16 夏にそっと手を掴む
屋上の扉を開けると、心地よい風が涙を乾かす。
泣き疲れたせいなのか、何となくというか。
自分は上には登らずに扉の前で壁にもたれて座った。
───チャイムが鳴った。
四時間目が終わり、昼休みになった。
すぐにうみが来るだろう、と立ち上がった。
すると珍しく、階段の下から聞き覚えのある声が聞こえた。
「聞いてよりの!」
「アタシ見ちゃったんだけどさ!」
声がでかいのは、クラスメイトの桂木ゆら。
自分のクラスに限らず学校全体の情報通にしていじめっ子。
「まじィ?あいつほんとキモイわ〜」
噂を悪口に言い替えているのは、同じくクラスメイトの花山りの。
口にするのは人を蔑むような言葉ばかりで、いじめの主犯。
何となく、彼女たちの会話を聞いていた。
クラスの誰がウザイとか、教師の悪口とか。
くだらない話ばかり。
このまま聞いていても需要は無いな、と扉を離れようとした。
が、思わず足が止まった。
「そう言えばこの前、見ちゃったんだけどさァ」
「なになに?」
「仲村はる、あいつの腕にさ」
自分の話だった。
何故か、体が震えていた。
「傷あと、あったんだよね」
「えぇマジそれ、もしかしてリストカット?」
傷跡、そう聞いて身の毛がよだった。
この手首の傷跡は、他でもなくあの父のせいだ。
────先週あたり、父が泥酔していた時に鉢合わせてしまった。
特に酷い酔い方をしていて、その日は何故か瓶のビールだった。
瓶を倒した先に自分が居たの見て、酔った勢いで殴りかかってきた。
その時身を守ろうとして、瓶のとがった先で手首に傷が付いた。
何もかも、'あの父'のせいなのに。
自分は何も言い返せない事に腹が立った。
それ以上、二人の話を聞くのはやめようと梯子を登った。
"早く、うみに会いたい"
心の中でそう思いながら、優しい風が吹く中で目を瞑った。
✱ ✱ ✱
─────キッと勢いよく扉の開く音がした。
少ししてからトントン、とゆっくり梯子を登る音がする。
「はる」
涙の跡を隠すように外を向いて寝転んでいると、後ろであの綺麗な声がした。
自分はそれが嬉しくて、けれどその気持ちを出さないように、ゆっくりと起き上がった。
「うみ」
目が合うと、涼しく気持ちのいい風が二人の間を通った。
「─────いただきます」
二人でそう言って、黙々と昼食を消費する。
いつものように、自分の方が先に食べ終わった。
うみは口をもぐもぐと動かしながらもどこか上の空だった。
その理由はだいたい、分かっている。
どう切り出したらいいのだろう。
それとも、切り出すべきではないのか。
どちらにしても、うみがモヤモヤしたままなのは嫌だ。
そう思って、ぼんやりしているうみに聞こうと決めた。
「ねえ、うみ」
呼んでから、ほんの少しだけ。
聞こうと思ったことを後悔した。
うみがどう思うのか、不安になったから。
「今日、いつもより少し遅かったよね」
「もしかして、階段の下に居た人達の話、何か聞いた?」
うみは急な質問にえっ?と驚いた。
やはり聞くべきではなかったのかもしれない。
うみからの返事は、少し間が空いた。
「……聞いた」
「ねえ、はる」
先程まで驚いていた瞳は、もういつも真っ直ぐさだった。
その真っ直ぐさに答えるように、自分もうみの目を真っ直ぐに見た。
「はるはリスカ、してるの?」
瞬間、強い風が吹いた。
同時に君の、ショートカットの黒髪が、強く揺れる。
「……してないよ」
自分は風が弱まってから、うみの目を見たまま答えた。
うみに嘘はつきたくないが、これ以上は言えない。
言えば、うみも自分のような目にあうかもしれない。
「……そっか」
「そう、だよね」
うみは小さくため息をついた。
きっと、無意識に。
「してた方が良かった?」
「……なんで」
うみは、ほんの少し苛立っているように見えた。
それはうみにとって触れられたくないことだったのか。
それとも、自分の発言に何か不注意があったのか。
少し迷いながらも、思ったことをそのまま言った。
「なんか、がっかりしてるように見えたから」
「リスカ、してた方が良かった?」
そう聞いた瞬間、うみは拳を強く握った。
悔しい、とは違う何か。
心の中で、必死に葛藤しているように思えた。
「してない方が!いい」
「してない方が…いいん…だよね」
分かりきっている。
そんな意味が込められているような気がした。
うみの考えていることなんて、自分には分からない。
分からないけれど、うみが凄く、苦しそうなことは分かった。
「うみ?」
苦しむうみに、ただ名を呼んだ。
自分に出来るのはきっと、名を呼び、うみを想うことくらいだろう。
しばらく、うみは俯いたままだった。
二人で地面に座りながら、初夏の風だけが通り過ぎる。
「──────ねえ、はる」
ようやく、うみは顔を上げた。
まるで、大事なものを取られた子供のような顔で。
うみが何かを打ち明けようとしているのを感じた。
「はるは、もし私が、」
「……ううん、もし、ぼくが」
「リストカット、してたら嫌いになる?」
うみは、そっと左腕の袖をまくった。
無数に付けられたリストカットの傷跡。
痛々しいその赤さに、胸がぎゅっと苦しくなった。
「ごめんね、はる」
その言葉を聞いた瞬間、分かった。
どうしてそんな顔をしていたのか。
うみは、自分に嫌われると思っている。
骨張ったその腕に付けられた無数の傷跡。
それらはきっと、誰かに拒絶される度に。
自分はうみの腕を見つめながら、思った。
”なんて、馬鹿なんだ“
そして、うみの腕を掴んだ。
ちゃんと、伝えなければ。
不器用な自分からの、精一杯の気持ちを、言葉で。
「ねぇうみ」
「これは、うみの腕だよね?」
予想外の事を聞かれた、と顔に書いてあった。
うみは動揺しながらも、首を縦に振った。
「じゃあ、ならない」
自分は、うみの両手を力強く握った。
「うみだから、嫌いにならないよ」
「死ぬまで……たとえ死んでも、絶対に」
うみは、息を飲んだ。
まるで全身を覆う重い鎖が、音を立てて崩れたような。
ふっと、握ったうみの手の力が抜けた。
瞬間にうみの瞳から、絵に描いたような大粒の涙が零れた。
「ふっ、う、はるっ…はるっ…!」
「はるっ…はるっ」
うみはその後も泣きながら、何度も自分の名前を呼んだ。
何度も、何度も、何度も。
涙と声が、枯れるまで。
こんなにも沢山、誰かに名を呼ばれたのは初めてだった。
自分の居場所はここにある。
その時確かに、そう感じた。
ただ、うみのそばに居たいとだけ思った。
この気持ちを、なんと呼ぶのだろう。
自分にはまだ、分からなかった。
今話も読んで頂きありがとうございます。
今回は記憶に新しいうみの告白の、はる視点でした。
特に大きな事件のようなものはないのですが、一見変わらぬようで徐々に生まれていく二人の好意の間の"ズレ"に注目して頂けると幸いです。
大人になれば簡単に気づけるようなことも、彼女たちにとっては未知との遭遇。
そんな15歳の少女二人の、不器用で、淡い距離感に触れるような。
そんな作品になるように、僕なりに繊細な物語を紡いでいくので、これからも楽しんで頂けたらと思います。
次話もよろしくお願い致します。




