちゃうやろ」
「宇都宮さん、あんまり詮索してあげなさんな。困ってるで、彼女」
「ああ、すまんすまん。久しぶりに知らん人と会うたから、テンション上がってしもうたわ」
そう言って宇都宮は無邪気に笑った。
「知り合いの、お墓参りに来たんです」
彼女がぼそりと呟いた。甲本はどきり、としたが、平静を装ってトロロをすった。
「そうなんか。それはご苦労さんやなあ」
さすがの宇都宮もややトーンが落ちたようだ。と思いきや、
「大将、この姉ちゃんにもわしと同じのあげてくれ」
「え?」
甲本と彼女が同時に聞き返した。
「飲めるんやろ。そんなしんみりした顔してたらあかんで。わしのおごりやから。なに、やっすい酒やから気にすることあらへん」
甲本は彼女を一瞥して少し考えた後、グラスに焼酎を注ぎ、彼女の前に置いた。
「大丈夫や、どうせそこのホテルに泊まっとるんやろ?つぶれたら大将がかついで運んでくれるで」
「よしてよ」
甲本は苦笑した。彼女はグラスを前に困った顔を浮かべている。
「ほな、乾杯しよか。そやな、その知り合いの人があの世で達者に暮らしてますように。うちの婆さんも」
乾杯、とひとりで高らかに叫んだ後、宇都宮がグラスに口をつけた。
その時——
彼女はグラスをつかむと、焼酎を一気に飲み干した。
これには宇都宮も面食らったようだった。
「おお、姉ちゃん、まさか一気飲みとは!ひょっとしていけるくちか?大将、わしと姉ちゃんにおかわり」
「いいけど、大丈夫?」
甲本が彼女に尋ねると、彼女は返事代わりに氷だけになったグラスを差し出した。
二人に二杯目を注ぐ。今度は一気には飲み干さなかったが、彼女はグラスを半分ほど空けて、ポテトサラダを口に運んだ。そして「ありがとう、ございます」と言った。
その後、宇都宮は甲本と今日の大相撲の結果について盛り上がっていた。彼女は、三杯目の焼酎を飲みながら、黙々とトロロ餃子を食べていた。
甲本は時計を見て店を出ると、店先の提灯の電源を切った。あたりはもうコンビニから漏れる光しかない。駅前とは違い、暗く、寂しい場所だ。
店内に戻ると宇都宮は眠そうな顔をしながら二杯目の焼酎を舐め舐めしている。
「ふふっ、ふふ」
突然、彼女の声がした。甲本と宇都宮が彼女の方に視線を移す。
彼女は頭を垂れていて、表情はよく見えなかった。
「ふふふ、あはははは」
声はどんどん大きくなり、彼女が顔を上げた。彼女は、笑っていた。
「なんや、姉ちゃん、笑い上戸なんか」
宇都宮がからかったが、それ以上何も言わなかった。
それは、彼女が涙を流しながら笑っていたからだろう。
「うっぐっ、ははは・・・あっはっはっはは・・・ふぐっ・・・ふははは」
彼女は、泣きながら、笑い続けた。
甲本は換気扇の下に移動し、タバコに火をつけた。宇都宮はとても穏やかな表情で焼酎を口に運んでいた。
店には彼女の湿った笑い声が響く、静かな時間が流れていた。
その時、甲本はふと、店内にもうひとり誰かいるような気がした。
*
高円寺駅を降り、乾物屋のあった商店街を女は歩く。夕方の買い物客、早い内から飲んでいる若者達の喧噪をよそに、誰とも、どことも距離を詰めずに女は歩き、家に向かう。その後ろを、時代遅れとなった服を身にまとった俺が、ゆっくりと追いかける。
三年が経った。
6
ある休日、女の家のチャイムが鳴った。女がおそるおそるドアを開けると、そこには恰幅のよい、中年の男が立っていた。俺も女もこの男を知っていた。
「係長?」
中年の男は女が勤める職場の上司で、名を奈良と言った。職場では良い評判も悪い評判もなく、目立った仕事をするわけではないが他の者に強要するわけでもなく、ある意味では理想の上司と言える男だった。しかし、その奈良が休みの日に女の家を訪れる筋合いがわからない。
同じことを思っていた女の表情を読み取ったのか、奈良は言い訳じみた口調で早口に喋った。
「いや、高円寺駅の近くで法人の会議があってね、高円寺と言えば、小牧君が住んでる場所だなって、ほら、歓迎会の時に君が言ってたのを思い出して。小牧君はあまりみんなとつるんだりしないから、野原君なんかが私生活を心配しててね。ちょっと寄ってみたんだ」
「そう、なんですか」
明らかに困惑する女を尻目に、奈良が続けた。
「で、別件でちょっと君に話したいこともあったから。少しあげてもらってもいいかな」
女は警戒心を解かないまま、八畳間の部屋へ奈良を迎えた。
「狭いけど・・・いや、失礼。綺麗にされた部屋だね」
出されたお茶を飲みながら、奈良はじろじろと女の部屋を見回していた。俺は「定位置」で二人の様子を窺った。
「係長、話というのは」
テーブルを挟んだ向かいに座る女が尋ねた。
「あ、うん、実は、野原君が職場を辞めることになってね」
「野原さんが?」
「ああ、結婚するんだと。寿退社ってやつかね。で、旦那さんの故郷の名古屋についていくらしい」
「そうなんですか」
「でね、野原君には経理の仕事もまかせていたでしょ。いきなり辞めるってことになって、こっちも困るし、本部も、すぐに人手は出せないと言ってきた」
奈良が飲み干したコップに、女が茶を注ぐ。
「確か、小牧君は以前の勤め先で経理をやっていたとか」
女が体を硬くした。奈良には気付かれていないようだ。
「ええ、まあ・・・でももうずっと前の話です」
「けど、こういうのは、少しでも経験のある人がいいかな、と思って。小牧君はそつなく仕事をこなしてくれているし、今度、本部に推薦しようと思っているんだ。もちろん、責任が増える分、お給料も少し上がると思っていてくれて良いよ」
「ありがたい話ですが・・・」
「もうひとつ」
突然声音を変えた奈良が自身のスマートフォンを取り出し、操作し始めたかと思うと、開いた画面を女に向けた。その画面を見た女は目を見開いて、思わず小さな悲鳴を上げた。俺も女の背後に回り、画面をのぞき込んだ。
そこには、八年前の、大阪の報道記事が映し出されていた。名前こそないが、登場人物は、俺と、女だ。
女の反応をみて確信をもった奈良は、女ににじり寄った。いつの間にか、かなり距離が近い。
「これは昔、ちょっと話題になったニュースで、僕自身も、こんなことがあるもんなんだなあ、と思ってたくらいだったんだけど、推薦する君を少し調べていて、偶然知ったんだ」
「この飛び降りた女性、君だよね?」
浅く乱れた呼吸が、女の代わりに答えていた。
「ほとんどのニュースは実名が出ていなかったし、おそらく職場の連中は誰も知らないと思う。知ってたら、小さな職場だし、あっという間に拡がるはずだからね」
「私は・・・」
かろうじて声を振り絞った女に、奈良は顔を近づけると、
「だから、これは二人だけの秘密にしておこう」
そう言って奈良は突然、強引に女の肩をつかむと、女のセーターの上から胸に手を当てた。
「やめ・・・」
そう言って後ろへ逃げようとする女に対して、奈良はいっそうの力をこめた。
「お互い、損な話ではないと思うけど」
奈良の体が女の体にのしかかる。女が抵抗しながら弱い悲鳴を上げた。八年間で弱った女の声帯では、助けの声は誰にも届きそうになかった。
俺はそんな二人の様子を、「定位置」で眺めていた。特にどうと思うことはない。思ったとしても、俺にどうすることもできない。
抵抗していた女の足が、偶然、奈良の股間に当たり、奈良がうめき声とともに力をゆるめた。その瞬間を逃さず、女は奈良の体をすり抜けると、ベッドに上り、自身のスマートフォンを手に取った。
「警察を、呼びますよ」
二人の荒い息だけが部屋に響いた。奈良は女を睨み付けると、コートを手に取り、荒々しく部屋を出て行った。女はドアに駆け寄り、施錠すると、ドアの前にへたり込んだ。そして冷たい床に突っ伏し、いつまでも泣いていた。
7
バスを降りて井荻駅に着くと、女は電車に乗り、職場に向かう。俺は時代遅れの服を着て、その後ろを歩く。大型ショッピングモールの食品フロアでレジ打ちをし、社員食堂で弁当を口に運び、また黙々とレジを打つ。いっそう抑揚のない女の所作と口調は、もはや機械のようだった。
仕事が終わり、電車に乗り、バスに乗り、帰路につく。井荻の古アパートの部屋はこれまでよりも二畳減り、おかげで俺の「定位置」は窓際に追いやられた。女はスーパーの総菜を温め、それを食べた。食器を片付けると、上着を脱ぎ、下着姿で浴室へ向かう。右足首と左の鎖骨の古い傷を眺めながら、俺はバスタブに立っている。安い化粧水を塗り、鏡を乱暴に閉じる。女はテレビを消すと、暗くなった画面をぼんやりと眺めていた。仄暗い部屋の中に浮かび上がる女の小さな背中を、何となく薄ら寒い窓際で俺は見つめていた。
俺はおもむろに女の側に近づき、虚ろな表情の横顔を見下ろしながら、声をかけた。空気の震えない声を、俺は発した。
「俺は、あんたを恨んでいる。突然俺の生を終わらされて、すごく厭な気持ちだ。あんたの姿をずっと眺めていても、その気持ちが変わることはない。あんたを許すことはできない。けど——」
「俺はあんたが幸せに生きようとしてもいいと思っている。あんたが幸せに生きることと、俺があんたを恨むことは、別の話だ。今ここにいるのは、生きがいのないあんたと、死にがいのない俺だ。あんたは、生きて、幸せになり、俺は死んで、あんたを恨む。それでも別に何も変わらない。あんたは幸せになろうとしていいんだ」
俺が話している間も、話し終わった後も、部屋は沈黙したままだった。女は座って、消えたテレビを眺めている。俺はその女を横から見下ろしている。
女の頬に、一筋の涙が伝った。その涙が床に落ちた。そして女は、
「わかってる」
と言った。