34 その手は夏のように
それから時々、病院帰りの綾波と会うようになった。
憔悴しきった彼女を、全てをかけてでも支えようと密かに覚悟して。
会う度に「死にたい」と口にする彼女に、「生きて欲しい」と伝え続けた。
俺の思いは届かなくてもいい。
ただ勇さんを思う事で綾波が苦しむのなら、少しでも忘れて欲しいと思った。
だけど、心の片隅では、忘れた部分の代わりになれたらと思っていた。
✱ ✱ ✱
会うようになってから、二年が過ぎた。
同じカフェでコーヒーを頼み、話をすることが、すっかり当たり前のようになっていた。
「─────家、帰りたくないな」
まだ温かいコーヒーを一口啜ってから、彼女は呟いた。
「どうして?」
聞いてから、同じようにコーヒーを啜る。
綾波は少し考えて、躊躇いながら苦笑いした。
「ハルに、申し訳なくて……さ」
「波琉ちゃん?中学生だっけ」
会うようになって色々な話をする中で、綾波の子供たちの話をよく聞いていた。
今年で中学生の娘と、高校三年の息子。
彼女は昔から童顔で、今も30代には見えない。
その為か、高校生の子供がいるという事にまだ少し実感が無かった。
「そう。よく覚えてるなぁ」
「綾波の話した事、全部覚えてるから」
自慢げにそう言う武仁に、綾波は呆れながらも
「一途な奴め…」
と小さく笑って呟いた。
「んで、何で波琉ちゃんに申し訳ないの?」
「……ハルが、部活はやらないって…言っててさ」
「部活?」
綾波は一度大きく深呼吸をしてから、この日ここに来るまでの話をし始めた。
✱ ✱ ✱
「─────もう辞めろよ!!!!」
悲痛に響く、波人の声。
あれ、わたしは、何をしていたんだっけ。
頬に生暖かい液体の感触がして、手の甲で擦る。
鮮明に赤く、私の目に映ったそれは、誰かの血。
「……?…!!!」
目の前には左腕を抑えた波琉が居て、涙ひとつ流さずに私のほうを見ていた。
その隣には息を切らした波人が居て、私は、気が動転して、涙が止まらなくなった。
「ふたり、とも…どう、して…」
泣き出した私を見て、波人は心底信じられないという顔をして、
「っざけんな……」
「とにかく手のソレ、持つの辞めてくれよ…!」
手の、ソレ…?
波人の視線を追うように自分の右手を見ると、しっかりと握られていたのは、鋭い刃物。
「っ!!」
私は驚いて、その包丁をキッチンの方へ投げた。
「なん、で、こんなもの…!」
私がソレを投げたのを見てほっとしたのか、波琉が膝から崩れ落ちた。
「波琉!大丈夫か!!」
「お兄ちゃ...ごめん…なさ…」
何故か謝る波琉に、私は訳が分からなくなって、何があったの?なんて聞いてしまった。
その瞬間に、波人に向けられた鋭い瞳は、今も頭をちらついて離れない。
鋭く刺さる、刃物のような。
私を強く強く、憎んでいるその目を。
勢いよく立ち上がった波人に、私は殴られるのだと思って身構えた。
けれどその手が取ったのは受話器で、
「妹が刃物で腕を切り付けられて、はい、出血が酷いです、今すぐにお願いします!!」
とはっきりとした声で伝えたのは、恐らく救急車だったのだろう。
私はこの時初めて、波琉を切りつけたのは自分だと気づいた。
「嫌だ……」
どうして、どうして、どうして。
こんな事、望んでやったんじゃない。
どうして、こんなにも大切なものを傷つけて。
どうして私は───
「ごめんなさい…波琉…ごめんなさい……」
気が動転した私は、ただただ謝り続けることしか出来なかった。
悔いても悔いても、ついてしまった波琉の傷は消えない。
もしかしたら、一生の傷かもしれない。
「ごめん…なさい……」
綾波の震えた声が、ぽつりぽつりと響いていた。
数十分後、サイレンと共に波琉を支えながら波人が救急車に乗り込んで行った。
一人、リビングに取り残された綾波は、たまらずその身一つで家を飛び出した。
✱ ✱ ✱
「─────それで…勢いでここに来たの…」
彼女は、酷くこわがっていた。
他でも無い、自分自身に。
俺は分からなかった。
大変だったね?
辛かったね?
大丈夫だよ?
なんて、言えばいいのだろう。
己に脅える彼女に、何を。
「…………俺の家、来るか?」
思わず、口からこぼれていた。
彼女は顔を上げ、驚いた顔をしていた。
けれど一番驚いたのは、俺自身だった。
「……」
あまりにも唐突な提案に、彼女は戸惑っていた。
俺はハッとして、咄嗟に誤魔化そうとした。
「あ、いや、他意は無いというか!…こんな事急に言われても困るよな、ごめ─────」
「本当に良いの?」
はっきりとした声が、俺の言葉をとめた。
「こんな、情緒不安定で、危険…で…武仁にどれだけ苦労かけるか、分からないよ」
「それでも、本当に良い?」
彼女は震えながら、涙目で俺を見た。
ああ、あまりにもか弱い。
今の彼女はきっと違うんだ。
『俺が好きだった綾波』じゃない。
負けん気が強くて、平気で男子生徒を殴る。
嫌だと思ったこと、違うと思ったこと、はっきりと正面から相手の目を見て言える。
クラスで一番足が速くて、学年で一番モテる。
そんな、格好良い松本綾波じゃない。
だから、だからこそ。
「───────いいよ」
綾波が良い。
「それでもいいよ」
どんな君だって構わない。
「どんなに変わってしまっても、綾波だから」
「再会したあの日から、いや…高校1年の春から」
「俺の気持ちは、ずっと変わってないよ」
そっと、彼女の手に自分の手を重ねる。
「また0から、俺とやり直そう?」
俺は、綾波の全部が欲しい。
「……ば」
彼女は、サッと、俺から手を離して背を向けた。
「っ…かだなぁ…」
「ほんっとに…一途な奴め…」
背中越しに、彼女が泣いているのが分かる。
言葉に出来ない気持ちが、胸いっぱいに広がって。
その日から、彼女は俺の家に泊まるようになった。
同棲、と言っていいのか、彼女が、俺に対してどんな感情を抱いているのか分からないけれど。
ただ綾波を守ると、そう心に決めたんだ。
今話も読んで頂き有難うございます。
お久しぶりです。
随分と更新の期間が空いてしまい、申し訳ございません。
私生活や環境ががらりと変わってしまったことと、武仁編についてかなり悩んだ事もあって、なかなか更新するタイミングがありませんでした。。
その分、沢山書き溜めたので、数話連続投稿致します。
波琉の知らない、武仁と綾波だけの世界。
はるとうみの逃避行に、今後どう関わっていくのか。
次話も宜しくお願致します。




