35 淡く澱んだ夏色に
綾波が武仁の家に泊まるようになってから、3年が過ぎた。
阿澄家には、時々服を取り換えに帰る程度で、殆ど同棲だった。
再会して1年くらいの頃は、お互い'友人'という関係で一線を引いていたが、3年も経てば、関係性も変わっていた。
✱ ✱ ✱
「おかえり武仁〜」
玄関まで駆け足で迎えに来てくれた彼女は、エプロン姿だった。
「ただいま」
俺が鞄を置いて靴を脱いでいると、彼女は鞄を取って、
「今日は肉じゃが!!」
と楽しげに歯を見せた。
こうしていると、再会した頃の面影もないように思える。
彼女はただの素敵な奥さんで、自分達はただの幸せな夫婦。
「ありがとう、鞄も」
お礼を言ってから、俺は彼女を優しく抱きしめた。
「もう帰ってすぐ……甘えん坊め」
こそばゆそうに笑う彼女に、ただ幸せを噛み締める。
✱ ✱ ✱
「「いただきます」」
二人で手を合わせてから、夕食を摂る。
今はまだ、大丈夫。
俺が洗い物をして、その間に彼女がお風呂に入る。
まだ、大丈夫。
彼女がお風呂から出て、俺は素早く風呂に入り10分もせずに出る。
大丈夫。まだ、
「───波琉と波人、どうしてるかな」
二人でベッドに入ると、彼女は必ずそう呟く。
自分の苦しみから逃げる為、大切な子供達を家に残し、今はほとんど育児放棄の状態。
そんな自分の行動を、彼女はいつも後悔していた。
「ちゃんとご飯は買っておいてきたんだろ、なら大丈夫だよ」
薄暗い寝室の中、背と背を合わせたままそう励ます。
「二人なら大丈夫。綾波は、自分の為にここに居るんだから」
「二人...か...」
小さく呟く彼女の声は、若干寂しそうだった。
少しして、彼女はくるりと寝返りを打って、俺の背中に抱きついてきた。
ぎゅっと抱きしめるその手は震えていて、俺はそっとその手に触れる。
彼女はきっとまだ、俺に話していない事がある。
特に、兄・波人君の話をする時、どこか気まづそうな顔をするのが、引っかかっていた。
そんな罪悪感や、申し訳なさで、彼女はいつも怯えていた。
「もう眠ろう、おやすみ綾波」
「...うん」
彼女は何か言いたげに、けれどそれを飲み込んで、ゆっくりと目を閉じた。
夜中、ふと目が覚めて隣の彼女を見ると、涙でびしょ濡れのタオルを抱いて眠っていた。
✱ ✱ ✱
毎日、夜になると綾波は不安そうな顔をする。
と言うより、申し訳なさで潰れてしまいそうな。
自分の身を、心を守る為だと。
武仁が毎晩そう言って宥めても、綾波の中で罪悪感が消えることは無かった。
✱ ✱ ✱
彼女は、幸せそうに笑う反面、精神はかなり不安定だった。
ある時から、精神科で処方される薬の量も倍になり、更に情緒の上下が激しくなっていた。
今思えば、この頃からお互い、壊れ始めていた。
「───私さ、一度ちゃんと波琉達と話そうと思う」
夕食の途中、彼女は唐突にそう言った。
「…どうして?」
俺は内心、やめて欲しい、と願いながら尋ねた。
「もう3年だよ。そろそろ、ちゃんとしなきゃ」
「自分の為に逃げるんじゃなくて、2人…の為…に…」
彼女はみるみる内に青ざめ、震え出した。
「私の、わたしのせいで、あ、あああぁ!」
顔を覆い、ガタガタと震えながら涙をこぼす。
「大丈夫、無理に向き合わなくていい...!」
「綾波は、綾波の為に生きればいい!」
発狂しかけている彼女を抱き締めて、必死に言う。
あの家に戻る度、彼女は壊れていく。
脆く、脆く、不安定に。
これ以上、向き合って欲しくない。
「......ダメ!!!言われたの、波人に...!」
いつも腕の中で暫くしたら大人しくなる彼女が、今日は俺を突き放した。
その衝撃で、彼女の箸が床に落ちる。
「...何て言われた?」
こんな事で、いちいち寂しくなっていられない。
冷静を装わなければ。
「波人が...これ以上母さんがっ...家庭を放棄するなら、家を出て、東京に出るって...」
「そんな...。波人君が家を出たら波琉ちゃんは...」
波琉ちゃんはまだ中学生だ。
収入は俺が多少負担したとしても、広い一軒家に1人で住むなんて、あまりにも。
「あまりにも酷いでしょ!?」
「でも元々は私のせい!家に、...あの思い出だらけの家に、帰りたくないせい」
「......」
思い出だらけの家。
そう聞いて、何が触れられたくないものに触れられたような、不快感を覚えた。
「私が死んだら、労災とか降りるかな?そしたら波人も波琉も、二人で生きていけるかな!?」
「ねえ、武仁──────」
「帰ろう」
「え...?」
今の彼女は、自らを死へ誘っている。
とても危険だと思った。
だから無理やりにでもそこから引き離そうと。
"そんなのは言い訳だ。"
「...るせぇな」
「たけ...ひと...?」
潜在意識の自分が、現実を突きつけようとしてくる。
小さい声でそれを払って、驚く彼女の目を見る。
「綾波、この家を売り払おう。そして、波琉ちゃんと波人君と、綾波と、俺」
「あの家に、四人で住もうか」
淡々と、微笑みながらそう言った。
ああ俺今、すげえ嘘くさい笑顔だろうな。
「急に、どうして......?」
当然戸惑う彼女に、俺はそれっぽい理屈を並べたような気がする。
正直、よく覚えていない。
────ああそうだよ。
それらは全て言い訳だった。
本当は壊したかったんだ。綾波をじゃない。
綾波が大事にしてる思い出ってやつを全部壊して。
"俺が、塗り替えてやりかったんだ"
今話も読んで頂き有難うございます。
はるとうみ、武仁と綾波。
彼女達は、どこか似ています。
次話もよろしくお願い致します。




