9 躙り寄る夏 -うみ
「自分が助けた命、誰かの為に使うまで、絶対に死なないこと。」
──そう、彼女と約束してから二週間が過ぎた。
あの日からぼくは、屋上へ行けていなかった。
✱ ✱ ✱
ぼくへのいじめは相変わらずだった。
その日は、教科書をゴミ箱に捨てられていた。
それだけで済めば、よかったのに。
二時間目、生物教師の大塚がゴミ箱に捨てられていた教科書を見つけ、眉をしかめた。
裏の名前を確認すると、大声で名前を呼んだ。
「夏木さん!これはどういうつもりですか!」
教科書を探すため鞄の中をあさっていたぼくは、突然名前を呼ばれビクッとした。
「いくら勉強が嫌いだからといって、教科書をゴミ箱に捨てるなんて!」
「お金を払って買ってくれた親御さんに申し訳ないと思わないんですか!」
「いやっ、その、捨てた訳じゃ」
急に大声で叱られ、ぼくの話など聞いてくれなかった。
「言い訳なんて聞きたくありません!」
「とにかく、この事は放課後、親御さんに電話でお話します」
一方的にそう言うと、その後はぼくを無視して授業を始めた。
教室内はひそひそと、ぼくを嘲笑っていた。
この世界のどこにも、居場所なんてない。
ああ、ぼくは───
"ひとりぼっちだ"
と、頭に、彼女が過ぎった。
あの逸らせない、真っ直ぐな瞳が。
彼女に、会いたい。
心が、そう言っていた。
✱ ✱ ✱
昼休み、気づけばぼくは屋上に向かっていた。
「ふぅ……」
無性に緊張し、何度も深呼吸をした。
あの日から、彼女のことを二週間も保留にしてしまった。
どころかぼくはまだ、彼女の名前すら知らずにいた。
ドアノブを回して扉を開けると、ふわりと心地の良い春風が、ぼくを包んだ。
一歩足を踏み出し、見上げた。
給水塔のある、塔屋の上。
あの時、彼女が立っていた場所だ。
出てすぐ横の陰にある梯子に手をかけ、再び深呼吸をしてからゆっくりと、音を立てないよう慎重に上った。
梯子の一番上に手をかけた瞬間、目を奪われた。
目を閉じ、地面に寝転がる彼女。
瞳を隠したまつ毛が、陽の光に照らされきらきらと、美しかった。
"やけに、心臓の音が、うるさいな"
と、彼女に見惚れるあまり梯子から落ちそうになった。
「うわ……っと!」
咄嗟に壁のふちを掴み、落ちずに済んだ。
が、その声で彼女が起きてしまった。
「誰?」
風と共にゆらりと体を起こす彼女と、目が合った。
ぼくはその青みがかった美しい瞳に、やはり見惚れてしまった。
「君か。やっと来てくれたんだ」
柔らかく目を細める彼女にハッとし、見とれていた自分が恥ずかしくなり、俯いた。
「ごっ、ごめんなさい」
慌てるぼくを見て彼女は、小さく笑った。
「謝らなくていい。夏木うみ…さん」
名前を呼ばれ、思わずぱっと顔を上げた。
「なんでぼ、私の名前…!」
驚くぼくに、彼女は澄んだ声で笑った。
「だって自分、同じクラスだよ」
知らなかった。
彼女が、ぼくのクラスメイトだったなんて。
「斜め後ろの席」
「って言ったら、分かるかな」
「仲村……さん?」
ぼくが自信無さげに答えると、彼女は少しだけ驚いて、軽く微笑んだ。
そしてよっ!と小さく言って、彼女は立ち上がる。
何を想うか、何処か遠く、海の方を見る。
それから彼女は息を吸って、
「仲村、はる」
風のように、くるりとこちらに振り向いて、
「はるって、呼んで」
そう、優しく微笑んだ。
暫くぶりの更新です。
また少しずつ、二人の物語を紡いでいきたいと思います。