10 憤怒と強欲の、夏
「はるって、呼んで」
「………はる」
ぼくは彼女を見つめたまま、思わずその名を口に出していた。
「ん?」
彼女は首を傾げ、ぼくをまっすぐに見た。
瞬間、見とれていた自分に恥ずかしくなり、慌てた。
「えっ、いやっその、呼んでみただけっていうか…!」
「ふふ」
そんなぼくを見て微笑むと、彼女は何も言わないまま給水塔の上に登った。
変な奴だと思われたんじゃないか、と怯え俯いていると、上から声がした。
「何してるの。隣、おいでよ」
恐る恐る顔を上げると給水塔の上で座り、陽の光に照らされた彼女が、優しく微笑んでいた。
揺れるポニーテールが、春風と共にゆるやかに穏やかに、時を刻んで。
「うん!」
ぼくは嬉しくなり、勢いよく梯子を登った。
その後、特に彼女と会話することは無く、ただ優しい陽だまりのなか、二人包まれた。
✱ ✱ ✱
それからのぼくは、昼休みになると毎日屋上へ通うようになった。
ぼくへのいじめは相変わらずだったけど、あの日を境に週に数回、彼女を授業中の教室で見かけるようになった。
彼女の中で、何かの区切りでも付いたのだろうか。
✱ ✱ ✱
一週間ほど、そんな日々が続いた。
ある雨の日の三時間目、たまたま授業中にトイレに行ったぼくは、目撃してしまった。
数学教師の仲村が、彼女の腕を強引に掴みながら体育館に入るところを。
"まさか"
三週間前のあの出来事が脳裏を過り、気づけばぼくは体育館裏に走っていた。
音を立てないようにそっと、少しだけ扉を開けて中の様子を覗いた。
そこではまたしても、彼女が殴られていた。
"ぼくは、臆病者だ"
彼女が殴られているのを、ただ見ていることしか出来なかった。
そんな彼女を見ているのが辛くて、涙がこぼれそうになった。
けど、どれだけ暴言を吐かれても、彼女は一言も喋らなかった。
"ぼくに何か、出来ることは"
耐え続ける彼女に、ぼくが泣いている場合じゃないと思った。
彼女の為に、何か。
なんでもいい、なにか出来ないか。
動揺する頭で、ぼくは必死に考えた。
ふと、制服のポケットに固いものを感じた。
「これだ…」
小さくそう言うとぼくは、彼女の為に"それ"を行った。
✱ ✱ ✱
数分後、授業が終わる五分前になると、仲村は腕の時計を見ながら舌打ちをした。
「次はねえぞクソガキ」
そう、捨て台詞を吐いて体育館を後にした。
残された彼女は、ポケットからハンカチを取りだし、鼻血を拭いていた。
ぼくは、彼女の為に今できる精一杯を尽くし、駆け寄りたい気持ちをぐっと抑え、音を立てないよう教室に戻った。
教室に戻ると、トイレと言ってサボったのか、と担任にこっぴどく叱られた。
いじめの主犯達にもその事を笑われたが、ぼくはただ彼女のことばかりを考えていた。
ぼくにできるたったひとつの"それ"を、強く握りしめた。
いつか彼女を救うのだと、その日密かに心に誓った。




