第四章 命短し、泳げよ男子
第四章 命短し、泳げよ男子
俺の「魔女」のイメージは、もっと禍々しいものだった。
笑い方は「イッヒッヒ」で、鼻がまるでニンジンのように高くて、耳は獣のように尖っていて、目なんて合わせようもんなら石になるような感じの怖いヤツ。
昔話や童話に出てくる魔女のほとんどが、悪役的なポジションだったせいで植え付けられた先入観かもしれない。
……しれないが、俺の目の前にいる自称海の魔女はいたって普通の女。とても魔女には見えない。
今俺の家のリビングには、バカ人魚と自称魔女が座っている。
「で、自称魔女とやら。お前は何しに来たんだよ」
三人分のホットコーヒーを出しながら尋ねる。しかし肝心の自称魔女は俺の話よりも、目の前のコーヒーに興味津々だ。
「……これは何ですか? イカの墨か何かですか?」
「お前もかよ!」
何なんだ。海の世界では、黒い飲み物イコールイカの墨なのか。と言うか飲むのか、イカの墨を。
「ふっふっふ! モジョでも知らないことがあったのですね! これは、こぉひぃと言うものですわ」
「まぁ! セリア様! 少し離れていた間にずいぶん博識になられましたね!」
「元からですわ!」
「調子に乗んなよお前」
何が元からだ。お前最初にコレ飲んで吐いてたじゃねぇかよ。
「わざわざ私なんかのために、ありがとうございます。いただきます」
「お、おう」
今までにないキャラに戸惑ってしまう。ワガママ人魚と違って、海の魔女はどうやら謙虚らしい。
コイツだったら、セリアよりは話がわかるかもしれねぇ……。
「ぶっはぁぁぁぁぁぁぁ」
なーんて思っていたら、モジョの口からコーヒーの滝が現れた。
そうだよな! セリアと仲よさそうだもんなコイツ!
変人の友達は変人だよな!
わかってたよ、多分こう言うオチだってな!
「モジョ! 耐えるのですわ! それをゴクゴク飲めてこそ、人間界に馴染めたということにオェェェェ」
「お前らコーヒーに土下座しろ!」
仲良くコーヒーをリバースさせる二人に、俺は涙目になって叫んだ。もうカーペットはホルスタイン柄ではない。闇色。黒とかじゃなくて闇。俺の心そのものってことだよバーカ!
「本当に失礼致しました! 初対面であるにも関わらずこのような失態……。敷物まで汚してしまって、本当に申し訳ありません!」
「いいよ別に! セリアからもらった金がたんまりあるからな!」
「全てはお金で解決できますわ。何だったら、また用意できますわよ?」
「やめろ!」
「まぁセリア様! 私が分け与えている魔力を、そのように使ってはいけません。お金は確かに万能ですけれど、人間を狂わせる怖いものでもあるのです」
そう言うと、モジョはおもむろに立ち上がった。
「人間界で使用する魔法は、ささやかなものにしてくださいと言ったはずですよ」
モジョがパチンと指を鳴らす。
すると闇色に染まっていた俺のお気に入りのカーペットは、どんどんと元の純白に変わっていく。
「おお! 元に戻った!」
「まさき様。本日私は、まさき様に助言をしに参りました」
「助言……?」
「はい。セリア様の想い人の件です」
モジョの言葉に、セリアも即座に反応する。
「今のところの手がかりは、オレンジ色のネックレスというだけでしたよね? それだけでは、なかなか探しようがないもではないかと思いまして。もう一つ、ヒントを与えに参りました」
「やった! 早く教えてくれ!」
思わず体が前のめりになってしまう。
ヒントは多ければ多い方がいいに決まっている。本当は、もう名前まで聞いてしまいたいところだが、ヘタなことを言うとセリアにアパートを爆破される危険性があるため、強気には出れない。
「まさき! その喜びようは何ですの! 私と出会ってから一番の笑顔ですわ!」
「そんなことねぇよ! カーペットがキレイになって嬉しいだけだ」
「あぁ、そうですの。びっくりしましたわ」
そんなワケがない。確かに協力してやるとは言ったが、早く平凡な日常に戻りたいという気持ちには変わりないのだ。
……つーか、コイツ騙しやすいな。
「ただし、一つ条件を出させてください」
「えっ」
タダで教えてもらえると喜んでいた俺は、思わず硬直する。
「何だ、条件って」
「まさき様が、もう一度水泳を始めたら教えてあげます」
「……はぁぁ?」
モジョの言葉に、セリアは飛び上がって喜んだ。
「やったぁですわ! またまさきの泳ぐ姿を見られるのですね!」
「そうです、そうですよセリア様!」
「……っ、テメェらグルだったのか!」
そうまでして、何故俺を泳がせたいのか全く意味がわからない。
「おいモジョ! 何でそんな回りくどいことすんだよ! お前だって、早くセリアの探し人見つけて幸せになってもらった方がいいだろ!」
「私はいつでも、セリア様の味方なのです」
「さすがモジョですわ!」
「うふふっ。光栄です」
「うふふっじゃねぇぇ!」
セリアはモジョの頭を撫でながら、勝ち誇ったような目で俺を見ている。
ちくしょう。俺の味方ゼロかよ!
「セリア。お前だって、早く見つけたいって思ってるんだろ?」
「……それはそうですけれど、その前にまさきの泳ぎが見たいんですもん」
「見たいんですもんじゃねぇよ……。俺はもう泳ぎたくねぇって言ってんのに」
「だけど、まさきの泳ぎを待っている人は私だけではないはずですわ」
「……」
わかったようなことばっかり言いやがって。
そりゃぁ、モジョの力でセリアは俺の過去を全て見ているんだろう。全く、プライバシーのカケラもない。
「まさき様、私からもよろしくお願い致します。セリア様の望みを叶えてあげてはくれませんか?」
モジョが眉をへの字に曲げて懇願してくる。
「私も、出来るだけのことはお手伝いするつもりですので」
「……はぁ」
何にせよ、俺に拒否権はない。セリアもモジョも魔法を使うことが出来る。それこそ、俺を消し炭にすることだって可能なはずなのだ。
「……わーかったよ! わかりました! 何を企んでんのかはしらねぇが、泳げばいいんだろ泳げば!」
「いやったあですわ! モジョ! まさきったら案外チョロ……頑張りましたわね」
「えぇセリア様! まさき様は思ったよりチョロ……いいえ、まさき様はとても物分かりのいい方でした」
「おいお前ら今なんて言いかけたんだ!」
悪かったなチョロくてよ!
とりあえず、セリアの目の前でプールやら海やらに飛び込めば満足すんだろ?
それでヒントがもらえるんなら万々歳だ。
「私がまさきの青春を取り戻してあげますわ!」
「私も精一杯お手伝いいたします!」
「「えいえいおぉぉ!」」
「うっせぇよお前ら! 近所迷惑だろうが!」
何が青春だバカヤロウ。
俺の青春は、もうとっくの昔に終わっているのだ。もはや、今は余生を楽しんでいるという感覚でいたっていうのに。このバカ人魚の側にいる限り、どうも平穏は訪れないらしい。
こうして本日めでたく、海の魔女が仲間(?)になったのだった。
「おはようまさき! セリアちゃんはまだ来てないんだねっ。昨日はちゃんと仲直りできたの?」
「あ、あぁ、まぁ」
「そっかそっかぁ! 良かったぁ! メガネと心配してたんだよ。んで、今日はどんな計画立てようかっ⁉︎」
次の日。
登校して早々、優が目をキラキラさせながら近寄って来た。相変わらず口の端にはご飯つぶをつけている。
「落ち着けよ優。とりあえず、今日も米ついてるから」
「え、えへへ。ごめんねぇ」
いつものように取り除いてやる。何だかこの一連の流れが、俺と優の挨拶代わりのようになってきているようだ。っていうか、いい加減鏡確認するクセをつけろっつーの。
確かに、優の言うようにセリアはまだ登校していないようだった。昨日あの二人は、
「明日楽しみにしていますわね!」
なんて捨て台詞を吐いていたのだが、遅刻か。大方まだグゥグゥ寝てんだろ。
「あのね、私クラスの男子に聞いてみたんだよ。オレンジ色のネックレスのこと」
「お、まじか。どうだったんだ?」
「あのねぇ、どうもうちのクラスにはいないみたい。ただ、オレンジ色じゃないけどネックレスをしている男の子は一人だけいたよ」
「誰だ」
「僕だ」
「うわぁ!」
背後から聞こえてきた重低音の声に、思わず飛び跳ねてしまう。
「メガネかよ! お前びっくりさせんなっつーの! てか、お前ネックレスなんかしてたっけ」
「何だ、忘れたのか。まさきがくれたんじゃないか」
「あー、そう言えばそんな気も……」
確か、高校に入学したばかりの頃だったか。
もともと俺が気に入ってつけていたものだったが、あまりにもメガネが羨ましそうにしていたから、誕生日にプレゼントしたのだ。
「これだ」
メガネが白シャツの隙間からネックレスを取り出した。
シルバーチェーンのネックレスで、ペンダントトップは同じ素材でダイヤの形をしている。
「この輝きが素晴らしいんだこれは。まさきにもらってから肌身離さずつけているぞ」
「えっ、きもいな」
「ひどいな」
「残念ながら、メガネのはセリアちゃんが言ってたオレンジ色じゃないからねぇ。他のクラスを当たってみたほうがいいのかもね」
「あ、それなんだけどさ」
俺は、優とメガネに昨日のモジョの件を話した。もちろんモジョが魔女だと言うことは伏せている。
つじつまを合わせるのはすげぇ大変だったが、とりあえず俺の泳ぎを見せれば、セリアの思い人について有益な情報を得られるとだけ伝えた。
「そ、その人は何者なんだ」
メガネがごもっともな質問をぶつけてくる。
そりゃそうだ。俺が逆の立場でも、そんな怪しい奴がいたら気になるに決まっている。
「い、いや俺もよくわかんないんだけどさ、なんか俺が水泳やってた時のファンらしくてさ。どうしても俺の泳ぎが見たいんだってよ」
何言ってんだ俺。恥ずかしすぎるだろ。これじゃ自画自賛だ。
「そうなんだ! 確かに、まさきは本当に速かったもんね! クロール!」
「と言うか、その人はセリアさんの一目惚れの相手を知っているのか?」
「あぁ、た、多分」
かっこ、魔法のおかげ、かっことじ。
「じゃぁ教えてくれればいいのにな。なぜそんな回りくどいことをするんだ」
それは俺が一番思っていることだっつーの! なーんてツッコミを心の中で叫びながら、一生懸命シラを切る。
「さ、さぁ? 変わり者だから、俺にもよくわかんねぇよ」
「なんだかすごく謎な人だねぇ。本当に信用しても大丈夫なのかなぁ」
「そ、そうか?」
その時、ホームルーム開始を告げるチャイムが鳴り響いた。優とメガネがあわてて自分の席へと戻って行く。
助かった。これ以上突っ込まれたらボロが出るところだった。とりあえず安堵する。
っていうか、あの馬鹿人魚は何してんだよ。
……困ったことにその後、一限目が始まっても二限目が始まってもセリアは現れなかった。
(アイツ、今日は休むつもりなのか……?)
あっという間に昼休みになった。
相変わらずセリアは登校して来ない。まだ寝てるのだろうか?
まぁ俺の知ったこっちゃないんだけど、昨日あんなに意気込んでいたのだからどうしても気になってしまう。
(なんか、気がついたらアイツのペースに乗せられてるような……)
それじゃダメだ。俺まで変人の仲間入りになってしまう。
気分転換をしようと、お気に入りのコーヒーが売ってある自販機の前までやって来た。
今日優が作って来てくれた弁当の中身は、この間と同じ卵や新鮮な野菜が挟み込まれたサンドイッチだった。パンとコーヒーは鉄板だろ。
「まぁ……今日の昼飯はゆっくり堪能できそうだな」
「何がですの?」
「何がって……うわぁ!」
俺の手から百二十円が滑り落ちた。出た。結局今日も出やがった、バカ人魚が。
「まぁ! 落ちましたわよまさき! お金は大事にしないとダメだって、モジョが言っていましたわ」
「お前だけには言われたくねぇよ!」
コイツにとってはいとも簡単に用意出来るジュース代でも、俺にとっては大金なのだ。
「って言うか、お前なに堂々と遅刻して来てんだよ」
「あ、私これが飲んでみたいですわ」
「聞けよ!」
セリアは勝手にりんごジュースのボタンを押した。キングオブ人の話を聞かない人魚だ。
「開けてくださいまし」
「全くお前はよ!」
「そうそう、まさき。モジョが今日あなたの泳ぎを見たいと言っていますわ」
「ほらよ、開いたぞ。……今日?」
「ええ。もうそこにスタンバイしていますわ」
「はぁぁ⁉︎」
セリアの指差した先には、我が高校の大きなプールがある。と言っても、うちの高校には水泳の授業はなく、使用しているのは水泳部くらいだ。
そのプールサイドで、見覚えのある緑色の長髪女がひらひら手を振っている。
……モジョだ。
「マジかよ急すぎだろ……」
「さすがにまさきも心の準備があるでしょうから、放課後まで待ってあげるそうですわ。わぁ! この飲み物、なんて美味しいんでしょう! あの激不味かったこぉひぃと大違いですわ!」
「おいコーヒーナメんなよお前」
「てへ」
「てへじゃねーよ! どこで覚えたんだその言葉!」
「日々成長してるんです!」
いつの間にかに「てへぺろ」を習得していたセリア。可愛さアピールなのだろうが、俺の前では逆効果。よりムカつき度がアップしただけだ。
……というか、昨日はまだ気楽に考えていたが、本当に俺は泳げるのか?
いくら中学生の頃は得意だったと言っても、やめてからもう二年近くなる。やめようと決意した瞬間から一度も泳いでいないのだ。
「……水泳部には許可とったのかよ」
「はい、それはもちろんですわ。朝倉まさきの泳ぎなら、皆見てみたいと賛成してくれました」
「……」
「まさきは、今も有名人なのですわね」
「好きで有名なワケじゃないけどな!」
確かに、この地域の水泳大会の賞を総ナメしていた時期はあった。おかげで名前だけは知れ渡り、この高校に入学してからも何度水泳部にスカウトされたことか。
それを全て蹴散らして、俺は平凡で地味な生活を手に入れ、代わりに青春を失った。
まさか、また泳ぐことになるなんて夢にも思わなかったワケだ。
「お前、モジョに絶対約束守れって言っとけよ!」
「ええ、もちろんですわ!」
片手にりんごジュース、片手でブイサインをしながらセリアは得意げに笑った。
(……俺、準備運動とかウォーミングアップとかした方がいいのか?)
何しろブランクが長すぎる。一瞬迷ったが、
(まぁ大丈夫だろう。水に入れば、感覚が戻ってくるはずだ)
と、自分の力を過信したことが後に、自分の首を絞めてしまうことにこの時の俺は気がつかないのだった。
「なんだよこの人の数は!」
放課後。
水着に着替えた俺を待っていたのは、大勢のギャラリーだった。ほとんどがこの学校の水泳部だが、セリアとモジョ、そして優とメガネまでいる。
「まさきさん! 俺、昔からまさきさんのこと憧れてたんス!」
「あの泳ぎが間近で見られるなんて光栄です!」
「ぜひ参考にさせてください!」
「お、おぅ」
俺、こんなに人気があったのか。水泳部の奴らはキラキラした瞳で俺を見ている。まるで芸能人になった気分だ。
「頑張ってね、まさき! 応援してるよぉ」
「ファイトだまさき」
「……お前らまで何見に来てんだよ」
「「面白そうだから」」
「声揃えんな!」
俺の幼なじみ二人組は、どうやら好奇心だけで応援に来たらしい。
「でもでも、まさきの泳ぎが見られるなんて本当に久しぶりだもん! もう二度と見られないと思ってたから……」
優がシリアスな雰囲気を醸し出そうとしているが、奴の口の端にはおそらく休み時間に食べたチョコレートのカケラがくっついている。
「俺だって、もう二度と泳ぐつもりはなかったけどな」
「まさき! 準備は出来たかしら?」
「まさき様……ファイトです……」
セリアとモジョがワンセットで現れる。
「あぁ、準備はいい……ってモジョ! お前なんだよその顔色! 死体みたいになってるぞ!」
「昼休みからずっとプールにスタンバイしてたら、熱中症になってしまいまして……」
「バカなのかよお前はよ!」
本当に海の魔女なのかコイツは。
ちなみに、モジョはセリアと俺の親戚だってことにしてある。っていうか自称親戚多いなオイ。これ以上登場人物が増えてしまったら、俺でも誰が親戚か把握出来なくなってしまうだろう。ぜひ勘弁していただきたい。
「モジョさんって不思議な名前ですよね!」
「あぁ。僕も初めて聞く名前だ」
そしてこの奇妙奇天烈すぎる名前をいとも簡単に受け入れてくれる俺の幼なじみは、純粋というかバカというか多分バカだ。
「モジョさん! モジョさんはセリアちゃんの好きな人のこと、知ってるんですよね! まさきの泳ぎに納得したら、絶対ヒントくださいねっ!」
「えぇ、もちろんです」
優がメラメラ燃えている。早く口の端のチョコレートに気がついてほしいが、多分俺が取らなかったら放課後までそのままだろう。
その時、俺の隣のレーンに爽やかな雰囲気の男が現れた。
彼は水泳部のエースらしい。一人で泳いでもカッコつかないということで、今から彼が俺の相手をしてくれる。
「まさきさん。今日はあなたと泳げるなんて光栄です。俺は田中サトシと言います。本気でいきますので、どうぞよろしく」
まるで歯磨き粉のシーエムのようにピカピカした歯を輝かせながら、対戦相手である田中が握手を求めてくる。
「はは……。お手柔らかに」
しかし俺が右手を出した瞬間、田中の顔つきが変わった。
「朝倉まさき。お前なんてまた潰れればいいんだよ」
「……⁉︎」
それは、風にかき消されてしまいそうな声だった。
でも確かに、目の前の田中から発せられた声だ。
握手が終わると、何事もなかったかのようにスタンバイし始める。
(……なんだ、コイツ)
敵意むき出しじゃん。何故だ。俺はコイツのライバルでも宿敵でも親の仇でも何でもない。
「まさき。なんだかアイツ、嫌な感じですわ。気をつけてくださいましね」
セリアが俺に耳打ちをしてくる。
「……あぁ」
大丈夫だ。これはただの遊びだ。試合でもなんでもない。前のように泳げれば、何の問題もない。
俺はそう自分に言い聞かせながら、スタート台に立つ。
(……久しぶりだな、この感じ)
塩素の匂いや、生ぬるいこの風。
そして、スタートの合図がかかるまでのこの緊張感。
ここに立つと、嫌でも思い出してしまう。
「では、僭越ながら私がスタートを切らせていただきますわ!」
セリアの声が響いた。
「お二人とも、位置についてくださいまし!」
ゴーグルをつけて、スタンバイする。
次の瞬間、甲高い笛の音が聞こえた。
プールに飛び込むと、ひんやりとした感触が体を包んでいく。この間飛び込んだ海とはまた違った感触だ。
必死に水を捕まえて、前へ前へ掻き出していく。
何度か水面に顔を出して横のレーンを確認したが、田中の姿は捉えられない。
(よし、このまま……)
前へ前へ。
足よ動け。
こうしてがむしゃらに泳いでいると、中学生の頃の記憶がフラッシュバックしてくる。
毎日クタクタになるまで泳いで、泳いで、泳いだ。
こんなに夢中になれることなんて、俺の人生の中でもう見つけられないと本当に思っていた。泳ぐことだけは、誰にも負けないと思っていた。
――だけど。
「う……っ⁉︎」
その時、右足に強烈な痛みが走った。
(ヤベェ、つった!)
自分の力を過信して、準備運動を怠ったツケが回ってきたのだろうか。
だんだんと足に力が入らなくなっていく。
(ク……ソ)
完全に動きが止まってしまった。そんな俺の横を、水しぶきを立てながら田中が通りしぎていく。
せめてゴールだけはしなければ。
そう思うのに、足がうごかねぇ。
「まさきーっ!」
誰かの叫び声が聞こえる。女の声だ。優か、セリアか。
「諦めてはダメですわ! 泳ぐのですまさきーっ!」
……諦めたらダメ、か。もう遅いんだよな。
――俺は水泳を諦めた。
あんなに打ち込んでいた水泳だったが、中学最後の大会でものの無残に負けて。
あぁ、俺才能ないんだ。
そう思った。だから、捨てたんだ。
青春ってヤツを。
結局、この後俺が田中に追いつくことはなかった。