王子様と烏
(わぁ、王子様だ〜)
彼をひとめ見た瞬間、エイミはそう思った。村の男達とは全然違う。美しく、気品があって、そして、エイミを救ってくれた。
「君が新しい女中だね。城内に案内するから、こちらへ」
彼はそう言って、エイミに手を差し伸べた。
輝くように白いその手に、農作業で荒れまくった自分の手などが触れていいものか……エイミは戸惑った。すると、彼はぐいとエイミの手を取り、エイミを引きずるようにして小屋から出た。
「あ、あの……」
助けてもらったお礼を言わなくては。エイミは勇気を出して彼に声をかける。
振り返った彼は手にしていた蝋燭をかかげて、まじまじとエイミを見つめた。そして、思いっきり顔をしかめた。
「うーん、近くで見るとたしかに気味が悪いな。まるで烏みたいだ。そうだ!君のことは烏と呼ぶことにしようか」
「へ?」
「あ、偶然とはいえ助けてあげたんだから、僕のことは呪わないでよ」
烏とは、ずいぶん懐かしいあだ名だった。村のイジメっ子にもそう呼ばれていた。
どうやら王子様の中身は、村のイジメっ子とさして変わらないようだ。
(そうよね。とことんついていない私に、優しい王子様があらわれるはずなんてないか)
エイミはあっさりと納得した。それに、不運が標準仕様の自分にしては、あの場面で助けが入るなんて、ずいぶんとラッキーだったと思う。
彼のおかげであることは、間違いない。
「あの、助けてもらってありがとうございました。こんな髪と瞳ですが、人を呪ったりはできないので安心してください」
「お礼ならジーク様に言いなよ。僕はあの人の指示に従っただけだし。到着したら、すぐに部屋に案内してやれって言われてたからね」
「……ジーク様とは?」
「ノービルド領主、ジーク・ハットオル公爵だよ。君を買った、君のご主人様」
「えぇ? あなたが領主様では?」
こんなに優雅でお金持ちそうな男は初めて見たから、エイミは彼が領主その人なのだと思い込んでいた。
「ちっ、これだから田舎もんは。ジーク様本人が直々に女中ごときを迎えに行く必要がどこにあるんだ」
なるほど。言われてみれば、たしかにそうだ。
そして、彼は物腰は柔らかだが、なかなかに口が悪い。
「では、あなたは?」
「僕はジーク様の側近さ。名はアルバート。アルでいいよ。でも、これからよろしくの挨拶はひと月後にしようか。若い女はどうせすぐにいなくなるからなぁ」
アルはぼやきながら、城の裏口の鍵を開け、重そうな鉄製の扉をひらいた。
それは、あなたのご主人様が女性を追い出したり殺したりするからなのでは? エイミは心の中ではそう思ったが、さすがに口には出せない。
城内はとても広かった。廊下は信じられないほど長く、扉がいくつも並んでいる。絨毯もびっくりするほどふかふかで、エイミは歩くたびに足をとられて転びそうになった。
だが、アルバートが言うにはこの城はとても質素なのだそうだ。
「はるか昔に築かれた軍事用の城を、居住用に作りかえたんだよ。ハットオル家の財力なら新しい城をいくらでも築けるんだけどね」
アルは螺旋状になった階段を指差しながら説明する。
「二階にはジーク様と子供達の部屋がある。僕の部屋も二階。使用人の部屋は一階の奥だ。といっても、この城に使用人はほとんどいない。僕と料理人兼庭師のトマス爺と女中頭のゾフィー婆や。先月、女中が三人も立て続けに辞めたもんだから、人手がまったく足りていない」
「はぁ……」
「やむなく掃除と子守りをゾフィー婆やが一手に引き受けてたんだが、彼女ももう歳だ。腰を痛めてしまって、いまは故郷で療養中だ。
そんなわけだから、君は明日から掃除に雑事にと、早速働いてもらうよ」
「は、はい!」
エイミは少しほっとしていた。残虐公爵になぶり殺しにされるために呼ばれたものだと思っていたからだ。
掃除をしろという命令がくだった以上、とりあえず明日の命は保証されたんじゃないだろうか。
それとも、掃除の出来次第というこのなのだろうか。
「あの、領主様とお子様方には明日ご挨拶をさせてもらえるのでしょうか」
「子供達には紹介する。ジーク様は……気が向けばあっちから来るだろう。くれぐれも、勝手に部屋をたずねたりするなよ」
「は、はい!かしこまりました」
「はい、君の部屋はここ。じゃあね。おやすみ、烏ちゃん」
アルは片手をあげて、ウインクをしてみせる。キザな仕草だが、彼にはとてもよく似合っていた。
与えられた部屋は広々としていて、とても清潔だった。むしろ広すぎて、落ち着かないくらいだ。
皺ひとつない真新しいシーツの敷かれたベッドに、エイミは潜り込む。
考えたいことが色々あったはずなのに、思っていた以上に身体は疲れ切っていた。
いつの間にか、エイミは眠りに落ちていた。
夜中に何度か赤子の泣き声が聞こえたような気もしたのだが……この家にはまだ小さい子供がいるのだろうか。それとも、ミアやアイリーンが小さかった頃の夢でも見ているのだろうか。
翌日。エイミは柱時計とまだ手つかずの部屋の扉を見比べて、顔を青くしていた。
早起きは苦ではなかった。村の朝も早かったから、いつも通りだ。そして、アルに指示された掃除の内容もいたって普通のもので、公爵様といえども掃除は庶民と同じなのだなと、ほっとしたくらいだ。
が、掃除をはじめてすぐ、二部屋ほど終えたところで、これは大変だと気がついた。なにしろ数え切れない程の部屋があるのだ。このペースで進めていては、日付がかわっても終わらないだろう。
掃除と子守りを一手に引き受けていたゾフィーさんとやらは、いったいどんな超人なんだろうか。
頼りのアルはエイミに指示だけ出すと用があるとか言って、出かけてしまった。庭師のお爺さんの姿も見あたらない。
広い城なのだが、本当に人の気配がないのだ。一階にはエイミしかいないのかも知れない。
二階には領主様と子供達がいるらしいが、アルには「僕が帰ってくるまでは二階には上がるな。ジーク様の邪魔をするなよ」
そう言いつけられていた。
言いつけを破る勇気は起きなかった。エイミは終わらないことを覚悟して、ひたすら一階の掃除を進めていた。
六部屋目の掃除が終わったところで、二階から泣き声が聞こえてきた。わ〜ん、わ〜んと赤子がぐずっているような声だ。弟や妹の世話をしてきたエイミには懐かしい響きだった。
(やっぱり、昨夜のあれは夢ではなくて、この城には赤ちゃんがいるのね)
エイミが微笑ましく思っていると、泣き声はどんどん激しさを増していく。
(あら、ひとりじゃないのかしら)
赤子の泣き声は複数のようだ。互いに泣き声を競い合うかのようだ。
火がついたような騒ぎに、エイミは思わず二階に足を向けた。
誰かが側にいるのならよいが、そうでないなら様子を見ないと。そう思ったのだ。
アルの言いつけに逆らうことになるが、赤子が怪我でもしていたら大変だ。
エイミは足早に二階にあがり、泣き声を辿った。どうやら一番奥の立派な扉の部屋から聞こえてきているようだ。
「すみません。入ってもいいでしょうか」
エイミは一応ノックをし、そう声をかけた。が、もし中に人がいても、この泣き声の威力の前ではエイミの声など聞こえていないだろう。
エイミは思い切って扉を開けた。鍵はかかっておらず、扉はすんなりと開いた。