36 夏と、辻褄
そこからは波琉、お前の知ってる通りだ。
お前が学校に行ってる間に家を売り払い、お前がいない間に少しずつ荷物を阿澄家に移動した。
全ての荷物を引越し終えた日に、波琉に会うと決めていた。
波人には事前に俺が越してくることを伝えたが、部屋に鍵をかけたままだった。
✱ ✱ ✱
「おかえり〜!」
直前まであんなに不安がっていたのに、まるで別人のように綾波は上機嫌だった。
震えもすっかり治まり、波琉を抱きしめていた。
俺はリビングからちらりとそれを覗いて、微笑ましく思った。
綾波がちゃんと、母親の姿に見えて、少し寂しくも思った。
波琉は一度部屋に戻り、部屋着に着替えてリビングに入ってきた。
扉を開けてすぐ、ソファに座っている俺を見て、波琉は困惑していた。
「おかえり、波琉ちゃん」
優しく笑ってそう声をかけたが、固まっていた。
何と続けたらいいか分からなくて、まず挨拶からしようとすると、綾波が楽しげに近づいてきた。
「仲村武仁さん、今日からハルのお父さんになる人」
そう紹介した瞬間、波琉は怪訝そうな表情で、
「...は?」
と思わずこぼした。
その時の波琉の顔は、今でも覚えている。
✱ ✱ ✱
阿澄家で暮らすようになった頃、俺には収入がほとんど無かった。
二人の、婚約式を行う余裕もない程に。
不安定な綾波と暮らすようになって、毎日のストレスが教師の仕事へ支障をきたした。
高校で教鞭を執っていたが、ある時同僚の一人に手を上げてしまった。
ある女子生徒を、綾波と重ねてしまったが為に。
幸いと言うべきなのか、その学校は隠蔽が得意だった。
俺がしたこと自体なかった事のようにされ、とある事件があった、という噂だけが囁かに流れた。
そして妻の出産と育児という名目で、謹慎を受けた。
結婚はしていなかったが、綾波に貰った指輪を外すと綾波が不安がるので、学校でも時々外すのを忘れていた。
それを生徒は見逃さなかったようで、誰かがほかの教師に既婚者だと密告していたらしい。
まるで綾波を出しに使ったようで、心苦しかった。
それからは幾つか色んなバイトをしていたが、子供相手と違い、人間関係がどこも続かなかった。
そうやって転々と、地に足がついてない状態だった。
初めは、綾波の子供達にも気を配っていた。
バイトの帰りにはお土産を買い、値引きのシールを剥がしてから家に入る。
けれど、二人とも小さい子供では無いので、喜んではしゃぐようなことは無かった。
むしろ、常に警戒されているようだった。
✱ ✱ ✱
「クビ、ですか?」
ある日突然に、それは告げられる。
「君既婚者なんだってね。指輪がロッカーから見つかったよ」
コンビニやスーパー等の仕事は尽く合わず、夜の仕事をしていた頃。
教師の時の反省を生かし、指輪は毎回ロッカーに仕舞うようにしていた。
鍵を盗み、わざわざ開けなければ見つからないというのに。
誰かが密告しなければ見つかるはずもない物。
この類の仕事にプライバシーというものは無いのか。
最初こそプライバシーの心外だと反論したが、5回目ともなると諦めが上をいった。
「...短い間ですが、お世話になりました」
肯定も否定もせず、それだけ言って荷物を片付ける。
この仕事で結婚はご法度。
している奴はちょくちょく居るが、周りがリークしない限りはバレてクビになることは無い。
───俺のように。
この時の俺は、自分ばかりが不幸な気がしていた。
だから綾波以外、誰のことも気遣う余裕なんて無かった。
逆に綾波は自分に合う薬を見つけたと、精神は前より随分安定していた。
少しずつ、仕事も始めた。
綾波は美人だから、直ぐにナンバーワンになった。
俺と同じような仕事は、して欲しくなかったが。
家族四人を養うには、何も言えなかった。
✱ ✱ ✱
「ただいま...」
「...!!」
恐る恐る帰宅してきた波琉は、武仁を見て怯えた。
「...あァ?.....なんだ波琉か、おかえり」
ソファで寝転がる武仁は、少し酔っていた。
床には酒の缶が2本、転がっていた。
「んなに怯えんなよ」
家に来た頃とは見違えるように、鋭い目をして。
波琉は毎日その目に、いつ手を出されるのかと怯えていた。
「その目...気に入らねえんだよ」
「あん時のあいつみてえで.........」
武仁はボソボソとそう言ってから、缶ビールを一つ手に取る。
その隙に、波琉は素早く二階に上がり、その後は自室から出てこない。
「綾波......」
呟きながら、残りの酒を一気に飲み干す。
酔いが回り、高校時代の綾波の写真を抱きしめながら、ソファに倒れる。
彼女に見せる笑顔さえ、偽物になりかけていた。
✱ ✱ ✱
武仁は、日に日に荒れていった。
それを綾波も何となく察していたが、全て自分のせいだ、と思い何も言わなかった。
波人は夜中に出掛けることが多くなり、波琉は遅くまで帰って来なくなった。
そんな生活が数年、続いた。
ある日の事だった。
「──────ということで、再び我が校で宜しくお願いしますね」
武仁の耳には、電話の主がそう言った事だけ聞こえた。
「宜しく御願い致します」
義務的にそう返したが、頭は追いついていない。
「...学校?」
しばらくして我に返り、内容を思い出す。
『再び我が校で』と確かに言っていた。
「今更子供の前で'センセー'しろってのかよ...」
「.........やったぞ、綾波」
教師に戻れば、再び安定した収入が得られる。
今度こそ何も問題は起こす訳にはいかない。
完璧に、誰よりも教師という仕事を完璧にこなさなくては。
決まった高校は、家から少し遠かった。
元々は女子校だったこともあり、今も比率は女子の方が多い学校らしい。
いきなり担任をすることになり、担当は1年A組。
早速生徒のリストを確認すると、一番最後に見つけたその名前に、思わず固まった。
「──────仲村...波琉...?」
酷く嫌われ、避けられ続けている戸籍上の娘。
まさか、こんな形で教師を再開するとは。
入学式のその日まで、結局波琉に言えないまま。
✱ ✱ ✱
深呼吸をしてから、教室の前の扉を開ける。
黒板の前に立つ新しい担任に、皆こちらを注目した。
窓側の一番後ろの席、外を眺める波琉の姿を確認した。
「初めまして皆さん」
「今日から皆さんの担任になる───」
一呼吸、置いてから、
「仲村武仁です」
波琉の表情はまるで、絶望だった。
今話も読んで頂き有難うございます。
次話もよろしくお願い致します。




