33 夏風ゼラニウム -武仁
〖第3章〗
──────目が覚めた。
瞬間に鋭い痛みが走り、頭を触ると色濃い血が手にまとわりついた。
「……いっ…て」
意識が朦朧としている。
何故自分が玄関前に倒れているのか、思い出せない。
ぼやけた視界で、彼は立ち上がる。
頭の他に、腕や肩などに切り傷があることに気が付いた。
「……あの…ガキか」
しばらくすると、段々とこうなった経緯を思い出していった。
✱ ✱ ✱
話を、しようと思っていた。
波琉の、実の父親についての話を。
生前綾波が語った、とある事件についての話を。
再婚という形で、綾波と再び会えたのに。
最愛の人は、死んでしまった。
もう、話してもいいんじゃないかと。
波琉も、高校生になった。
初めはただただ純粋に、綾波の子として大切にしていこうと思っていたはずなのに。
……もう時効ってことでいいか、綾波。
✱ ✱ ✱
波琉の父親───阿澄勇が死んだ。
俺がその事を知ったのは、葬儀から半年後のことだった。
綾波とは高校の同級生で、俺は入学当時から綾波に惚れ込んでいた。
そして二年で同じクラスになり、意を決して告白をし、OKを貰った。
交際一年半、それはまるで奇跡のように、愛おしい日々だった。
だが高三の秋、綾波から『やりたい事がある』とだけ告げられ、別れた。
それ以来、綾波と会うことは無かった。
卒業後数年して、大学の同級生と結婚し、子供二人と暮らしていると、風の噂で聞いた。
悔しさをぐっと飲み込んで、綾波が幸せならそれでいいと、自分に言い聞かせた。
✱ ✱ ✱
「────綾波?」
駅で偶然、綾波の姿を見かけてつい声を掛けた。
高校の頃、こだわって三年間ショートカットを貫いていたその髪は、腰まで伸びていた。
どんなに髪型が変わっても、後ろ姿で綾波だとすぐに分かった。
「えっと……武仁、さん……?」
顔を上げると、虚ろな目をしていた。
男子生徒にも負けないくらい勝気だった彼女とは、見る影もないほどに憔悴していた。
「久しぶり。卒業以来だな」
「そう……だね」
弱々しい彼女の声に、不安と心配で胸がいっぱいになった。
ずっとずっと、会いたかった。
同時に、会いたくなかった。
何度も何度も、忘れようとして。
いっそあの幸せな日々も、大好きな彼女も、妄想の中の出来事ならいいと。
どれ程願って、願っても、忘れられなくて。
会ってしまっても、自分の家庭を持ち、幸せになった綾波に、笑いかけられる自信がなかったから。
けれど今、目の前にいる彼女は、どうしようも無く苦しそうだった。
「…立ち話もなんだし、そこのカフェ入ろうぜ?」
「そ…だね」
心ここに在らずな彼女を見て、居てもたってもいられなくなって。
「記念に一杯奢らせて」
そう言って彼女の手を引いて、カフェに入った。
✱ ✱ ✱
「コーヒー、ミルク無しで良かったよな」
窓際一番端のカウンター席で遠くを見ている綾波に、テイクアウトのホットコーヒーを差し出す。
「……何で覚えてるの」
少し落ち着いたのか、弱々しくだが自分から口を開いた。
俺は彼女の隣に座ってから、心を決めた。
「覚えてるよ。綾波の事なら何でも」
「………何があったか、聞かせて」
「っ……なにそれ……」
「……何かあった?って聞かれたら……さ、何でもないって……言えばいいけどさ」
「ほんと……昔からそういうとこ、ずるいな」
何かの糸がほどけたように、彼女はぼろぼろと涙をこぼした。
「私いま病院……精神科に通ってて、」
「うん」
「鬱……とか言われてさ。受け入れられるわけ、無くて、」
恐る恐る話す彼女は、震えていた。
どんな君でも、受け止めるよ。
そう言うみたいに、俺は彼女の話にひとつひとつ頷いた。
「……勇さんが…事故で、死ん、じゃってから、ずっと…」
その一言一言は、あまりにも…苦しそうで。
「…辛かったな」
自分のことみたいに、苦しくなった。
✱ ✱ ✱
ゆっくりゆっくりと、綾波は話をしていった。
ひとつひとつの言葉に怯えながら、辛いこと、苦しいこと、後悔していることを口にして。
数時間、ずっと綾波の話を受け止めた。
並んで置かれたコーヒーは、すっかり冷め切っていた。
✱ ✱ ✱
「……ごめん」
あらかた話し終えた彼女は少し落ち着いたようで、冷めたコーヒーを啜った。
「こんなに沢山、話すつもりじゃなかったのに」
「これ以上は、巻き込んじゃうから……」
そう言って席を立った彼女の手を、俺はしっかり繋ぎ止めて、
「もうだいぶ、巻き込まれてるだろ」
十数年前の想いをそのまま出すみたいに、笑って見せた。
今話も読んで頂き有難うございます。
ここから暫くはる逃走後の、武仁編になります。
はるにとっては、無慈悲に手を上げるだけの暴力的な男だった仲村武仁は、一体内に何を秘めていたのか。
何故、はるに暴力を振るうようになったのか。
10年経っても変わらない、はるの母・綾波への、武仁のひたすらに真っ直ぐな想い。そして歪み。
はるとうみの視点では描かれなかった、武仁から見たはるの姿も書いていけたらと思います。
はるが見ていた景色は、どこまで現実だったのか。
何が真実で、何が幻だったのか。
次話もよろしくお願い致します。




