8 始まりの無い夏
思えばきっと、あの日から、自分の学校生活は崩壊した。
その日は自分が日直で、もう一人は休みだった。
だから自分は一人でクラス全員分のノートを集め、職員室に運んだ。
「失礼します、1-Aの…仲村です」
次の言葉を言いかけて、気づいた。
自分が仲村で、担任も仲村。
少しだけ、恥ずかしかった。
「仲村先生はいらっしゃいますか」
自分の声に、C組の担任が気づいた。
「仲村、今居ないんですよ。多分D組の授業がまだ…」
結局自分はノートの山を抱えて、教室まで戻る羽目になった。
手伝ってくれる人など、居るはずもなく。
教室前の廊下に着くと、D組の生徒が廊下に出ているのを見かけた。
もう授業は終わったのだろうと思い、D組を覗いた。
父は、分からない部分があった生徒に熱心に教えていた。
本当に教師の鏡なのかもしれないと、少し見直した。
「先生」
一通り教え終わったのを見て、荷物をまとめている父に声をかけた。
父は自分を見て、笑った。
「仲村さん、ご苦労さま」
自分に向ける笑顔だけはやはり、嘘くさい。
「半分、持ちますよ」
ノートの山を半分に分け、父と二人で職員室まで運んだ。
自分は、父の横を歩くのが少し怖かった。
途中で何度か、父に声をかけにくる女子生徒に遭遇した。
教師としての父は、少しマシなのかもしれないと思ってしまった。
職員室に着き、ノートを渡して帰ろうとすると、呼び止められた。
「次、A組は数学ですよね」
「一緒に、行きましょうか」
父は笑ってそう言ったが、自分にはそれがとても恐ろしく思えた。
教師としての父はマシかもしれないなどと思った自分を後悔した。
やはり、この男は紛れまないあの父だ。
再び隣を歩く時間が、とても苦痛に感じた。
恐れるあまり、階段の途中で足を踏み外し落ちそうになった。
とっさに手を出し、父が自分を支えた。
「危なかったですね」
そう笑うと、耳元で
「ちゃんと気をつけろよ、バカ野郎」
いつもの、怒鳴り声を、小さくしたような。
威圧的なその言葉は、自分を更に怯えさせた。
「ご、めんなさい父さんっ」
言ったあと、ハッとした。
まだ休み時間は終わっていなかった。
「こら」
出席簿で、軽く頭を叩かれた。
顔は笑っていたが、何とも暗い空気を感じた。
「次はねえぞ」
耳元でそう言ってまた笑い、自分を置いて階段を登って行った。
父は学校でも威圧的だった。
相手を怯えさせ、言葉巧みに、服従させる。
あくまで表向きには、生徒に優しい先生として。
それが一部の生徒の間で、"ひいき"と言われた。
実は付き合っているだとか、できてるだとか。
根も葉もない噂が、陰口が、自分を更に追い込んだ。
陰湿で典型的な、いじめに発展した。
やがて余裕がなくなった自分は、何度もミスを犯した。
トイレに閉じ込められ、授業を欠席したり。
教科書を捨てられ、忘れたと言って隣に見せて貰ったり。
そして、三度目に"父さん"と呼んでしまった時。
ついに、父の仮面は割れた。
昼休みに、腕を引っ張られながら、体育館に連れてこられた。
口で言って聞かないようなら、次の手段はただ一つと。
「おいお前、最近の態度はなんだ」
「俺へのあてつけか、あ?」
まず腕を強く掴みながら、言葉で威圧した。
「学校でなら綾波にもバレねえからって?」
「俺も笑って許すだろうってか」
そして、思い切り頬を叩いた。
体育館に痛々しい音が響いた後、続いて怒鳴り声が響いた。
「考えがあめぇんだよ!」
「俺はここで真面目に教師やってんのに何度も何度も邪魔しやがって」
体勢を崩し床に腰を落とした自分を、ひたすらに言葉で威圧した。
「次は無いと思えよ?」
しばらく怒鳴ったあとそう言うと、体育館を出ていった。
身も心も、ボロボロだった。
家の外に出れば、報われると思った。
ほんの少しでも、マシになると思った。
でも自分で悪化させた。
家よりもっと、悪くなった。
自分はただ、平和で平穏な、普通の日々を望んだのに。
運命はそれを笑って却下し、最悪な一年を与えた。
そんな日々が、三ヶ月続いた。
ある時から、自分へのいじめがピタリと止んだ。
誰も、自分の持ち物を取らなくなった。
誰も、自分の陰口を言わなくなった。
何とも気味の悪いほどに全く、誰も。
その理由は、六月の中盤に来た転入生だった。
いじめ自体が無くなったわけではなく。
単純にいじめるターゲットが彼女に変わっただけ。
その時、自分は気がついた。
誰でも良かったんだと。
ただ誰かを標的にしていたいだけ。
いじめて、制圧して、そして安心する。
"みんな、あの男と同じじゃないか"
それに気がついた途端、教室に居ることすら嫌になった。
そして学校中を回って、探した。
自分が居ても誰にも気づかれない、自分の居場所を。
そうして見つけたのが、屋上。
ハシゴを昇ったその上は、誰も知らない自分だけの秘密の場所。
鍵は父を上手く使って手に入れ、それをコピーした。
みんな、閉まってると思っている。
みんな、ここには誰も居ないと思っている。
世界で唯一と言えるほど、自分にとって心地の良い場所だった。
そこで授業をサボったり、昼休みに風に当たりに来ていた。
そして、ある日そのドアが開いた。
誰も開けることのなかったそのドアを開けたのは、きみだった。
ずっと探していた、自分の求める"何か"。
それが、きみのような気がして。
追い詰められ、隠れ、そして死のうとしていたきみに。
「しぬの?」
初めて感じる、とても穏やかで心地よい高揚感だった。
ほんの暫く、更新をお休みさせていただきます。